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(回答先: <海上自衛隊>鳥島でミサイル試験 12月に実弾使用 [琉球新報]2003年9月18日 【プロパガンダの成果】 投稿者 なるほど 日時 2003 年 10 月 18 日 05:07:16)
題名:No.134 沖縄レイプ事件と東アジアでの冷戦の終結
From : ビル・トッテン
Subject : 沖縄レイプ事件と東アジアでの冷戦の終結
Number : OW134
Date : 1997年11月19日
OWメモでは先週まで「日米防衛協力の指針」(新ガイドライン)の分析を行ってきました。今週と来週は、この指針に関連して、日米安全保障体制の負担をこれまで一手に引き受けてきた沖縄の状況を取り上げます。日本の平和や繁栄が沖縄の犠牲の上に成り立っているという実態を示すレポートですので、是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
(ビル・トッテン)
沖縄レイプ事件と東アジアでの冷戦の終結
チャルマーズ・ジョンソン
ベルリン市民がその大君主に抵抗して、都市を分断していた壁を取り壊し始め、ヨーロッパでは1989年に冷戦が終結した。東アジアで冷戦が終わり始めたのは、それよりもずっと後の、1995年9月4日、沖縄で3人の米兵が12歳の少女を誘拐し、暴行した日であったと私は思う。この暴行事件に対する日本そして韓国の反応から、東アジアには依然として冷戦関係が続いていることが明らかになった。特に10万人もの米軍がこの地域に駐留していること、さらには米国と東アジアの貿易相手国との関係においては、経済と安全保障が不自然に切り離されていることに注目が集まった。そのために、日本人の中には沖縄を日本の最も貧しい県というだけでなく、キューバのグアンタナモにある米軍基地の日本版だと見なす人さえいる。
東アジアでの冷戦の終結はヨーロッパのそれとは異なる。ヨーロッパではソ連が超大国の地位から降りるのを黙認したのに対し、米国は何事もなかったかのように以前と同じように振る舞っている。1996年4月の東京サミットで日米安全保障条約が再確認されたことは、米国が前方基地として日本と韓国を維持しようとしていることを明確にした。米国は日本と韓国を「21世紀に向かってアジア太平洋地域の安定した繁栄の環境を維持するため、そして共通の安全保障目的を達成するための基礎である」と考えている。
米議会上院軍事委員会で行われた長官指名承認のための公聴会において、次期国防長官であったウィリアム・コーエンは「アジア太平洋地域での安保関係に新たな焦点を当てたい。北朝鮮からの脅威ばかりではなく、この地域の主要国の間の対立および不安定な状況は米国の国益を危うくする恐れがある」と述べ、さらに「米国はアジアでの軍事プレゼンスを維持するだけでなく、同地域における安全保障面の関与を拡大すべきである」と表明した。コーエンは99対0で米上院より国防長官に指名承認されたが、上院では彼の発言を検討さえしなかった。
コーエンの発言の中でもっとも興味深いことは、日本と米国が共通の安全保障目的を持っていると決めてかかっていることと、米国の軍事プレゼンスを経済の繁栄と結び付けていることであろう。戦後、日本と米国は様々な側面で関係を持ってきたが、貿易と防衛は常に分離されてきた。日米両政府は、日本の巨額の貿易黒字と米国民による日本の防衛負担との間には、全く関係がないよう見せかけるために、あらゆる努力を払ってきた。冷戦が終わった今、そのように貿易と防衛を分離し続ける理由は何もない。しかし両国は、米国が太平洋の安全保障を一手に引き受け、日本が経済的利益を一人占めするという、今までの分業体制を変えようとはしない。
