現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ31 > 137.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: テレビ朝日のケネディ暗殺検証番組(15.10.11)[週刊日本新聞] 投稿者 乃依 日時 2003 年 10 月 13 日 00:26:18)
JFK(ジョン・F・ケネディ)暗殺
1 JFKがダラスで暗殺された日
1963年11月22日、ダラスのフォートワース商業会議所の朝食会に招待されたケネディ大統領夫妻は、そこで司会者から「雨に濡れても困らないよう、いいものをプレゼントしましょう」と、テキサス・ハットをプレゼントされている。ケネディは意味じくも「月曜日にホワイトハウスでかぶりますから見に来てください」と受け答えたが、それがこの日を境にかなわぬことになろうとは知る由もなかった。ケネディ夫妻とジョンソン副大統領ら一行は、その後の予定ダラスの昼食会に出席するため飛行場に向かった。
ダラスのラヴ・フィールド空港に着いたケネディ大統領一行は用意されたリムジンに乗りこむ。やがて大統領の車はメイン通りからヒューストン通りに右折した。
ラルフ・ヤーバロー上院議員は信じられないというようにジョンソン副大統領の顔を見つめた。「何だね?なぜこの道をまっすぐ行かないんだね?間違ったところで曲がってしまっているぞ」副大統領の運転手ハーチェル・ジャックスがこれを聞きつけて、誰にともなくつぶやいた。「文字どおり、まったくのUターンだ」【参考=JFK暗殺現場ルート変更略図、JFK暗殺者資料1、オープンカーでのヤーバローとジョンソン】
かくして大統領の車はヒューストン通りからエルムに入り、昼食会会場であるトレード・センター・ビルに向かう。ステモンズ・フリーウェイに入れば会場までは5分たらずで着くはずだった。ヒューストン通りから左にカーブした車は緩やかな下り坂をすべり、この時シークレットサービスの護衛車はなぜか20メートルも離れていた。
コナリー、テキサス州知事(ケネディ大統領夫妻の前席に搭乗)
「妻が後ろの大統領の方に振り向いて言いました。『大統領、”ダラスの人達は私をこころよく思っていないようだ”などとはおっしゃってはいけませんよ』それからほんの数秒後、昼食会の開かれる会場に向かうためにステモンズの高速道路に向かってエルム通りに差し掛かった時、あの銃弾が発射されたのです。それがライフル銃の音だと気付いた時、私はとっさに右の方を振り向きました。銃声はそっちの方から聞こえてきたからです。しかし何も見えなかったので今度は左の方に向き直ったとたん、激しいパンチをくらったような衝撃を背中の真ん中に感じました。思わず前の方にかがみ込むと体中血まみれになっていたので、銃弾をくらったことに気付きました。私は『たいへんだ、私たちを暗殺しようとしている者がいる!』と叫んだのです。次にもう一発の銃声が響き、次の瞬間車の後部に血があふれ、脳味噌が散らばっているのが目に入りました。大統領が暗殺されたと分かったのは夫人が『どうしたらいいの?脳が飛び出しているのよ!』と叫んだ時でした」
ラルフ・ヤーバロウ上院議員(大統領車に続く車に乗っていた)
「私たちの前にいたシークレットサービスは取り乱した様子もなく、後ろを振り返りました。反応はいたって鈍いものでした。私たちはガード下に避難し反対側に出ました。大統領は後ろにグッタリともたれ掛かり、片手を伸ばして体を支えているような恰好でした。私たちに向けられた顔には苦痛の色が浮んでいました。その時に私は大統領が狙撃されたことを知りました。私たちがパークランド病院に着くと、間もなくシークレットサービスはジョンソン副大統領の元に駆け寄りました(ジョンソン副大統領はヤーバロウ上院議員の隣席)。その一人が『大統領が・・・』と言ったので、私は大統領が亡くなったことを悟りました。夫人は大統領に覆い被さるようにして後部座席に座っていました。大統領の血が、夫人の足や服にしたたっていたにもかかわらず、夫人はこう呟いていたのです。『私の夫は殺された、私の夫は殺された・・・』と、実に悲惨な光景でした」
ヤーバロー上院議員とジョンソン副大統領(当時)は相性が良くなかったようである。ドナルド・フリードとマーク・レーンの共著『ダラスの熱い日』(原題「EXECUTIVE ACTION」)305〜306頁より
「ケネディは大統領宿舎に当てられている八階に戻ると、ジョンソンをすみに引っ張っていった。『昨日はヤーバロー上院議員の車に乗るのをあんたのほうで断ったんだって?』『ばかな。誰がそんなことを言った?ラルフの方が、私ともジョンとも、同じ車に乗らないと言うんだ』『リンドン、ではこっちとしてはどうすべきだと思う?』『あいつの隣には、こちこちの超自由主義者の野郎を乗せてやれば・・・』『リンドン、もし何か理由があって・・・政治的なものでも、個人的、あるいは哲学的なものでもいい・・・どうしてもラルフ・ヤーバローのリムジンには同乗できないと思うのなら、私の許可を求めたまえ、歩いていくとね!さあ、お互いに子供っぽいまねはよそう、そうだろう?』」
マリリン・ウイリス(暗殺の瞬間を目撃した老婦人)
「銃弾は右の前の方からきたように思います。弾は大統領の頭に命中し、頭は後ろに倒れて脳味噌が後頭部から飛び出しました。真っ赤な後光のようなもの、赤い円の中で何かが輝いているようでした。それは恐ろしい瞬間でした」
マリリン老婦人は夫のフィルと娘のリンダと共に大統領暗殺の瞬間に居合わせていた。彼らウイリス一家は共に『銃弾は進行方向の右前方から発射されたもの』と証言している。
ジェームズ・ティグ(立体のガード下で前方から来る大統領車を見ていた)
「立体交差の東側の地下歩道にいた時、一発の銃声が聞こえました。はじめは爆竹かと思いましたが、今度は同じ銃声を二度聞いてすぐ地下道に身を隠しました。私が頭をもたげると大統領のリムジンが横を通り過ぎていきました。その時、バディ・ウォール副保安官が『頬に血が付いている』と教えてくれたので触ったら確かに血が付いていました。そこで私ははじめて、銃声といっしょに何かが私の頬をかすめていったことを知ったのです。副保安官が『何処にいたんだ?』と質問したので、そこから40フィートほど下がって銃声を聞いた時の場所に立ちました。するとそこの縁石にまだ生々しい痕跡があったのです。その後のFBIの調査では清掃車のブラシの痕だと報告されていますが、彼らは自分達のミスショットを認めたくなかったに違いありません。しかし銃弾の一発は確かにリムジンを通り越して私の側の縁石に当たったのです」
