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(回答先: 再発防止へ内部告発制度 鹿沼事件で百条委提言へ(下野新聞) 投稿者 シジミ 日時 2003 年 8 月 18 日 05:12:04)
絶たれた正義・なぜ職員が殺された(鹿沼事件から)
http://www.shimotsuke.co.jp/hensyu/kikaku03/kanuma/seigi/pro/pro1.html
職務をただ公正に進めていた職員が、なぜ殺されなければならなかったのか。鹿沼市環境対策部参事、小佐々守さん=当時(57)=は二〇〇一年秋、見ず知らずの男たちに連れ去られ、殺害された。暴力団関係者ら四人が逮捕され、刑事事件としては一応の解決を見た。だが、殺害を依頼したとされる業者と、この業者に仕事上の便宜を図ったとされる市職員が相次いで自殺したことで、多くの謎が残された。三人の死の背景には、理不尽な「対行政暴力」、どの地方都市でも起こり得る「官業の癒着」「政争」の構図が浮かぶ。いまだ闇に包まれた事件の深層に迫る。
プロローグ1 遺体はどこに (2003年8月13日付)
実行犯の供述は真実か・逮捕前埋めたとの情報あった
現場絞り込み困難・通行記録特定したが・・・
傍聴席の男が笑った。
「遺体は絶対見つからないよ」
宇都宮地裁三〇一号法廷。実行犯の一人が「遺体はがけから投げ捨てた」と、同じ証言を繰り返していた。
閉廷後、男は証言をあざ笑うかのようにつぶやいた。
「やつらは本当のことを言ってないから」
男の袖口から、かすかに入れ墨がのぞいた。
●●●
遺体なき殺人−。
実行犯の三人は小佐々さん殺害を認めている。だが、発生から五百日余りたった今も遺体は家族の元に帰っていない。
事件は二〇〇一年十月三十一日、起きた。午後五時四十五分ごろ、「鹿沼市環境クリーンセンター」に勤務する小佐々さんが帰宅するところを田村好(62)、高木誠(53)、吉田義雄(60)の三被告が待ち伏せて、拉致した。
翌十一月一日午前一時二十分すぎ、群馬県高崎市倉賀野町。国道17号のNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)が、北上するアコードワゴンをとらえていた。その後部座席に小佐々さんがいたという。
国道を見下ろす箱型のカメラは午前三時三十分すぎ、再び南下するアコードワゴンをとらえた。実行犯はその約二時間十分の間に、山中で小佐々さんを殺害、がけ下に投げ捨てた、とされている。
捜査本部は、Nシステムの記録と同じ時間帯に車を走らせる実験を試みた。行き来できる範囲を絞り込み、大掛かりな遺体捜索を展開した。
榛名山、高崎観音で有名な通称・観音山の周辺、安中市、吉井町…。延べ八日間で投入した捜査員は八百八十六人に上る。
ところが、遺留品さえ発見できていない。
「実行犯たちが『現場に行けば分かる』と言っていた。楽観していたんだが…」。捜査幹部の一人は、表情を曇らせた。
殺害を認めている三人の遺棄現場に関する供述はほぼ一致しているのに、供述と合致する場所が浮かんでこない。
「供述は真実なのか」−。一部の捜査員は疑念を口にする。
●●●
実行犯に近い暴力団関係者の間では、逮捕の数カ月前から「田村たちのグループが殺して埋めた」との情報が流れていた。「実行犯は、遺体遺棄について周囲に漏らしていた可能性があった」とある捜査幹部は言う。
三人の実行犯を知る女性を追って関西方面に飛んだ捜査員もいる。だが捜査の筋にはならなかった。「結果として実行犯全員が『投げ捨てた』と供述したから…」と捜査幹部。
その女性はこう話す。
「こんな話を聞いた。『一メートルほどの穴を掘った』と、実行犯の一人が知人に打ち明けていたらしい」「『殺人を認めても、遺体が出てこなければ刑が軽くなる』と、誰かに吹き込まれていた節もあった」
高木被告は公判で証言している。
「高崎には昔、産廃を捨てる穴を探しに行ったことがあるから、そっちに行った」
高崎の観音山の裏手には、大規模な産廃処分場がいくつも口を開けている。
「もし、あんなところに埋められていたら見つからない」
遺体捜索に加わった捜査員が漏らした。
●●●
七月二十九日に開かれた田村被告の公判。証人として出廷した吉田被告に裁判長が矢継ぎ早に質問を浴びせた。