冷戦の間、米国は日本が中立に傾くことを恐れ、日本をアジアにおける共産主義の防波堤の発展モデルにするために、日本にだけ国内市場の保護を許してきた。米国はまた、日本に米国市場への輸出を奨励し、それと同時に米国から日本への技術移転を促進した。ただし、日本はその技術の所有者である米国企業に対し、日本への投資や日本市場における販売を許可しなかった。
日本の保護主義と重商主義を支援し容認する代わりに、米国は米軍基地を日本に置く権利を与えられた。日本には5万人を超す米軍とその家族が、韓国にはさらに3万7,000人が駐留している。ハワイのカウアイ島よりも小さな島である沖縄には2万9,020人の米軍兵士が駐留し、内2万7,472人が海兵隊員とその家族である。また日本は米国と意見を異にした時でも、中国やベトナムの例から明らかなように、米国の東アジアの外交政策を米国から言われるままに支援してきた。
冷戦の終結が米国を主に刺激したのは、米国が防衛してあげている国、日本に対して、米国が年間500億ドルもの貿易赤字を抱え、かつ債務が増加しているという事実であった。一方日本を刺激したのは、自国内に駐留する米軍の費用は日本持ちであるにもかかわらず、今もなお米国の保護国として見られている点であった。
米国が戦後初めて日本と安全保障条約を結んだ1951年、日本はまだ米軍占領下にあり経済も荒廃していた。2年前に中国が共産主義になったばかりで、朝鮮戦争はたけなわ、1ドル=360円という時代であった。1960年に日米安全保障条約が改定された時には、深刻な反米デモが起き、アイゼンハワー大統領の訪日は取りやめになった。米国のGNPは依然として日本の11.5倍であり、その後1993年までにその差は1.3倍まで縮まっている。
今日、日本は世界で最も近代的な産業構造を持ち、過去30年間対米貿易赤字はゼロ、米ドルの円に対する価値は戦後約80%下がり、日本には軍事的脅威もない。現在の円ドル為替レートを考えると、日本に駐留する米兵は基地を一歩出るとラーメン一杯食べることさえできない。
この状況を緩和するために米国は軍隊を自国に返すのではなく、10万人の軍隊を前方展開要員として韓国と日本に駐留させる意図を再確認し、沖縄に関しては、米軍の施設及び区域を整理し、統合し、縮小するという表面的にしか過ぎない約束をした。こうした約束さえも、日本政府が適当な代替施設を用意できるかどうかにかかっていることから、うわべだけのものであるといえる。普天間飛行場の返還を米国が約束した時の条件がまさにこれであった。日米の政府高官はその約束をした時、いかなる規模または目的であっても米軍基地を受け入れる場所が日本のどこにもないということを知っていた。そして1996年9月の沖縄県民投票において、9割の沖縄県民が米軍基地撤退に票を投じた。日本の新聞が予測しているように、5年ないし7年以内に普天間飛行場が返還されることはないと見てよいであろう。
その間にも沖縄県民は、米国の超大国気取りのもとで犠牲にされ続けるのである。国防総省は米軍は日本の招聘で日本に駐留していると主張するが、米軍の沖縄駐留の決定において、沖縄県民はいかなる発言権も与えられなかったということを忘れてはならない。事実、沖縄県民は日米両国民から再三裏切られてきた。沖縄は14世紀から19世紀末まで中国に貢ぎ物を送る独立した王国であった。その後日本が沖縄諸島を併合し、最後の王を強制追放し、沖縄を県にした。昭和天皇が連合国からよりよい降伏条件を引き出すために、1945年に沖縄を無意味な戦いの犠牲にしたと多くの沖縄県民は信じている。日本がその独立を取り戻して経済の繁栄を享受し始めるために、1952年、東京は再び沖縄を犠牲にした。1952年から1972年までの間、日本は沖縄に対し「潜在主権」のみ維持し、実際に統治していたのは米軍であった。沖縄の人々は国籍を持たず、米軍の中将にあたる琉球米国高等弁務官の保護下となった。これが米国が日本本土に対する早期和平条約で手にした見返りだったのである。