ハロルド・ワイズバーグ(元上院調査官)
「FBIは縁石の痕跡を実検したにもかかわらず、後に銃弾のような痕跡はなかったと言い張っています。それは『清掃車のブラシの痕に違いない』と言うのです。FBIの調査の後、委員会はダラスのロバート・キンバリーと写真の専門家を派遣し、あらためて現場の写真を撮っている。彼らは前もって縁石付近の路上に故意に別の痕跡をつくると、それが本物でないと知っていながら掘り起こして、それをワシントンに運びました。色も手触りも違う捏造された証拠品が写真に撮られたのです。私は公文書で調べたから、この点は確信がもてます。彼らは大統領暗殺の後、なぜ偽の証拠が作られねばならなかったか?という疑問すら持たなかったのです。私が『証拠写真のスペクトルを見せてくれ』と頼んだら『裁判では使ったが、保管するスペースがなかったので破棄した』という返事でした。世界一の証拠を保有しているFBIが、たった1ミリの厚さの写真を保管する場所がないというだけで破棄したとは信じられません。FBIはこういう言い訳が法廷でも許されるのです」
2 JFKは前方からの狙撃が致命傷となった
米政府は2039年までJFK暗殺に関する資料は公表しないと言ってきたが、歳月がたつにつれて隠れた目撃者の証言が出始めている。ナイトクラブのシンガー、ベバリー・オリバーもその一人で、なんと彼女はオズワルドとルビーが談合している場所に居合わせていた。そればかりではない。彼女はダラスの暗殺現場でケネディ大統領の暗殺の瞬間をムービーで撮影していた。その手のフィルムは映画「JFK」でも公開されたザプルーダーが撮ったものが有名だが、彼女のフィルムの重要さはケネディの頭が吹き飛んだ瞬間と、それを狙撃した人物が写っている可能性があることだ。彼女の位置していた場所がまさにその視点であり、その反対方向から写したザプルーダーのフィルムでは犯人は視点に入らない。そのベバリー・オリバーの左側には黒いコートを着た女性メリー・アン・モーマンがやはりポラロイドで写真撮影していた。モーマンの写真は映像が不鮮明ながら、後に二人の写真専門家によって犯人らしき人物の輪郭を見いだしている。何よりオリバーのフィルムは貴重なのだが、残念ながらそのフィルムはFBIによって持ち去られてしまった。オリバーはその日、真新しいムービーカメラを持ってデイリー広場で大統領の車を写していた。彼女はスカーフをかぶっていたため、当時の記録フィルムからは長い間誰か分からなかった。
ベバリー・オリバーの証言(ムービーカメラで大統領暗殺の瞬間を撮影した)
「最初に銃声が聞こえたときには、あまり気にしませんでした。爆竹か何か、そういうものだと思っていましたから。だからカメラを回し続けていたのです。でもカメラを通してケネディ大統領の頭が吹き飛んだのを、頭の後ろ半分が無かったのを見て、はじめてあの音が銃声だと分かったのです。実際の弾がいくつなのかは分からないけど、弾がどこから飛んできたのかは分かります。(右の丘を指さして)あの棒杭の近くの柵のあたり、階段の向こうの柵のあたりです。そこに人影と煙が見えました。大統領を殺した犯人は、あの柵の辺りにいた人だと信じています。誰が何と言おうと。
私の写したフィルムは「後で現像して返す」と言われてFBIに渡しました。しかしフィルムはそのまま帰ってきませんでした。私が撮影していた場所は、ほかのどのアングルよりも良く大統領を撮影できたと思うし、犯人がいた丘もよく撮れていたと思います。だから私が撮ったフィルムがあれば、かなりのことが分かると思います」
メアリー・ムー・モーマンの証言(オリバーの左隣でポラロイドを持っていた)
「私のポラロイドは10秒に1枚しか撮れません。大統領が倒れたときにシャッターを押したみたいです。私にとっては誰もこういった証拠を探そうとしないことのほうが不思議でした。私が言いたいのは政府の人たちのことです。何か分かるかも知れないのに、誰も関心を示さなかったのです」
しかし不鮮明な彼女の写真に二人の研究家ゲーリー・マックとジャック・ホワイトが関心を示していた。彼らはまさに大統領が撃たれた瞬間のその写真に、柵の向こうでライフルから立ち上る白煙と、警察官らしき人物と二人の人影の輪郭を割り出したのだった。彼らが写真の分析中に最初に気付いたのが白煙と、メタルのような僅かな反射光であった。調べるうちに反射光はバッチのようなものであり、そこに制帽と制服らしきものを着た人物が浮かび上がってくる。それらはダラス警察の制服に類似していることも分かった。狙撃犯がダラス警察官の制服を着ていれば誰にも怪しまれず狙撃場所に行くこともできる。さらに分析していくとその狙撃犯の背後に、頭の尖った人影が浮かび上がる。ちょうどそれはヘルメットをかぶった時にできるシルエットのようであった。狙撃場所の背後には鉄道の線路がある。鉄道員とすれば納得がいく。警察官と鉄道員という奇妙な取り合わせも、狙撃する警察官と、その周辺を見張る鉄道員(偽者であろう)とすれば俄然真実味が出てくる。そしてもう一人の人影を、その左に彼らは発見するのである。ポラロイド写真の不鮮明さから、彼らの分析結果は断定できる証拠とはならないように思えた。しかし後にそれらの分析結果を裏付けるような証言が次々と出てくるのである。
3 JFKの頭を吹き飛ばした男
JFK暗殺の最大の焦点は暗殺犯の確定であろう。研究家 ゲーリー・マックとジャック・ホワイトが特定した警察官のボンヤリした輪郭が鮮明になってきたのは、1991年に私が偶然手にした月刊誌「現代」2月号によってであった。そこには、末期ガンに犯された当時60歳のジェネーヴァ・ホワイトなる夫人の証言が載っていた。彼女によれば「これまで身の危険を感じて証言台に立つことをためらってきたが、末期ガンになって何も恐れることがなくなった今、全ての真実を明かしたい」というものであった。そして、その真実が彼女の口から語られる。
ジェネーヴァ・ホワイトの証言(暗殺犯を語る)
