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(回答先: 「アウトロー的人生論」 宮崎 学 投稿者 エンセン 日時 2003 年 11 月 06 日 15:29:41)
日時:2003/10/20(月)17:40〜18:50
於:秋田美術工芸短期大学
演題:「アウトロー的人生論」
前編からの続き
さて、そこで最初の話にもどりまして、こういった状況下において中坊公平という人の問題であります。中坊公平というような人たちを、世のため人のため働いてくれるすばらしい弁護士だろうと考えたれた方は大変だったんだろうと僕は考えますね。僕は彼の顔を見たときに胡散臭いと思いました。それはもちろん私と同郷の京都でもあるいうこともあって胡散臭ささということに関しては、私よく知っていましたものでありますから批判をしてきたわけでありますが、一番大きな問題は、常に今の社会のあり方というものについてであります。そのときそのときの社会の中にあって“ヒール”悪を見つけて、それを袋だたきにしている顔をしていればそれでことが足りると考えている今の社会のあり方みたいなところに大きな違和感があったわけであります。
例えば中坊公平がやったことはどういうことであるかというと、簡単な話が、銀行に不良債権が溜まっていた。不良債権を処理するにあたってですね、本来銀行をつぶすという方法があったわけですね。それがハードランディングと呼ばれたものなんですが、その路線をとると今まで培ってきた官僚と政治家と銀行の関係が壊れるためにそれはやらない。それじゃあソフトランディングだと。ソフトランディングするためには金を、税金を湯水のようにつぎ込まなければならない。つぎ込むにあたっては国民的な反発がある。国民的な反発を和らげるためには、どうしても正義の味方がいてそいつがやってくれるんだというストーリーにしない限り国民が納得しない。そういう形の中で誕生してきたのが中坊公平であったわけです。僕はそういうあり方自体が嫌いだと言っておるのであります。で、ましてどちらにしてもこれはボロが出るだろうと考えました。
中坊がRCCというところで詐欺行為を働いていたわけでありますけども、詐欺行為に対する刑事告訴というものは、わたしが関係者を説得して踏み切らせたものであります。なぜそうしたのかということが一番の問題になるのですが、それは “その後”の問題にあります。中坊公平が住管機構、その後のRCCの社長に就任して以降、この詐欺事件が発覚したときの対応に対する違和感です。
どういうことかといいますと、RCCが問題になったのは大阪堺市の不良債権の土地の処理をめぐる問題にあります。すでに不動産会社の社長は逮捕されておりました。逮捕したのは大阪府警でありますが、住管機構、RCCが細工をしているということをこの逮捕された人が警察に話したんですね。大阪府警がその情報を得たのは1998から1999年にかけてです。大阪府警は大阪地検に相談に行くわけです。
ところが大阪地検は「何を言っとるか、国策会社の中坊先生を逮捕などできるわけがないではないか」と言ってこの事件をつぶすんですね。最後には大阪地検ではだめだろうから東京地検にこれを刑事告訴して今回これを事件化するわけでありますが、そんなことはどうでもいいんです。私が言おうとしているのは、大阪府警が中坊公平に関するこの事実を掴んだ時にですね何が起こったかということです。
ちょうど1999年には神奈川県警不祥事が起こるわけであります。そのときに国民の警察に対する批判が噴出して、その結果として警察刷新会議というものをつくるんですね。警察刷新会議においてこういう不祥事が二度と起こらないようにするためにはどうすればよいかという話になるわけですが、そのときに中坊が委員に選ばれたわけであります。警察に情報を掴まれている人間を委員に選んで、当然警察刷新会議の出した答申は懸案であった第三者機関による警察への監察という問題を骨抜きにしたものであった。こういう構造があったために、やはりもう一度きちっと中坊をたたかなければいけないという意識に私はなっていきまして、刑事告訴を何とか当事者を説得してやってもらったわけであります。
