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(回答先: Re: 少し古い話しですが... 投稿者 プエルトリコ 日時 2003 年 9 月 26 日 02:55:31)
●底冷えのする朝、一人の労働者が玉姫公園で野垂れ死にした。大井収容所では、行政の手により死に追いやられた労働者がいた。そして、12月22日の朝七時、山谷に入り込み山谷の映画を撮っていた佐藤満夫監督が、西戸組の筒井の凶刃に倒れた。三人の死。泪橋は、また新たな涙に濡れた。だが、12月22日の夜、3000人の労働者が暴動という名の反撃を開始した。波は怒りにかわり、怒りは熱い生命となった。【上映当時のビラから】
●佐藤満夫監督
83年「東アジア反日武装戦線・支援連」の集会で「山谷越冬闘争を支援する有志の会」のメンバーと出会い対皇誠会戦下の山谷へ。84年11月から寄せ場の闘いを捉えるべく、山谷に拠点を構えて映画準備を進める。12月5日より撮影開始。12月22日山谷で、西戸組組員の凶刃に斃れる。享年37歳。
●山岡強一
82年全国日雇労働組合協議会(日雇全協)結成に尽力。83年11月以降、対皇誠会・互助組合戦の先頭で闘う。佐藤満夫監督虐殺後、その遺志を継ぎ、85年12月「山谷−やられたらやりかえせ」を完成させる。86年1月13日東京・新宿の路上で、国粋会金町一家金竜組組員の凶弾に斃れる。享年45歳。
http://homepage3.nifty.com/joeii/jyoeii/
●一九八三年から開始された日雇全協等と「ヤクザ集団」との闘いは一時期熾烈を極めたが、いつしか「路線なきたたかい」の様相を呈し始め、時間の経過とともに闘っている双方が霧消されるような印象を残して終了したとも言えない終了を迎えた観がある。しかし、ただ一点はっきりしているのは、寄せ場再編過程がドラスチックに進行している最中に「突然」起こったこの金町戦を前後して、山谷の様子が一変したということである。単なる「ヤクザ集団」の思い付き以上の何らかの政治判断が介在していると推測されるこの金町戦・・・
しかしながら、「組合」の側の情勢が変化するのに比例して、いやそれ以上に「あちらの側」の変化の方が急激であった。これを非常に簡略に記述すると、次のようになる。
1982年12月 中曽根政権成立
1983年 2月 横浜における少年らによる野宿労働者襲撃事件
1983年 3月 宇都宮病院において日雇労働者が虐待を受け、殺されていたことが発覚 (保安処分)
1983年11月 3日 山谷において皇誠会が「日の丸」を掲げての武装登場(組合潰し)
1983年11月 4日 山岡強一等兇器準備集合罪(デッチ上げ)で逮捕(皇誠会戦獄中書簡)
1984年 3月16日 山岡強一保釈
1984年12月22日 映画監督佐藤満夫山谷で刺殺(西戸組・筒井栄一)
1966年 1月13日 山岡強一新宿の路上で射殺(金竜組・保科勉)
映画を手にして、現在へと連綿とつながる「砂を噛む」ような時間帯にまさに身を置こうとした時であった、権力の意向を汲んだ「ヤクザ集団」に山岡が殺されたのは。ここに権力の意向が介在しているという事実は、現在に至っても看過することはできない。【濱村 篤 寄せ場学会会員】
●「いまの都市社会では、人はガンジガラメにされているでしょ。資本制の規範の中でしか生きられなくされて。ほんのちょっと前のこと、ほんのちょっと横のことを考えられなくなっている。時間が資本に奪われている。左翼の闘争だってスケジュール的だよね。それにいま、社会はほとんど”山谷的状況”でしょ。子供達の登校拒否とかイジメなんかにみられるように。時間を民衆の側に取り戻さなければいけないんだよね。敵のタイムテーブルの上で闘っているのではなくて、それを超えたこちら側の”ところ”で闘いを組み、生きていかなければいけない。」
「まして、ファシズム化という転換は、市民社会という資本制社会の手袋をくるっとひっくり返すような現象であるのだから、その社会自体にとっては正常であるはずはなく、まさに弱さの現われに他ならない。としたら、私たちは、その「弱さ」を決して見逃してはならないのだ。」【山岡強一 遺稿集『山谷 やられたらやりかえせ』】
http://homepage3.nifty.com/atsushihamamura/atsushihamamura/YAMAOKA2.htm