「私の夫ロスコー・ホワイトは元警察官だったが、CIAでも働いていた。そしてその夫が『今までにCIAの命令で十人殺してきた。大統領を殺すことは今までの中でもっとも難しいことだった』と告白したのです。私の夫はCIAの命令でケネディ大統領を暗殺したと言うのです。でも夫は任務を遂行したのです。CIAによれば、ケネディ大統領はアメリカにとってもっとも危険な人物だということでした。私は夫が告白する以前からジャック・ルビーと会っていたことも知っていたし、それとなく嫌な予感がしていました。そして大統領が暗殺された日もテレビを見ていました。警官が一人殺されたというニュースにも『夫かも知れない』と死ぬほど恐かったことを覚えています。七時過ぎに夫が戻ってくるまで死ぬほど心配しました。そして帰ってきた夫は、その日の記念に写真を撮るように言ったのです。夫はとても興奮しているようでした。夫は『急いで町を出なければならない。とても危険なんだ』と言い、私は三日間ほど子供を連れて実家に身を隠していたくらいです」
ロスコーはケネディ暗殺の17日前にダラス警察に入っていた。そしてその2日後にジャック・ルビーはオズワルドを射殺するのである。ルビーは終身刑で服役するが最高裁長官アール・ウォーレンとジェラルド・フォードに『テキサスから、自由に話せるワシントンに連れていってほしい』と何度も嘆願して退けられている。そして新たな裁判を前に注射を打たれ、ガンで死亡している。ルビーは『妙な注射を打たれた』と気にしていたという。暗殺事件の後、ロスコーは2年間いたダラス警察を辞めると言い出した時、夫人は夫にただならぬ脅えを感じた。夫人の証言は続く。
「夫は生命の危険を感じていました。何かがうまくいかなくなって夫は殺されかかっていたのです。私は気分転換にと、化粧品を売りながらニューオーリンズまで旅行することを思いつきました。しかし夫はどうしても行かないと言い張るので、私一人が行くことしたのです。そんな最中に一人の男がやってきて『あなたは監視されている。あなたの夫はCIAから抜けようとしているが、すでに殺人を犯しているので抜けることはできない。彼は24時間連絡をとり続けなければならない。さもないと、あなた方の幼い子供が殺されることになる』と脅されました。私はダラスに戻って夫を問い詰めました。夫は『CIAに入るまではそんなことは知らなかった。いったん入ったら出られないことも知らなかったんだ』と苦しげに弁明しました。私もまた悩み、自殺未遂で三ヶ月ほど入院するはめになりました。そしてあの奇妙な事故が起こったのです。私の夫ロスコーが溶接バーナーに点火しようとして突然燃え上がり、体の90%に大火傷を負ったのです。私はとっさにCIAが溶接に仕掛けをしたのだと思いました。それでなければ取っ手の部分からガスが吹き出すようなことは考えられないからです。彼はベットに横たわりながら『これは事故ではない。自分の死によって子供や妻に危険が及ばないことを約束させたのだ』と言い、25時間後に息を引き取りました。夫は日記を遺していました。そこには大統領を暗殺したことが書かれてありました。夫は『ケネディを殺した。アメリカ合衆国の大統領を殺した』と書いています。そしてCIAはチピット巡査を殺すことを夫に命じたのです。チピット巡査も陰謀の中に組み入れられた仲間でした。十番地とパットンの通りで夫とオズワルドがチピット巡査に会った時、夫はいきなり彼を射殺したのです。驚いたのはオズワルドでした。オズワルドは『オレは騙された!』と叫びながら逃げ出したそうです。日記にはそう書いてあります」
ここで食い違いがみられる。当初、ピット巡査殺しの犯人とされたオズワルドは映画館に入っていた。目の前でチピット巡査が殺されて驚愕したオズワルドが、落ち着いて映画館にいられるわけがない。この映画館でオズワルドは巡査殺しの容疑で逮捕され、やがて大統領暗殺の犯人に仕立て上げられていく。チピット巡査殺害の現場にはドミンゴ・ベナスデスという機械工が居合わせている。彼は五メートルも離れていないトラックの中から殺害の瞬間を目撃した。彼は「オズワルドが犯人ではない」と証言している。事件から三ヶ月後、彼の双子の弟エディが何者かに頭を撃ち抜かれて死んだ。何者かが口封じの相手を間違えたようだ。もう一人の目撃者アキラ・クレメンスという女性は、二人の男がチピットを撃った後別々の方向に逃げたと証言している。そしていずれもオズワルドではないことを強調している。また警察官が撃ったとも言ってはいない。するとロスコーの告白日記とは辻褄が合わなくなる。ロスコーは警察の制服を脱いでいたのであろうか・・・このへんの食い違いもいずれ後世になってから、2039年には明らかにされるのだろう。そしてその頃には当事者はすべて寿命がきているというわけである。
JFK暗殺事件の背後には周到に用意された罠が幾つも張り巡らされているようだ。11月9日にオズワルドがルース・ペイン宅で妻のマリナに会っている頃、もう一人のオズワルドがダウンタウンの新車展示場に現れトラブルを起こしている。セールスマンのガイ・ボガードは彼の相手をしていたが、支払いの段階になって「クレジットがそんなに難しいものなら、ソ連に帰ったほうがましだ。少なくともあの国では働くものを人間として扱う」と喧嘩腰に拒否したという(大統領暗殺聴聞会記録第26巻685頁)。同じ日、第二のオズワルドは市内の射撃練習場にも現れ、他人の的を射撃して顰蹙をかっている。そこに居合わせた人々は彼の正確な射撃の腕に目を見張ったという。本物のオズワルドが就職先のTSBDで働いている間も、第二のオズワルドは床屋、食料品店、銃器店など行く先々でトラブルを起こし『俺はオズワルドだ』と捲し立てて印象を残している。これらは偽者のオズワルドを用意したCIAによって、やがてはオズワルド本人が大統領暗殺者としてのっぴきならぬところへと追いつめるための布石でもあったろう。オズワルドのソ連行きも、彼が帰国する際も全てはCIAの息がかかっていた。アメリカの市民権を放棄したはずのオズワルドが帰国できた背後には、その責任者ボリス・クロッソンがいた。そのクロッソンのボスはキッシンジャーであった。キッシンジャーはクロッソンをSALT(核兵器制限交渉)の政治情報担当に抜擢するなど、旧ソ連の二重スパイと噂されるクロッソンを引き立てている。無名のキッシンジャーをロックフェラー家が拾い、ロックフェラー秘密工作員と影で名指しされてきたキッシンジャーの過去を考えれば、オズワルドを本当に利用した黒幕が浮き彫りになってくるだろう。