つまり、ひとつの社会的存在が生まれる。それをメディアが全部、「正義だ、正義だ」ということで「よいしょ」する。そういうことになったときそれは絶対に不正義なんだ。メディアが「正義だ」といった途端、そいつは不正義なんだというくらい厳しい見方をしておく必要があるだろう。
つまりこの国を支配しているのは政治家とか官僚とか企業とかではもはやないであろう。これがいわゆる最近よく言われていますが、「メディアクラシー」というものであります。この国はデモクラシー「民主主義」だといいますが、民主主義などではない。メディアの支配が完成した形を取っているのがこの国なのである、とこういう風に僕は考えておりまして、まして中坊を一番「よいしょ」したのが朝日新聞、その次が毎日新聞なのですが、中坊の今回の事態が起こったときに毎日新聞は恥ずかしかったんでしょう「やっぱり僕達間違ってたみたい」というような文章を書いておりますが、いかんのはですね、朝日新聞で「そうは言ってもやっぱり中坊さんは素晴らしかった」という社説をまだ書いている。この程度の知的水準の人たちがいわゆるメディアをやっているものですから、わたしがいかにその人たちを嫌いであるかということをお分かり頂ければと思います。
中坊に関してはもうひとつ落ちがあります。中坊は記者会見で自分達がやったことはやりすぎであったと思う、最近こういう風(刑事告訴)に問われたから弁護士を辞めますと発表したわけですね。ところが中坊は今弁護士を辞めることができません。弁護士会規則に基づいてやめることができません。それはなぜかというと、今回訴えた人が弁護士会に中坊の懲戒請求を出している。懲戒請求の結論がでないと弁護士を辞めることができないんです。
中坊が弁護士を辞めると発表したあの記者会見はいったいなんだったのか?これは明らかのように住管機構、RCCという中坊や国が作った会社にたくさんの検察官が出向して行ってます。当然、東京地検がこの事件を取り扱っていますから、東京地検とのネゴシエーション(交渉)の結果、中坊が辞めると言ってくれれば刑事的な訴追はもうしないということがひとつの取引材料になっています。弁護士を辞められないにもかかわらず、弁護士を辞めると発表した。
すべてがひとつの発想―民衆の側の目を欺けるうちは徹底的に欺く―そのためには常に悪役と正義の味方が必要なんだと、こういう風な構造の社会というものはですね、非常に貧しい社会だと僕は考えているわけです。じゃあ中坊の話は最後はどうなるんだということですが、中坊は弁護士を辞めないだろうと思っています。大阪弁護士会というのは中坊の息のかかった弁護士会であります。中坊に対する懲戒請求は出ないだろう、早晩「中坊さんは悪くない」という結論を出すでしょう。それを受けて中坊はまた言うことを聞くメディアに「中坊再登場期待論」などを書かせて、それが出たので「わたくしは天職を全うしようと思います」というようなことを言って終わるのがこの話なんだろうと思います。 このようにお話しているのは、ここに参加されていらっしゃる方もやはり中坊的存在というものに対してある種の期待感を持たれたであろう。その期待感の根拠は、メディアから報道される情報を元に判断されたのであろう。メディアから流れ出てくる情報というものは、今の段階では99.9%「官」が流す報道ですね。つまり、例えば事件が起こって警察が犯人に関するある情報を記者クラブに発表しますが、その発表を新聞社は何の検証もなく流すわけでありますけれども、警察発表に誤字脱字があればそのままの誤字脱字が新聞に出てるというのが今の実情だと思いますが、それと同じように中坊を礼賛するような世論形成は「官」によって主導されて行われた可能性が高い。
もうひとつ今のメディアの状況で言いますと、北朝鮮の拉致問題があります。これに関しては私なんか異論を言うものですから、いろんなところからクレームが来るのですが、特にメディアとの関係の中でいうと、これも官僚が発表したものをそのまま引き写しているのが今のメディアなわけですね。非常に初期的な問題意識さえ持てないのがメディアであります。北朝鮮の拉致問題でメディアが持つべき問題意識というのは―拉致がひどいことであるとかむごいことであるということは一切抜きます―「日本に帰ってきた人達が何人かいる。北朝鮮で亡くなられた方が何人かいる。じゃあ、帰ってきた人たちと亡くなられた方達の関係はどんなものであったのだろうか」ではないか。
