★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ32 > 293.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
12月5日 西尾幹二先生講演会 早稲田大隈講堂:「現代の少女達はなぜ羞恥心を失ってしまったのか」 [株式日記と経済展望]
http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/293.html
投稿者 あっしら 日時 2003 年 12 月 08 日 18:09:15:Mo7ApAlflbQ6s


2003年12月7日

儒教と呼ばれた社会シュミレーション 橘 翼のホームページ:http://babu.jp/~uqmk/bunko/jukyo.html

(前略) 男女が結婚して夫婦となることで、初めて父と子の関係が生じ、父と子の関係があって初めて君臣や上下の序を整える礼儀すなわち儒教道徳は成立するといった意味だが、逆に言えば、儒教道徳を否定すれば、生まれて来る子の父親を特定することが無意味になり、父と子の関係は成立しなくなるとともに、女性達は羞恥心を持たず、不特定多数の男性とセックスを楽しむため、結婚という制度も崩壊すると示しているのである。すなわち儒教道徳は男尊女卑を前提としているので、男尊女卑があって初めて女性は羞恥心を持ち、セックスの相手を特定し、夫婦となってその男性の子を生もうと考えるようになるのだということである。

 ただし儒教で言う男尊女卑は、中世ヨーロッパのキリスト教徒のように、神の定めとして「女性は生まれながらに穢れている」と蔑むのではなく、男性が女性から尊敬されるべき人格を養うことを要求するものであって、決して武力や経済力で女性を隷属させようとしているのではない。

 一般に、モーソ族のような社会は母権制社会、他の結婚という制度を有する社会は父権制社会と呼ばれているが、この両者を比較してみると、男女平等は幻想に過ぎず、人間社会は男尊女卑か女尊男卑かの何れでしかなく、それは社会が結婚をどのように位置付けるかで決まって来るように思える。

 そう言えば3〜4年前、ヨーロッパの女性についての興味深い記事が新聞に載っていた。
 男女平等が最も進んだ国のひとつデンマークでは、結婚する男女の数は年々減り続け、代わって未婚の母が急増し、今では全出生数の約2割が婚外子だという。それにその婚外子、父親が特定できない場合も相当数あるらしい。また、未婚で未出産の女性の中にも、結婚はせずに子供だけ欲しいと考える人々も少なくないとのことである。

 この傾向は単にデンマークのみならず、実数には多少の差異があるものの、他のヨーロッパ諸国や米国でも顕著で、将来的にはさらに進むものと予測されている。

 考えてみると、女性が自立し、婚外子が差別されない社会であれば、わざわざ結婚という手続きを踏み、父親役を男性に求める必要はどこにもなく、父親が不必要ならば、生まれて来る子の父親が誰であろうと問題ではなくなるのが、自然の成り行きというものだろう。

 いや、むしろ積極的に父親を特定できないようにした方が、女性には好都合である。
 結婚しないのだから、当然嫁姑の関係に悩まされることはなく、子供は自分の思いのままに育てられ、自由気ままに不特定多数の男性とセックスを楽しみ、さらにはそのことで金銭を受け取ったとしても、誰にも咎められないどころか、却って憧れの眼差しで迎えられよう。

 欠点と言えば、男女間に「愛」といった精神的な繋がりがなくなることだろうが、愛を信じて結婚しても不幸になる場合が往々にしてあることからすれば、自分の母親や兄弟姉妹およびその子供といった肉親の絆を強固なものにしておけば、心の寂しさは癒せよう。

 もっとも優れた能力を有する特定の男性だけは、この競争社会の中、優秀な子孫を残そうとする女性達から子種提供者として引っ張りだこになり、父親としての地位も与えられよう。しかし一般庶民の男性は、そうはいかない。女性に快楽を提供するための、言うなれば使い捨てのモノでしかなくなってしまう。

 これではモーソ族と同じ女尊男卑の母権制社会の到来である。
 と言うと、何やら誇大妄想の様相を呈しているかのように思われても、致し方ないところだが、昨今の不倫や援助交際には、どうしてもそんな兆候を感じてしまう。
 少なくとも男尊女卑の否定が叫ばれるに従って、羞恥心を顧みない女性が増えつつあるのは事実である。

 羞恥心と言えば、『旧約聖書』冒頭の「創世記」、そのアダムとイブのところに、こんなことが書いてある。
 神は、禁断の木の実を食べて羞恥心を知ったアダムとイブを、エデンの園から追放するわけだが、その時イブに対し、「おまえは夫に情熱を燃やすが、夫はおまえを支配する」と告げているのである。

 夫に情熱を燃やすというのは恋愛感情、おまえを支配するというのは男尊女卑を指すわけだが、何やら羞恥心により恋愛感情が育まれ、それが社会を男尊女卑にすると示唆しているかのような印象を受ける。

 また、イブが先に禁断の木の実を食べ、アダムはイブに勧められたから自分も食べたとあるのだから、羞恥心を知る前は、イブすなわち女性がイニシアチブを取っていたのであって、要するに二人の間は、それまで女尊男卑だったことになる。とするとここでも羞恥心のあるなしが、男尊女卑と女尊男卑を分けているのだと言えよう。

 モーソ族のような閉ざされた少数民族ならば、社会全体がひとつの大家族のようなものだからそれでよいが、我々が住む巨大社会にあっては、他人同士の男女が夫婦という単位を構成して家族となることで、初めて人々に思いやりの心が培われ、社会は平和になるのではないだろうか。