4 ロスコーとオズワルド
メリー・アン・モーマンのポラロイド写真から浮かび上がった狙撃犯像は警察官だった。これはジェネーヴァ・ホワイト夫人の証言と照らし合わせると、ほぼロスコーに間違いはないと思われる。CIAがロスコーを雇った理由の一つに、彼が射撃の名手だったことがあげられる。そのロスコーが射撃の下手なオズワルドに教えていたことを夫人は覚えていた。【写真=ロスコー・ホワイト】
「私たちは一時期、ノース・モロッコにあるアルカディア公園に住んでいました。ダラスとグリーン・プレイリーの間にライフルの射撃場があり、ある日の夕方、子供を連れて私は彼らと出かけたのです。彼らはライフルとピストルを使って射撃訓練をしてましたが、オズワルドは射撃が下手なので主人が教えていました。オズワルドはデリンジャーも所持していて、一時期アメリカに移送されないために使ったことがあるということでした。オズワルドはとても物静かで非常に控えめでした。彼は多くを語らない人なんです」
ここで思い出すのは射撃場に現れた偽のオズワルドのことである。彼はそこで射撃の腕を披露し、周囲の人々を驚かせている。実際の射撃下手なオズワルドとは正反対である。これは性格からも言える。控えめなオズワルドと「俺はオズワルドだ」と吹聴して回った偽のオズワルド・・・何よりウォーレン委員会が断定したオズワルド単独犯行説は成立しなくなる。まして旧式のイタリア製ライフル「カルカーノ」では弾を真っ直ぐに撃つのでさえ難しいと言われた代物である。委員会はオズワルドがこれを使って立て続けに2発の弾を撃ち込んだという。これが不可能はことは実地検分でも明らかにされている。しかしロスコーが大統領暗殺後に殺したというチピット巡査事件の告白にはどうしても食い違いが出てきてしまう。証言者の話からもそれはあり得ない。ではロスコーがなぜ嘘の告白を日記に書いたのであろうか?その謎を解く糸口が夫人の証言からもうかがえる。ここでジャック・ルビーが登場し、事件の内幕がさらに暴かれていく。
ジェネーヴァ・ホワイト夫人の証言
「私はかつて、ジャック・ルビーのナイト・クラブで働いていました。オズワルドはテキサス教科書倉庫ビル(TSBD)で働く前に、軍関係の地図を作製する『ジャガー・チルズ・ストーバル』という会社に雇われていました。私の夫ロスコーはそこで働く『スー』という女性と浮気をしていたのです。そのことが分かったのはうっかり口を滑らせたルビーからでした。私はもっと詳しいことを聞き出そうとクラブの事務所の前に立った時でした。ドアの向こうから聞こえてきたのはスーの話ではなく、ケネディ暗殺計画の話だったのです。私は思わずその場に立ちすくんだまま動けなくなってしまいました。そして突然ドアが開き、ルビーが現れました。
(左の写真はルビーとジェネーヴァ)
私たちは黙って待っていましたが、夫の顔がみるみる青ざめていくのが分かりました。やがてジャック・ルビーが戻ってきて『記憶を消すための電気ショックを受けてもらう』と言うのです。ルビーは『もし誰かにこのことを少しでも漏らしたりしたら、息子のトニーやリッキーは死ぬことになるだろう。彼らはじわじわと痛めつけながら殺すことになる』彼らとは誰なのか?私には分かりませんでした。記憶を消すための電気ショックはロスコーが受けることになり、私は辛うじて免れました。しかし1963年の大統領暗殺後の翌年、度重なる心労からあれほど嫌っていた電気ショックを私も受けることになってしまったのです。そして私はケネディ暗殺前後の記憶が数年間に渡って消えてしまいました。その記憶がよみがえったのは1989年二月にジャック・ショー牧師に会った時でした。私は余命いくばくもないことを知って自分の消された記憶を呼び戻したいと思ったのです。ショー牧師は私を催眠術にかけて記憶を呼び戻してくれました。そして今、私はこうして証言することができたのです」
夫人の言う電気ショックとはCIAが開発していたMKウルトラのことだと思われる。つまり夫人はマインド・コントロールされていたわけである。してみればロスコーのチピット巡査殺しの食い違いもここに説明できる。ロスコーはチピット巡査殺しのイメージを植え付けられた可能性がある。しかし逆に大統領暗殺を本人の意志とは関係なく操作することもできることになる。その実際はどんなものか、JFK暗殺から四年後にフィリピンで逮捕されたカスチロの例が格好の説明になるだろう。
5 マインド・コントロールされた男カスチロ
1967年3月2日、フィリピンにおいて当時24歳のルイス・マンゲル・カスチロという男がNBI(国家捜査局)によって逮捕された。容疑はマルコス大統領の暗殺を企てた組織の一味ということであった。その尋問の際にNBIとフィリピン陸軍捜査局は自白剤の『真実の血清』でカスチロを催眠状態に導いた。カスチロは「私は催眠によってプログラムされ『オープンカーに乗ったある男を殺せ』と命じられた」と自白する。カスチロは目標が誰かは知らなかったが、想定されるシーンはテキサス州ダラスであり、日付は1963年11月22日ということであった。さらにカスチロは「ダラスである女性が私を深い催眠状態に導いたが、彼女は同じことをした数人の一人である」と語ってJFK暗殺との関係を示唆している(JFKの弟ロバート暗殺の際にも犯人サーハン・サーハンが同様に女性の関与を証言している)。やがてNBIはカスチロの額、胸、腹、そして指に僅かな傷跡を見つけて問い詰める。カスチロは「この傷はアメリカで交通事故を起こした時のもので、書類を渡そうとして何者かに追跡されて襲われたように思う。気が付いた時には病院のベットに横たわっていた」と答える。しかし催眠によって具体的な名前をたずねる段階になると、カスチロは決まって全身に痙攣を起こし、苦痛のために悲鳴をあげた。何とか問いただすうちに、カスチロはいつも同じ女性によってシカゴ郊外の工場に連れて行かれたことを突き止める。NBIはこの女性こそカスチロをコントロールした張本人と断定した。しかもカスチロは性格の違う四つの人格まで持ち合わせていた。この人格が植え付けられたものであることは明らかだった。催眠術の担当者はこの四つの人格にそれぞれゾンビと名付けナンバーをふって区別している。
ゾンビ1=反米スパイ、エロリアガと名乗る。
ゾンビ2=CIAエージェント、事件をおこしている。