わたしは1967年に私の在日朝鮮人の友人が行方不明になったことがあったものですから、そのときから朝鮮労働党の拉致という問題に関しては、僕は一貫して主張してきた人間なのですが、そういった立場から、帰ってきた人たちが亡くなった人たちと平壌や北朝鮮で一体どういう関係だったのかということがメディアが最初に持つべき問題意識だろうと、こう思います。
亡くなった方は、亡くなるにはそれなりの理由があったんでしょう。それに帰ってきた人たちが何らかの手助けすらしたのではないかというのが私の意見であります。帰ってこれたのは特別な扱いを受けているのであるから帰ってこれたのであって、むこうで殺された人は役に立たないと向こうが判断したから殺されていったのでしょう。「真実」などという立派な話じゃないんです、「事実」がどんなもんであったのかということを考え、取材し、検証するのがメディアなんですが、それを一切放棄してお上が発表するもののコピーライトをやっていると、この間流れ出ている北朝鮮報道ようなものになっていってしまう。こういう形で世論というものは作られていく。
それによってこの国の動いていく方向が決まって行くわけですから、ある面ではいろんな問題が起こって国やこの社会が対応しなくてはいけなくなったとき、それを決定するのは民衆の意思でもなんでもない、それはメディアの意思によって動いている可能性が高いと僕は考えています。
これは今の小泉内閣にも言えることであってですね、結局小泉内閣というものは何もやらなかったということでは極めて明確なのですが、国民の人気は高い。では選挙ではどうなるのかというテーマになると思うのですが、この国のメディアは劇的な変化を望んでいない。「適当な変化」は望んでいるということであれば選挙は適当なところで終わるのであろうというのがひとつの見方であろうと思います。
例の構造改革が痛みを伴う伴わないという話があるのですが、小泉さんというのは「痛みを我慢してください」という話をしているわけです。ある労働組合でリストラにあった中高年の人たちがハローワークに通っているわけですが、このハローワークで調査したことがありまして、リストラされた人が一番支持するのが小泉さんという、ねじれた構造になるわけです。それは日本の国民というものの民度の低さの現れだと思うのですが、それよりも鋭角的に論理的に小泉という人を見る必要がある。
一番問題なのは12月に行われるイラク派兵の問題であります。この際にイラクの問題というのはですね、フセインの残党とかイスラム過激派の自爆テロが主たる危険ではないのですね。イラクにおける主たる危険というのは劣化ウラン弾という小型核兵器による放射能汚染なんですよ。そこに自衛隊を遣るということの問題点をなぜ誰も指摘しないのか。
ある新聞でこういうことを日ごろ言うものですから、いろんなところから袋叩きに遭うんですが、このイラクへの自衛隊の派兵ということを小泉さんが言うのであれば、一番先頭には自らの子供である孝太郎に旗を持たせるべきでしょう。そうすれば小泉さんは「人の痛みが好きな人」ということではないかもしれないということになるかもしれない。しかし絶対にそういうことはしない。
小泉さんの “痛み”の問題は・・・あの人は痛みが好きな人なんです。人の痛みが好きな人なんですよ。自分の痛みは絶対避ける人なんです。この程度の人なのでありまして、それもすべてですね官邸というところがありまして、官邸というところにはI島という秘書官がおりまして、これがメディアをまとめあげることに躍起になってすべての情報のコントロールを目指す。
野中広務というひとが―私と同郷ではありますが―引退してテレビメディアをめぐる利権の構造というものが大きく変わり始めた。多分、森派―小泉さんは森派ですが―が経世会の旧田中派からメディア利権を奪い取るだろうと言われておりまして、さらにメディアと政治権力とのつながりが深くなっていくだろうというようなことを一般論としてよく言う人がいますが、具体的にはどういう風な形で政治権力とメディアがつながっていくのかということを考えてみる必要がある。
例えばある小泉さんに反対するいわゆる抵抗勢力といわれる自民党の代議士がいるとします。抵抗勢力な人たちというのはどっかでやっぱり悪いことをしていますから、必ずどこかの利権がらみで警察、検察の追及を受けているわけです。そのときに、入ってくる警察、検察情報は官邸が一番早いんですよ。