日本は日米安全保障条約の庇護のもと快適に暮らしてきた。なぜなら歓迎されない軍事基地とそれに伴う様々な問題の大部分を小さな南の島に追いやり、それによってほとんどの日本人はその問題を無視することができたからである。今日でも、いわゆる「安保条約の更新」に伴い、米軍が占領する土地や施設の賃貸料の支払い以外、日本そのものはほとんど全く貢献していない。日米同盟の物理的な対価はすべて、沖縄の人々と米国人が負担している。
1953年から1956年の間、米軍が武力で沖縄の農民からその土地を奪い、B-52戦闘機の滑走路にするためにブルドーザーで土地をならした。その滑走路からベトナム戦争の時にはハイフォン、カンボジア、ホーチミンルート(ゲリラ補給路)に幾度となく戦闘機が飛び立った。同じように東京郊外の立川空軍基地が滑走路を拡張しようとした時は、1960年の安保デモにつながったが、沖縄の場合は米軍支配下にあったため、反対デモは固く抑圧されたのである。事実、1950年代および1960年代の間、米国の冷戦計画を邪魔する者や嘉手納空軍基地建設のために強制立ち退きとなった者たちを、米軍指揮官は強制または勧誘によりボリビアに移民させた。移民といっても、アマゾン川上流のジャングル地区に置き去りにしたのである。1995年、日本政策研究所(JPRI)の主催により、米国人の手で40年前に置き去りにされた沖縄人入植者をたずねて、ボリビアのサンタクルズ近郊へ使節団を派遣した。この報告書はJPRIのWebサイトに公開されている。
沖縄はNATOとは異なり、米軍上層部が駐留したいと思う場所ではなかった。1949年、フランク・ギブニーはタイム誌(1949年11月20日号)にこう書いている。「過去4年間、貧しい、台風の吹きすさぶ沖縄は、米陸軍兵がにがにがしく“最後尾の軍隊”と呼ぶ場所であった。一部の司令官はだらしなく、無能であった。沖縄の1万5,000人以上の米軍兵のモラルは世界で最も低く、そうした彼らが極貧の生活をしている60万人の現地人を取り締まっていた。9月までの6ヵ月間に、米兵はあきれるほどの数の犯罪を犯した。殺人29件、レイプ18件、強盗16件、暴行33件といった具合である」。1972年、ライシャワー元駐日大使とニクソン大統領の陣頭指揮で米国は沖縄を日本に返還した。しかし米軍基地はそのままであった。沖縄県民は日本が基地の規模や状態をそのまま残すことを黙認したことを、現代における3番目の裏切りと見ている。
沖縄は約545平方マイル、ロサンゼルスとほぼ同じ大きさである。第二次世界大戦の最後の戦いの場所であり、また東アジアで米国が最後に軍事的勝利を収めた場所でもある。その戦いによる死亡者数は米兵が1万4,005人、日本兵ならびに民間人は23万4,000人にのぼった。その戦いがあまりにも残虐であったことを理由に、米国はその後の広島と長崎に対する原爆投下を正当化した。米国側の言い分は、戦争終結のために原爆を投下したことで、沖縄のような大虐殺を日本本土で繰り返さずに済んだ、というものであった。1945年以来、沖縄の主権に関する条約や合法性に関係なく、米軍は沖縄を占領し続けている。今日、米軍基地は沖縄本島の約20%を占めている。日本における全米軍施設の約75%が、日本の国土のたった1%にあたる沖縄に集中している。
1990年、沖縄県民は米国から基地を取り戻すことを政綱に掲げた元大学教授の大田昌秀を知事に選出した。沖縄戦のとき大田知事は高校生で兵役にとられ、負傷した。知事として彼が発起人となった戦死者追悼の記念碑が戦後50周年に完成したが、両国の戦死者の名を刻んだ戦争記念碑としては世界で唯一のものと考えられている。大田は米国の大学にも学んでおり、日本と米国が沖縄を差別してきたことに関する書籍を多く出版している。彼は、彼を選んだ人々のことを考え、かつ官僚の反対にあった時に沖縄県民を裏切らない、唯一の日本の政治家として我々の記憶に焼き付けられた。