ゾンビ3=正体が暴かれたエージェント、自殺をするようにプログラムされている。
ゾンビ4=父が高官で、少年期の記憶がないニューヨーク生まれの24歳の男。
カスチロの高度にプログラム化された催眠を発見した鍵は、逮捕された時に持っていたタバコの紙切れだった。そこには『XBGUMIDUTYB』の文字が書かれてあり、この文字を普通に読んでもカスチロは何の反応も示さなかった。しかしUとMの間を区切って間を空けて読むとカスチロは発作的に催眠状態となり「私は自分自身を殺す」と口走り、「BGU=私自身」「MI=殺す」ということが判明する。その催眠状態で「ルイス・カスチロ!」と号令をかけると、カスチロは反射的にピストルを自分のコメカミにあてるのである。プログラムの隙を突くようにして導き出されたカスチロの証言は以下のようなものであった。
「昼間に、その暗殺は起きた。アメリカ人と外国人たち、一人はスペイン人で、黒い車である建物まで行った。彼らは建物に着くと二階に上がって行った。小さな茶色のテーブル、タイプライター、二つの持ち上げる窓、そこからは道路が見えた。最初の男は黒いスーツケースからライフルの部品を取り出して組み立てた。その男は私に『オープンカーの後部座席に座っている男を撃て。目標の男は女性と座っているだろう』と言った。すると反対側から二回鏡が光り、それを合図に私は引き金を引いたような気がする。男にライフルを渡すと、男はライフルを分解し、元のカバンに戻して、別の二人と車に乗った。途中、頭の禿げた男を乗せた。さらに3〜4ブロック過ぎて別の男が乗り込んできた。その中の一人が私に注射を打ち、目覚めたときはシカゴにいた。横に女性がいて、私はその女性とミルウォーキーまで走った」
1967年、カスチロは米国に戻るとFBIの尋問を受け、FBIは「我々はカスチロの尋問を行ったが、彼は単に話を捏造しただけだった」と発表した。1971年6月、カスチロは盗みの疑いで六ヶ月の懲役刑となる。1974年8月1日、母親と会ったのち、行方不明。
6 オズワルドがルビーの店に現れる
オズワルドがルビーの店に出入りしていたという証言はジェネーヴァ・ホワイトのみならず、JFK暗殺の現場に居合わせたあのナイトクラブの歌手ベバリー・オリバーも証言している。
「私は怖くて今まで黙っていました。これまで証言した人たちはそのために殺されてしまったでしょう。私はとても彼らの死体の一つにはなりたくなかったのです。ショットガンで頭を吹き飛ばされたくはなかったんです。暗殺の2週間前のある晩、私はクラブにいました。私の働いていた『コロニー・クラブ』は『カルーセル』の隣にあって、両方の間に駐車場があります。ショー合間にうちのコがルビーの店に行ったり、反対に向こうのコたちがうちのショーを見に来たりしていました。その日もいつものようにカルーセルに行くと、『ジャーダ』というダンサーがいてルビーともう一人の男と座っていました。私も一緒に飲もうと思って近づくと、ルビーは『この男は友人のオズワルドだ』と言って私に紹介してくれたんです。
ジャック・ルビーが警察に行ってオズワルドを殺した時、2週間前に会ったあの人だとすぐ分かりました。リー・ハーベイ・オズワルドとジャック・ルビーはつながりがあったのです。どうしてか分からないし、これからも謎でしょうけれど、私がひとつ確信がもって言えることは『ルビーが殺したオズワルドは、2週間前に私がルビーの店で会ったあの男だ』ということです。それにジャーダも私が言ったことと同じことを新聞記者に言っているんです。『暗殺の2週間前にオズワルドに会った』と。でも気の毒なことに彼女は死にました。いえ、そう聞いたんです」
オリバーのこうした証言は同時に ジェネーヴァ・ホワイトの証言をも裏付けることになる。ルビーの店で働いていたというジェネーヴァは、もしかするとオリバーにも会っているかも知れない。むしろ知っていると考えた方が自然である。七年前に末期ガンだった彼女はジェネーヴァすでに他界していると思われるが、そのことをオリバーが知ったら嘆くことだろう。オリバーは今も歌手として健在である。
7 オズワルドが厚木基地でスパイとなる
1978年、元CIA職員が下院暗殺問題調査特別委員会において「オズワルドは日本の厚木でCIAに雇われ、そこから二重スパイとしてソ連に送られた」と証言している。証言者は当時CIA東京支局のビルに勤務していたジェームズ・B・ウィルコットである。『クリプト』(秘密結託者)というプロジェクトの現金出納係だった彼は、1962年にオズワルドがソ連での「任務終了後の報告」(ディブリーフィング)のため日本に戻されたことを知った。これはウォーレン委員会とは全く違った内容だった。公式には「アメリカへの帰国を申し出たオズワルドは、モスクワから北欧へ向かった」とされているのである。さらに帰国したオズワルドがニューオーリンズに戻り、JFK暗殺の三ヶ月前のラジオ番組に出演したときには「スポンサーはアメリカ政府だった」とうっかり口を滑らしている。
1961年2月、社会党衆院議員(当時)の飛鳥田一雄は衆院予算委員会の一般質問で「厚木のJTAG(連合技術顧問団)にはU2の基地とスパイ養成機関がある。JTAGに送られてくる郵便物は全てアメリカ大使館気付になっている。明らかにここはCIAの配下にあり、U2機の乗務員もここに住んでいる」とすっぱ抜いた。さらに飛鳥田議員は「1954年1月、ロシア大使館職員ラスボロフが亡命後、一時JTAGに保護され、亡命者を装うスパイ要員を訓練、通信機器、写真機、ピストルから時限爆弾まで持たせて『鉄のカーテン』の内部へ送り込んでいた」と指摘した。
元基地司令官パルナク大佐も最近ようやくJTAGの存在を認めている。「JTAGとU2計画には一定の機密委任の許可が設定されていて、それには徹底した保安処置が施されている。JTAGの工作員は世界中にいる。在日海軍でさえその存在は知らず、JTAGの職員家族にも接触することは許されていない。空港でも眼を合わせることすら禁じられていた」