 街行く見知らぬ他人も、もしかしたら自分とどこかで血の繋がりがあるかもしれない。あるいはこれから親戚の誰かと夫婦になり、一族の和の中に入って来るかもしれない。
 コーヒーショップの窓辺に腰掛け、ガラスの向こう側の風景の中に、そんな幻想を思い描ける世の中であってこそ、他人に対して優しくなれるのではないだろうか。

 しかし個人主義と称して、「家」という単位や父系の血統を無価値としてしまえば、要するに他人は永久に他人のままであり、利害関係以外の繋がりを持ち得ない。その結果、人間は利己主義になり、力で他を圧倒することが謳歌され、目先の利益や直情的快楽追求を人生のテーマとしない慎ましやかな人間は行き場を失い、社会は荒廃し、犯罪や暴力の蔓延になす術がなくなる。

 いささか悪夢のようなシミュレーションになってしまったが、要するに儒教の根底に流れる価値観では、女尊男卑は人間を打算的にし、思いやりの心を育むためには男尊女卑が必要なのだということである。ただし、男尊女卑があれば自然に思いやりの心が育まれるのだと考えてはいけない。生活の中に、それを実践する心の余裕ができるということである。男尊女卑の上に胡座をかいているだけでは、無論、思いやりの心など生まれようはずがない。

 キリスト教が男尊女卑を前提に、貞操や博愛、正義の重要性を主張するのも、このようなシミュレーションに基づいていたのではないだろうか。
 ともあれ儒教や男尊女卑についてはこのくらいにして、この辺でインドの仏教とキリスト教との共通点にも触れておきたい。(後略)

(私のコメント)
一昨日の5日に早稲田大学の大隈講堂で西尾幹二先生の講演会があったので拝聴してきました。前半は外交、防衛問題について論じ、後半は教科書問題や教育問題についての二部構成だった。外交防衛問題はこの「株式日記」でも主要課題としていつも取り上げているので、今日は改めて触れず、後半の教育問題における中から西尾先生の公演内容をコメントしてみたい。

教科書問題も教育問題も、ここで何度も取り上げてきましたが、戦後間もない頃の東大で教育された世代の文部官僚には、マルクス主義や過激なフェミニズムなどの思想にかぶれた人たちがおり、形を変えて日本の教育界に生き残っている。ちょうど全学連の一番盛んだった年代の文部官僚たちだ。

国会内では、社民党のようなマルクス主義や過激なフェミニズムの政党は今や絶滅寸前になっているが、全国の学校教育界には日教組やそのシンパがそのまま残っている。西尾先生が講演の終わりの20分ほど「羞恥心」のことについて述べていた。現代の若い人、特に女性に目立った現象として電車の中でお化粧などをしたり、床や地面にセーラー服のまま座り込んだりといった「羞恥心」の欠如した女子高生が目立つ。

これらは教育界の過激なフェミニズムによる教育の成果なのだろう。おそらく男尊女卑と言っただけでほとんどの人が拒否反応を示すだろう。人権問題から見ても男女に差があってはならないのは当然だ。しかし道徳の問題や倫理面の問題として男と女とでは差があるのが当たり前でなないのか。ものごとの価値観に到るまで男と女は同じでなければならないとするのが行きすぎだ。

最近では夫婦別姓の問題など、社会の一番小さな組織である家庭崩壊につながる問題まで論議されている。子供から見ればお父さんとお母さんがどうして違う姓なのか迷うことだろう。子供もどちらの姓を名乗るかとても微妙な問題になる。つまり戦後は大家族制度が崩壊し核家族が一般的になりましたが、その核家族も分解しつつあるのだろう。

核家族が分解すれば母子社会あるいは母権社会がやってくる。つまり女性たちは結婚からも解放されて、父親のいない母子家庭が多くなってくるのだろう。現に未婚の母が増え、一時的に結婚しても離婚して母子家庭となるケースが増えてきている。過激なフェミニズムが行き着けばモーソ族のような母権制社会がやってくる。

西尾先生は羞恥心を持たない子の親自身がすでに羞恥心を失い、子供が羞恥心を知りえなくなっていることを指摘していた。羞恥心と言うのは道徳のように教育で教えられるものではなく、人間の感情の深いところの問題であり、日常生活の中で絶えず繰り返すことで身に付く感情なのだろう。

最近は町を歩いてみても女性がスカートをはかなくなった。スカートをはいている女性は10人に1人ぐらいだろう。ほとんどはジーンズやスラックスがほとんどだ。ファッションでもジャンダーフリーが進み男と女の服装にも同一化が進んでいる。職業も警察官から自衛隊まで女性の進出が盛んで同一化が進んでいる。これもフェミニズム運動の成果だろう。

しかしこの事による副作用も出てきている。羞恥心を失った女性たちの出現だ。この事が家庭の崩壊を招き、未婚の母達の増加とフリーセックスが蔓延して、社会組織の弱体化と崩壊を招くだろう。警察官だって女性で暴漢を取り押さえることが出来るのか。軍隊も女性が混ざった軍隊が果たして軍隊として戦争に勝てるのだろうか。

橘氏の論によると「羞恥心」のあるなしが、男尊女卑と女尊男卑の分かれ目になると指摘している。つまり羞恥心をなくした女性たちの出現は、これから女尊男卑の社会が日本に訪れることを予言しているのだ。そのことが家庭の崩壊と社会組織の崩壊と国家の崩壊が必然的に訪れることになる。そしてアダムとイブがりんごを食べる前の原始社会に戻り、モーソ族のような母権制社会がやってくる。


http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu60.htm


 次へ  前へ

Ψ空耳の丘Ψ32掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。