1996年2月、大田知事の招聘で私は沖縄を訪れ、島内の42の米軍施設のいくつかを見学した。これまで、国防長官やクリントン政権の高官はもちろんのこと、北東アジアにおける10万人の米兵の駐留を2015年まで求めるレポートの執筆者でさえ誰一人として沖縄に視察にきた者はいない。その米軍基地の広大さと米国の植民地主義が露骨に表れていることに私はひどいショックを受けた。
特にひどかったのはキャンプ・ハンセンで、少女暴行事件の犯人である3人の海兵隊員が所属する基地であった。そこでは、海と、コンクリートのバラックに挟まれた小さな古い町、金武町(人口約1万人)に5,000人の海軍兵が住んでいる。ハンセンは1960年代に沖縄が直接米軍管理下にあった時に作られ、当時沖縄人は日本本土へ行くのに米国からパスポートを発行してもらわなければならなかった。過去30年間、キャンプ・ハンセンの海兵隊員は県道越しに恩納岳に向かって105mmと155mmの榴弾砲を撃ち込んできた。森林火災や土壌侵食をもたらすこれらの実弾射撃演習は、米国ではたとえネバダ砂漠にある射撃場でさえ許可されないであろう。射撃によって金武町は常に振動し、学校運営などの民間活動の多くを実質的に不可能にした。
沖縄は日本でもっとも貧しい県だが、東アジアで最大かつ最良の飛行場のうちの3つがある。そのうち日本人が入ったり、使用できるのは1つだけである。日本人が入れない普天間飛行場と嘉手納空軍基地は、冷戦のために建設され、主に基地間のライバル意識から決して統合されることはなかった。普天間は四方を宜野湾市に囲まれている。そこでは1995年10月21日に8万5,000人が集まり駐留反対のデモを行った。適当な代替施設が完成した後、5年ないし7年以内に返還する予定になっているが、沖縄県民がこの約束で思い出すのが那覇軍港である。日本と米国が20年以上も前に港を返還すると合意しながら、那覇軍港は今だに米陸軍によって統制管理されている。大田知事はこれらの軍港をフィリピンのスービック湾のように民間利用に変えたいと思っている。現在のところ、那覇軍港へ寄港する米軍艦船は1ヵ月に1隻、それ以外は尖ったフェンスと米軍:立ち入り禁止」という立て札の向こうに空っぽの港が広がる。
もう1つの象徴的な日米関係における問題は泡瀬ゴルフコースである。駐車場はこぎれいに大佐専用、海軍指揮官専用と区画され、一番ティーからもっとも遠いところには曹長専用とある。まるで英国統治の末日を風刺したような光景である。日本人(ここでは原住民と称されている)は米国軍人同伴に限り、このゴルフ場でプレイができる。
私の見解では、少女暴行事件によって日米同盟に脅威が生まれた今、米国はキャンプ・ハンセンを閉鎖し、すぐに普天間飛行場を返還し、嘉手納の騒音や環境汚染に注意を払い、泡瀬ゴルフコースを一般に公開し、那覇軍港を沖縄の管理下に戻すべきである、と考える。米議会もまた太平洋部隊とその惨澹たる日米同盟の管理について大規模な公聴会を開くべきである。今日の沖縄は、米国政府の諜報活動や秘密の武器輸出、情報収集組織を訓練する国防総省やCIAのための「隠れ家」なのである。日米安保条約が最後に論争となった37年前と大きく様変わりしている現状を鑑み、沖縄は米議会の監視と優先順位の検討を強く必要としている。
日本の新聞は定期的に「沖縄問題」を取り上げるが、歴史学者はそれを「沖縄の虚構」であるという。日々、日米政府が沖縄について言うことは、実際の行動とはますますかけ離れ、沖縄、米国、日本の国民はますます政府を信用できなくなってきている。こうして沖縄は、東アジアの冷戦の対価、そして米国の外交政策が他国に及ぼす負担無視の事実上の象徴となった。