厚木でロシア語を学び、カリフォルニア州サンタアナに配属された時のオズワルドは試験に合格するまでに上達していた。オズワルドは厚木基地から10キロほど離れた上瀬谷にある最高機密の海軍空軍施設にいたとされる。彼の所属部隊は海兵隊航空管制第一飛行大隊、管制塔からU2機など軍用機を追跡していた。コードネームは『コーヒー・ミル』。オズワルドがソ連への亡命後、提供したのはこれらU2機の情報だった。オズワルドがJTAGで訓練を受けていたのは明らかだった。しかしその極秘性からアメリカ政府はことごとくオズワルドとJTAGの関連を否定、U2機追跡の任務についていたことまで否定している。
オズワルドの13ヶ月厚木駐留期間中、彼の所属していた海兵隊航空管制第一飛行大隊は、1957年11月にフィリピンU2基地キュービーポイントに寄港、1958年9月に台湾の金門島危機での作戦に赴いていた。当時アジア最大のU2基地は台湾にあり、台湾CIA支局長レイ・S・クラインの指揮下にあった。元ハーバート大学歴史学教授クラインは1958年から62年まで台湾に在住し、中国上空からミサイルのサイロや原爆プラントを空撮させる一方、「竹のカーテン」の向こうにスパイを送り込んでいた。当時の軍事記録にはオズワルドは台湾ではなく厚木基地にいることになっている。しかも個人記録と給料支払い記録はなく、オズワルドの所在を隠蔽する工作がうかがえる。クラインは台湾の右翼団体の国際化を図りながら、その一方ではオズワルドの任務に歩調を合わせるように台湾に在任していた。さらにクラインは韓国の李承晩と蒋介石が結成したアジア人民反共連盟の顧問として、同盟に加わっていた日本の右翼とも太いパイプでつながっていた。クラインはその後CIA諜報担当副長官となり、1980年〜84年まで世界反共連盟に出席している。そしてオズワルド帰国の責任者がキッシンジャー配下のボリス・クロッソンだったというわけである。さらにオズワルドは情報収集のためだろうか、日本共産党とも接触している。
8 オズワルドが日本で遊ぶ
オズワルドは兵卒の安月給(85ドル)にもかかわらず、銀座のバーで派手に遊んでいた。そのカネの出所を知りたいものである。彼は「クィンビー」の馴染み客で、そこのホステスを基地にも連れてきている。基地付近のバー「大和」にも出入りしていたらしい。ONI(米海軍情報部)は、クィンビーのホステスからカネが出ていたのではないかと疑っている。50年代末期、ホステスが数百人いるといわれた銀座のキャバレー・クィンビーは世界的にも有名で、もう一つは厚木基地にあったが90年代初期に焼失した。オズワルドが特に入り浸っていたのが厚木のクィンビーで、取材にはなぜか口が堅いという。存命確認数名の当時のホステスが全て精神病院に入院しているというが、これも実に奇妙なことである。CIAのマインド・コントロールに関係しているのではないか?オズワルドは日本の女性がことのほか気に入ったらしく、演習をサボるために自分の腕を撃ったこともある。しかし演習をサボるどころか、無登録の武器所持で軍法会議で処罰される間抜けでもあった。日本におけるオズワルドの謎は、その母親によって少しは垣間見えてくる。それによると息子は日本で「アメリカ政府のスパイ」をやり、フィリピンでは「特別な任務」というものであった。厚木からカリフォルニアの海兵隊基地へ移った後も、オズワルドの懐には多額のカネが流れ込んでいた。銀行口座に203ドルしかなかったとされる彼が、スイス大学に入るために早期除隊し、ロンドンやヘルシンキまで旅行した不可解さをウォーレン委員会は調べようともしない。そして何より彼らが隠蔽してしようとしているのが1959年10月10日の深夜過ぎのヘルシンキ行き航空便である。公文書のオズワルド到着時刻とホテルのチェックイン時刻が違うのである。オズワルドは航空便が到着する以前にホテルにチェックインしていた。ということはオズワルドは特別の米軍機ですでにヘルシンキに運ばれていた、ということになる。さらに1962年に帰国したオズワルドが売国奴として逮捕されなかった最大の謎がある。ここに私は何度も書いているクロッソンと、その上司キッシンジャーというキーワードを示唆する。全ては緻密な計画に基づいており、その統帥者は米政府やCIAを思うがままに操ることのできる存在であろう。
1959年10月31日、オズワルドがモスクワの米国大使館にソ連亡命を告げた時、その応対にあたったのが東京CIA支局のリチャード・E・スナイダーだった。JFK暗殺の五日後にスナイダーはオズワルドに関する分析報告書をワシントンに送っているが、そこにはスナイダーとともに駐日大使エドウィン・O・ライシャワーの署名も確認されている。オズワルドがいかに監視され、そして注目されていたかがうかがえる。今から数年前にオズワルドの妻マリナが忽然とアメリカに現れ、記者団に取り囲まれたことがあった。私はこのマリナに何か得体の知れないものを感じてきた。帰国の際にロシア人妻マリナを伴い、オズワルドが真っ先に就職したのが『ジャガー・チルズ・ストーバル』という軍の地図作製をつくる会社だったというのも奇妙である。米政府の最高機密に属する会社に売国奴を就職させてしまうほど管理が甘かった、などとは考えられないことだ。このへんからCIAの手先だったジョージ・デ・モーレンシルツがオズワルドに接近するのだが、彼は1977年3月30日にパームビーチ郊外の友人宅で散弾銃をくわえて自殺したことになっている。これを額面通りに単なる自殺と受け取る者が少なかったのも当然過ぎることだ。オズワルドはFBIとも関係をもっていくが、その機密文書にはIDナンバーS179、1962年9月よりJFK暗殺発生まで毎月200ドルが支給されたと記録されている。
9 ロスコーの日記が盗まれる
オズワルドが厚木基地で所属した海兵隊航空管制第一飛行大隊は一時期フィリピンのU2基地に寄港していたが、その当時、後に暗殺の狙撃犯と目されるロスコー・ホワイトもフィリピンやその他の場所でオズワルドと会っている。ロスコーはオズワルドと同じ海軍に所属し、極東での特別任務に就いている。ロスコーは1957年から1971年の謎の死を遂げる2〜3日前まで日記を付けていた。ある日、三人の年配のFBI職員が突然ホワイトの家にやってくると、ロスコーの日記の写真を撮って帰った。ところが数時間後、一人が「ノートを忘れた」といって戻ってきた。そして日記はなくなった。さらにFBIはロスコーの遺した47枚の写真と証拠品の入った段ボール箱を持ち去っている。