例えば田中真紀子の場合ですと、地検に刑事告訴された。地検が田中真紀子を事情聴取に呼ぶか呼ばないかという事になるわけですが、「呼ばない」という情報が一番早くに官邸に入るわけですね。その情報が入った官邸はどうするかというと、田中真紀子に自分の言うことを聞かすには「検察が呼ばないように私達が努力してあげましょう」と、すでに検察は田中真紀子に事情聴取しないということが分かれば、そういう形で田中真紀子に持ちかけて、田中が官邸に逆らうことをやめさせるというようなことができるわけですね。適当なタイミングで、官邸は地検が田中を呼ばないということをわかっている上で「どうも田中が2,3日中に事情聴取されそうだ」とリークを行い、田中に揺さぶりを掛けてから、田中が言うことを聞くように仕向けていくという構造が、この間極めて明確にかたちとして見えてきた。
この最たるものが道路公団の藤井さんの問題です。今回の総裁選挙で決定打となったのは自民党の参議院議員の青木さんが小泉を応援するに至ったからですね。至らしたのは青木という人が京都の日本海側から島根に抜ける高速道路の用地取得の問題で悪さをしていた、その情報を官邸が握っていた。官邸はその上をリークすることで揺さぶることもできれば、つぶすこともできる。この弱さがあるから青木さんは結局小泉を支持するという構造になっていくわけでして、つまりきれいな言葉で言われている構造改革だとか正義だとか全部うそだという風に考えられはしないか。メディアから流れてくるその種の心地よい言葉というのがある。心地よい言葉というのは全部うそだろうと見ていいのではないかと。
同様に市民の側が自ら心地よいとする言葉にも同じことが言えるのではないか。
たとえば「被害者の人権」などという言葉があります。市民というのは「犯罪に遭う可能性が私にもある、遭ったらどうしようか」と悩んでいる、つまり市民という言葉のもつ心地よさが示している一定の批判を許さない中身は、政治権力がやっている「ドロドロ」と同質のものではないか、僕はこう思うのであります。
ですから最初の話に戻りまして、私は政治権力に関してももちろん大嫌いでありますが、同時に市民も嫌いなのであります。「市民」とか「被害者」とか「一般の人」とか「生活者」とか心地よい言葉を使えば、すべてが許されるとするような考え方が市民の側にもう存在しているのではないか。言語というものはひとつひとつ肉感性といいますか、自分の体によって感じ、体によって触れることのできる言語以外はどうしても胡散臭いものになっていかざるを得ない。よって僕なんかは今月58になりますが、齢58歳に至るまで一度として給与所得をもらったことがない。悪いことをして稼いだことは多々ありますが、給料なんか一度ももらった事のない人間から言いますと、ある種の市民的安定の中に生きていく心地よさことにあまりにもとらわれ過ぎてはいやしないか。
まあ、そういうことからどうしても私の問題意識あるいは描きたいものということになりますと、私と同類項の人間、つまり極めていかがわしくていつパクられるか分からないという人間のほうがですね、ずっと私自身は居心地がいい人たちとして捉えてしまうところがありまして、いまさら私が警察官を「よいしょ」する原稿を書いたとしても、もうシャレでしかないと思われますので、書くことはないと思います。
僕は先ほど紹介を受けたときに「作家」という風に言われたんですが、ものによっては「アウトロー作家」という表現がありますが、・・・これは間違いでしてね。「作家的アウトロー」なのでありまして、ここのところは厳密に表現していただきたい。僕はアウトローであります。この点ははっきりしております。一日ひとつかふたつ悪いことをしないと気がすみません。一日一善という言葉がありますが一日一悪、最後にやることがなくなると立小便をするというくらいですね、そういうことによって初めて自分が生きているということが実感できるのでありまして「絶対に人様に誉められるような、市民の皆様に誉められるようなことだけはするまい」と、それは権力に対しても同様であるという風な生き様をしております。
http://miyazakimanabu.com/archive/2003/11/akita02.htm