このような矛盾が増え続けると、人々は日米政府が何かを企んでいるのではないかと必然的に疑い始める。沖縄の虚構はまず、民主主義政府に対する人々の信頼を低下させるであろう。そして、より長期的かつ深刻な影響として、日米安保条約を含む日米の友好関係に被害を及ぼす可能性が高い。
米国側の主な矛盾は、沖縄に駐留する地上部隊の撤退を執拗に拒んでいることである。米国政府は東アジアの平和と安定のために継続した米軍のプレゼンスが必要だと繰り返す。しかしもし米国が本当に東アジアにおける平和と安定への脅威を心配しているのであれば、より一貫性のある戦略を打ち出し、その実現にもっと注意を払うべきではないだろうか。米国大統領選挙から6ヵ月が経過した1997年4月現在、米国政府は日本に、そして韓国にもまだ大使を任命していないし、東アジア担当の国務長官次官補も任命していない。またその理由も説明していない。
米政権は世界中へ軍事的コミットメントを拡大し続ける一方で、大使館を閉鎖し、援助予算を削減し、国連分担金を滞納し、そして東アジアのみならずどこにおいても平和と安定の潜在的脅威に対する戦略を欠いている。国防総省の予算は全世界の軍事費の3分の1にものぼり、どの国よりも5倍は多い。ワシントンは朝鮮半島を懸念していると主張するが、韓国非武装地帯に駐留する米軍が北朝鮮からの攻撃を阻止することができなければ、より小規模な沖縄の陸軍部隊ではどうすることもできない。また対中関係は全く徹底されておらず、過去2年間に中国本土、台湾、東南アジアからの中国のロビイストたちから両党に巨額の資金が流れている証拠も挙がっている。これらすべてから示唆されることは、米国は東アジアの平和と安定よりも、東アジアに米軍を駐留し続けることに執着しているということである。
日本側の最大の矛盾は、政府が日米安保条約を冷戦構造時と変わらず永続を求めると主張する一方で、その条約について何の負担を負おうとはしない点である。その代わりに、日本政府は日本国民に条約を容認させるために巨額の金を払っている。そして4万7,000人の米軍兵とそれと同数の家族を日本に駐留させるための犠牲をほとんどすべて、無防備で長い間搾取されてきた沖縄県民に負わせている。米軍のプレゼンスが本当に日本の安全保障に必要なのであれば、もっと日本の財政や政治の中心に近い主要都市、東京や大阪に基地を置くのではないだろうか。
1972年の沖縄本土復帰以来、日本政府は簡単に沖縄問題を取り除くことができた。普天間飛行場、キャンプ・ハンセン、那覇軍港などにかかわるすべての問題は、施設を本土に移設するだけで解決する問題であった。日本政府がそれをしなかったために、多くの米軍の戦略立案者たちに、日米安保条約が有事の際に効力があるのかどうかと不信感を抱かせることになった。
米国とドイツの同盟では、米軍は実際にドイツ国内に配備されている。それに対して、日本との同盟では日本本土の国民に迷惑をかけないよう、米軍は末端地域に駐留している。博識な米国人は、多くの日本人が沖縄人を米国の人種差別主義者が少数アフリカ系アメリカ人に対するのと同じように扱っていることを知っている。そのため日本の誠意をいぶかしく思っているのである。
1995年の少女暴行事件の後しばらくして、またいくつもの事件が続出し、沖縄問題が再び注目された。それに伴い、「よき隣人」になりたいという米国の真意が疑われ始めた。1996年12月、米軍機が沖縄の首都那覇に通じる主要規定航路に大きな爆弾を投下したが、それを沖縄当局に連絡したのは数日後のことであった。その2ヵ月後、世間をあっといわせる見出しが新聞を飾った。1995年9月、少女暴行事件の直後、米海兵隊の飛行機が誤って沖縄県鳥島で劣化ウラン弾1,520発を使用したというのである。海兵隊は1年以上もそれを日本政府に報告せず、これが発覚したのもワシントンの新聞報道によるものであった。