ロスコーの妻ジュネーヴァはルビーの店でストリッパーとして働いていたが、『タイム誌』はルビーとストリッパーの写っている写真をから「彼はアリバイとしてストリッパー使っていたのではないか」という疑念を抱いたことがある。しかし写真のそのストリッパーこそジュネーヴァであったことは知らなかっただろう。彼女は当時のルビーを回想する。
「彼はいつも威嚇するようで、私が働いていた時も、何にでも飛びつき自分が欲しいものは何でも手に入れるような男でした。私は一晩で200ドル貰っていました。今までの人生でそんなに稼いだことはありませんでした。夫が政府から貰うお金は197.10ドルでしたから」
10 ジャック・ルビーが暗黒街に入る
ルビーはシカゴのウェストサイドで育ちながら15歳の頃にはマフィアの走り使いをしている。彼らチンピラを雇っていたのがアル・カポネであった。1939年、シカゴ・スクラップ業界組合の設立者レオン・クックが殺された。理由は唯一マフィアの息のかからない組合だというだけだった。容疑者の組合役員ジョン・マーチンが逮捕され、参考人としてジャック・ルーベンシュタインという書記も呼ばれた。クックは背後から撃たれたにもかかわらずマーチンは正当防衛で無罪となり、その七年後にジャック・ルーベンシュタインは姿を消した。そしてテキサス州ダラスに現れると、その名はジャック・ルビーと変わっていた。後に殺人会社(Murder Lnc.)と異名をとるユダヤ系ギャング組織をつくったマイヤー・ランスキー(Meyer Lansky)は、その本名をスチョウリャンスキー(Meier Suchowljansky)と言う。これまで判明しただけでも800件を超える殺人契約が実行されたとされる殺人会社のボス、マイヤー・ランスキーはベラルーシ(白ロシア)のグロズノに生まれている。移民としてアメリカに渡ってからのランスキーは売春、麻薬、密造酒と手を染めながらギャングの頭目に成り上がる。ルビーはやがてカポネを遙かに凌ぐランスキーの配下に収まるが、その背後には同じ移民としての仲間意識があったのかも知れない。それでもルビーにとってランスキーは雲を仰ぐような存在であった。若い時分はランスキーも血を血で洗う抗争のただ中にいたが、やがて顔のないホワイトカラー・ギャングとして洗練された一大殺人シンジケートの頂点に立つのである。彼らにとっては一国の指導者といえども、要請があればビジネスとしての商品に他ならない。JFK暗殺の前後にルビーが震える手で受話器を取っていた相手は必ずしもCIAだけではなかっただろう。オズワルドを撃った直後のルビーは汗びっしょりで何かに脅えていたが、オズワルドが死んだと知らされたとたん、汗は嘘のように引き落ち着き払っていたという。
11 オズワルドがルビーに射殺される
JFK暗殺後の2日後、オズワルドはこともあろうに警察署でルビーに射殺される。ずさんな警察の警備体制が問われるところだが、事の真相はルビーの犯行をやりやすい体制に仕組まれていたということである。司法長官ニコラス・カッシンバッグは、オズワルドの単独犯行の是非云々以前に、何が何でも彼を犯人に仕立て上げようとしていた。元上院調査官のハロルド・ワイズバーグは語る。
「司法長官だったニコラス・カッシンバッグは、オズワルドが裁判にかけられないことを知っていた。裁判に持ち込む必要がなかったのだ。彼はリンドン・ジョンソンとのパイプであるヘル・モイヤーに『オズワルドが単独犯であるということを市民に納得させ、もし裁判になっても有罪にするように』というメモを送っていたのだ」
そしてFBIはフーバー長官の指令の元、ダラス警察に圧力をかけるのである。ダラス警察のジェシー・ケリーは証言する。
「要求書はここにあるが、『オズワルドによる大統領暗殺の全ての物的証拠をFBIに引き渡せ』ということだった。そして我々はその通りにした。係累もなく、孤独な変わり者を利用したフーバーにとって、オズワルドはうってつけの男だったのだ」
前夜に匿名の電話を受けた警察官ビリー・グラマーは、それが翌日になってルビーからのものであることを知る。ルビーはオズワルドを殺す計画を練りながら、不安感から警察の警備体制を事前に確かめたのだった。
「どこかで聞いたような声だと思ったのですが、その時は名前も思い出せませんでした。しばらく話しているうちに彼が『ダラス警察がオズワルドを地下室から移す計画を変更しない』ことを知っていた、つまり計画そのものを事前に知っていたことに気付きました。そのルビーに我々は『変更しない』と宣言してしまったわけです。夜勤を終えた、その翌朝。テレビでルビーがオズワルドを殺したのを知って私はハッとしました。昨夜のあの電話はジャック・ルビーだったのだと・・・今考えると電話を受けた時点で分かってもよかったのです。私はルビーと何度も会い、顔も声もよく知っていたのです。ルビーはあの夜の電話で私の名前を出したのです。こういうことになったからには、あの時の電話はルビーからだったと断言できます。彼がオズワルドを殺すと明言したことは、彼は発作的にオズワルドを殺そうとしたのではなく、背後に綿密に立てられた計画があったのだと思います」
オズワルドは記者団の押し寄せている中、近寄ってくるルビーを見て一瞬複雑な表情をした。何度も店の事務所で顔を合わせていたルビーが、今、近寄ってくる。どうして?ここに?そしてルビーの手にはピストルが握られている。オズワルドの顔が驚愕にひきつり、衝撃が走った。乾いた銃声、警察と記者団の入り乱れたざわめき・・・オズワルドは床に横たわり、ルビーはその場でダン・アーチャー(ダラス警察)の尋問を受ける。
「彼は始めのうちは神経が高ぶり、汗をびっしょりかいていました。安全のために裸にされていましたから、心臓が波打ち鼓動が聞こえるようでした。彼はタバコを要求したので与えました。それから2時間後、午後1時頃、シークレットサービスが来てオズワルドが死んだことを告げました。それは死刑を意味していましたから彼にはショックだろうと思いました。それで『ジャック、これで電気椅子送りだ』と言ったのです。ところが彼はショックを受けるどころか、急に落ち着き始めたのです。動悸も静まり、タバコを出しても断りました。彼の態度の変化には驚きました。私が思うに、ルビーの命はオズワルドの生死にかかわっていたのだと思います」
12 ウォレン委員会
●アール・ウォレン
ウォレン委員会委員長。1948年、ニューヨーク州知事トマス・デューイが共和党から大統領候補として出馬した際に、その副大統領候補として立候補したが敗北。ウォレンの死後、彼に関する個人的資料は故郷カリフォルニア州記録保存所に収められたが、JFK暗殺に関連する内部資料の一部は紛失している。
●J・リー・ランキン
ウォレン委員会首席顧問。1973年3月、ランキンはウーターゲート事件調査委員会の特別検事役にニクソンからアプローチをかけられる。
●ジェラルド・フォード
ウォレン委員会メンバー。最もオズワルド単独犯説を強調した。CIAのベスト・フレンドと噂されている。ロックフェラー家の顧問弁護士。ニューヨーク州知事トマス・デューイの法律事務所からフィリップ・バカン(後にフォード政権下の大統領顧問)を招いて、自分の法律事務所を経営する。
●ジョン・マクロイ
ウォレン委員会メンバー。ロックフェラー財団理事。CIAの前身OSS幹部。ロックフェラー家のチェースマンハッタン銀行会長。同じくロックフェラー家のユナイテッド・フルーツ社理事。1954年、ユナイテッド・フルーツはCIAと組んで、グァテマラ左翼政権アルベネス転覆に成功。1920年代、マクロイはロックフェラー家のスタンダード・オイルの顧問弁護士として、チェースとマンハッタンの合併を成功させてロックフェラーに高く評価された。
●アレン・ダレス
ウォレン委員会メンバー。CIA長官(1953−61)。アイゼンハワー政権下で冷戦外交を展開したジョン・フォスター・ダレスの実弟。1961年、キューバ侵攻作戦に失敗してJFK大統領に解雇される。
●リチャード・ラッセル
ウォレン委員会メンバー。上院軍事予算委員会委員長として地元ジョージア州に多くの軍事基地を建設する。FBIとCIAが重要情報をウォレン委員会に提出しないことに疑問を抱き、JFK暗殺に陰謀の疑いありと発表した直後、他界した。
●ジョン・シャーマン・クーパー
ウォレン委員会メンバー。JFKの首に当たった弾丸と、コナリー知事の胸を貫通した弾丸が同一とする報告に疑問を呈する。しかし報告書が刊行された時点で沈黙を守り、後にニクソンの指示でインド大使に任命される。
●ヘイル・ボッグズ
ウォレン委員会メンバー。ボッグズ下院議員は「FBI報告はデタラメだ」として食い下がり、フーバー長官を「無能な老害だ」として辞職を迫っている。「ミッチェル司法長官は法と秩序の信奉者を自認している。しかし、その法と秩序が基本的人権を抑圧し、個人の自由を剥奪するものならば、私は『神よ、我々を助け給え』と言う他はない」(合衆国下院演説)。このことが、ある筋を激怒させた。後にFBIはボッグズに関するデマを流すことになり、1972年10月、ボッグズの乗った飛行機はアラスカ上空で消息を絶ち、その死体さえ見つかっていない。第二次ニクソン内閣のインディアン問題委員会にローラ・バーグト女史が任命されたが、彼女はアラスカ・インターエア社の社長夫人だった。その航空会社はボッグズが行方不明となった飛行機の持ち主でもあった。
13 JFK暗殺の目撃者たち
ケネディ米大統領暗殺事件の目撃者、ジーン・ヒルさんが死去
ジーン・ヒルさん(ケネディ米大統領暗殺事件の目撃者)ロイター通信によると、2000年11月7日、血液疾患のためテキサス州ダラスのパークランド記念病院で死去、69歳。
1963年11月22日の暗殺の瞬間をとらえた26秒間のフィルムに、赤いレインコートを着て映っていたため「赤いコートの女性」として有名になった。実行犯とされるオズワルドは三発撃ったといわれるが、ヒルさんは三発以上の銃声を聞いたと証言していた。
オリバー・ストーン監督の映画「JFK」(91年)の撮影の際、コンサルタントとして当時の様子を伝えた。(ロサンゼルス=共同)
公開処刑と影で囁かれているJFK(ジョン・F・ケネディ元大統領)暗殺だが、また一人、当時の目撃者が死去した。彼女はダラスのバークランド記念病院で死去したらしいが、ここは暗殺当時に瀕死のJFKが最初に運ばれた病院だったはず。何かしら因縁めいたものを感じさせる。そのジーン・ヒル女史が写っていたとされるフィルムには、実はもっと重要な真実が隠されている。
ジーン・ヒル女史は中央左寄りの赤いコートの女性だが、その右側(白い丸枠)の女性はナイトクラブのシンガー、ベバリー・オリバーである。この女性のことはすでにJFK暗殺ファイルで紹介してあるが(参照【JFKは前方からの狙撃が致命傷となった】)、彼女もまたJFK暗殺の瞬間を至近距離から撮影していた。左のフィルムからも推察されるように、かなりの至近距離からベバリー・オリバーがカメラを回していたのが分かる。このフィルムはFBIに没収され、二度と戻ることはなかった。
そして赤いコートを着たジーン・ヒルの左、黒いコートの女性メアリー・ムー・モーマンもまたポラロイドカメラで暗殺の瞬間を撮影している。この時のフィルムは没収されることはなかったが、不鮮明なために世間の注目を浴びることもなかった。しかし・・・
(以後、以前書いた「JFKは前方からの狙撃が致命傷となった」から文章を抜粋する)
不鮮明な彼女の写真に二人の研究家ゲーリー・マックとジャック・ホワイトが関心を示していた。彼らはまさに大統領が撃たれた瞬間のその写真に、柵の向こうでライフルから立ち上る白煙と、警察官らしき人物と二人の人影の輪郭を割り出したのだった。彼らが写真の分析中に最初に気付いたのが白煙と、メタルのような僅かな反射光であった。調べるうちに反射光はバッチのようなものであり、そこに制帽と制服らしきものを着た人物が浮かび上がってくる。それらはダラス警察の制服に類似していることも分かった。狙撃犯がダラス警察官の制服を着ていれば誰にも怪しまれず狙撃場所に行くこともできる。さらに分析していくとその狙撃犯の背後に、頭の尖った人影が浮かび上がる。ちょうどそれはヘルメットをかぶった時にできるシルエットのようであった。狙撃場所の背後には鉄道の線路がある。鉄道員とすれば納得がいく。警察官と鉄道員という奇妙な取り合わせも、狙撃する警察官と、その周辺を見張る鉄道員(偽者であろう)とすれば俄然真実味が出てくる。そしてもう一人の人影を、その左に彼らは発見するのである。ポラロイド写真の不鮮明さから、彼らの分析結果は断定できる証拠とはならないように思えた。しかし後にそれらの分析結果を裏付けるような証言が次々と出てくるのである。
http://csx.jp/~gabana/index.html
「JFK暗殺資料」より。