国防総省の指揮官によれば、劣化ウラン弾は放射能が監視できる米国の射撃訓練場を除いては試射されてはならないことになっている。この種の徹甲焼夷弾は湾岸戦争で使用されたもので、退役軍人の健康問題に関するスキャンダルとなっているが、国防総省は正直に捜査を行うことを拒否している。米国が日本政府にこの事件について報告した後も、日本の外務省が沖縄県民にそれが深刻な環境問題になる可能性があることを知らせたのはさらに1ヵ月後であった。米軍はそれから独自に劣化ウラン弾の鳥島への影響について調査を行い、問題はないという発表を行った。これは本当かもしれないが、その信頼性はいわゆる湾岸戦争症候群に対する国防総省の調査程度でしかないであろう。
このような事件はこれまで数多くあった。1972年5月15日、日米両政府が沖縄基地における米軍の活動について機密協定を結んでいたことが発覚した。これまで米国は核兵器を除去したと正式には発表していたが、この機密協定によって、核兵器がずっと沖縄にあったのではないかという疑いが出てきた。また米国のよき隣人になろうという努力も裏目に出た。1997年3月12、13日、海兵隊はヘリコプターを普天間基地に止めておいた。沖縄の高校生が平静のうちに大学入試テストを受けられるようにという配慮からであった。しかしこれによって、海兵隊でさえ、通常はあまりの騒音に生徒が考えることすらできない状態にあると気づいていることが証明された。
1972年、沖縄の正式な米軍支配が終わった時、日本政府は沖縄の地主からの多くの苦情に対処しなければならなかった。地主は米軍が基地のために没収した土地を取り戻すか、またはそれに見合った補償を要求した。日本政府の回答は駐留軍用地特別措置法という法律の制定であった。それは、米軍が継続して土地を使用する代わりに、沖縄の地主が地代を受け取れるというものであった。この法律は沖縄にのみ適用された。なぜなら日本本土の米軍基地は日本政府の所有地であり、もともと私有地ではなかったからである。
およそ36.3ヘクタールの借地に関するこの法律は、1997年5月14日に期限切れとなる。土地のほとんどは、アジア最大の米軍飛行場である嘉手納空軍基地の滑走路である。約3,000人の沖縄の地主は借地延長を拒んだ。自分の土地を返して欲しいといったのである。3,000人のうちの2,900人の地主はいわゆる一坪地主で、彼らは沖縄に対する日米政府の差別に抗議して、わずかな土地を買った者たちである。橋本政権は土地を地主に返却する代わりに、米軍に土地を使用する権利を強制的に移管する新しい法律の制定にとりかかっている。(1997年4月17日、改正駐留軍用地特別措置法が可決、成立した。これにより米軍が駐留する沖縄の借用地は継続使用できるようになった。)
私の見解では、これらの2,900人の一坪地主は米国が同盟を結ぶべき人々であり、日本本土のより多くの人が一坪地主になることを奨励したい。もし外国人にもできるのなら、私も嘉手納基地の下の沖縄の土地を一坪買いたいと思うし、共感する米国人も同じようにしてほしい。日本と米国政府による私有地の没収は、東アジアにおける冷戦のもっとも不当な遺産の1つだからである。今こそ両国政府にこの状況を、表面的でなく真剣に改定する作業にとりかかることを要求する時である。
残念ながら、一坪地主の抵抗は3人の海兵隊員が起こした暴行事件が国防総省にもたらした影響程度しか日本政府に影響をもたらさなかった。代わりに、日米関係をいよいよ破壊するような、より深刻な別の事件が起きるまで、今後も両国指導者によって見せかけの政策が続くのを私たちは目にするであろう。日米両国の国民がその同盟がいかに誤って管理されているかに気づく頃には、おそらくそれは修復不可能な状況に陥っているであろう。
http://www.ashisuto.co.jp/corporate/rinen/totten/ow_text.php?B=134