裁判長「遺体について『別の場所に移したから見つからない』と言ったことはないか」
吉田被告「(別の被告が)事件発覚におびえていたので、安心させるために言っただけだ」
裁判長「本当に移していないか」
吉田被告「田村被告と相談はしたが、実際には移していない」
厳しい追及には、証言への疑念がにじむ。最後に裁判長は被告を見据えてこう言った。
「では、なぜ見つからないんでしょうね」
プロローグ2 動機の謎 (2003年8月14日付)
http://www.shimotsuke.co.jp/hensyu/kikaku03/kanuma/seigi/pro/pro2.html
実行犯の“暴走”説も・「許可は下りる」・曽根社長は知っていたはずだ
まるで夢物語だった。
約八万平方メートルの敷地。温泉を活用したリハビリセンター、それも国内で前例のない身障者の自動車教習所を併設した一大福祉センター構想−。
「それだけの大事業を手掛けようとしていた男が、殺しを頼んだりすると思うか?」
六月中旬。JR宇都宮駅近くのホテルのロビーで取材に応じた男は、福祉事業のパートナーだった曽根正志社長=当時(61)、自殺=の「動機」に疑問を投げ掛けた。
●●●
<イシキガ ウスレテイク><メイワク カケル>…。
デパートの紙袋の切れ端に、片仮名だけの文章。縦書きなのに左から右に流れる独特のつづり方だった。
今年二月、インシュリンの過剰投与で自殺した曽根社長の「遺書」。そこには事件への関与を否定する一節があった。
鹿沼市内で廃棄物収集運搬会社「北関東クリーンサービス」を経営していた曽根社長は、市の廃棄物担当だった小佐々守さん=当時(57)=とトラブルとなり、二〇〇一年十月、下請け業者の佐々木京一被告(48)を介して田村好被告(62)ら三人に殺害を依頼したとされる。
北関東クリーンは事業許可の更新を市に申請したが、小佐々さんのチェックが厳しく許可がなかなか下りない。危機感を募らせた曽根社長が逆恨みし、殺害を決意した−というのが検察側の指摘する直接的な動機だ。
事件が起きた十月三十一日は、許可期限の日だった。
しかし、小佐々さんの部下の一人は強い口調で言う。「いずれ許可が下りると曽根社長は知っていたはずだ。許可が出ないことを危ぐしていたとは思えない」
当時の北関東クリーン社員も「期限の数日前に市から許可が出ると連絡があり、曽根社長にも伝えた」と証言する。
だとすると、動機は何だったのか。
曽根社長の福祉センター構想。その核となるのが埼玉県羽生市の「羽生温泉」だ。
昨年六月にNPO法人「羽生国際健康福祉事業団」を立ち上げ、理事長に曽根社長、監事に佐々木被告が就いた。ある捜査幹部は「曽根は温泉事業に入れ込んでいた。毎日のように現地に足を運んでいたんだ」という。
だが、温泉利権にはさまざまな人間たちが群がった。田村被告ら実行犯も参画を狙っていた。
「温泉のことは任せるから、もうおれにはかかわるな」。事件後、実行犯から繰り返し現金を要求されていた曽根社長はこう言ったという。
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曽根社長の会社の残務整理に携わった知人は「資産は少なくても三億円あると思っていたが、実際は数千万円しかなかった。どこへ消えたのか」と首をかしげた。
曽根社長や実行犯の周辺、行政関係者さえも不思議と似た仮説を口にする。
−曽根社長が話の勢いで「邪魔なやつがいる」と佐々木被告に言う。田村被告から「何かもうけ話はないか」と持ちかけられた佐々木被告はその話を伝える。田村被告はその話を恐喝のネタにしようと勝手に暴走し、殺害計画を進めた−。
「あくまで推理だけどな」。ロビーの男は低くささやいた。
プロローグ3 参事の遺書 (2003年8月15日付)
http://www.shimotsuke.co.jp/hensyu/kikaku03/kanuma/seigi/pro/pro3.html
「便宜」認め永遠に沈黙・「だれも傷つけず」・言えないから死ぬしかなかったんだ
最期の言葉は「鹿沼市役所」の便せんに刻まれていた。
<曽根氏の会社の運営について大目に見ていて便宜を図ったことは事実であり、大変なことをしてしまった>
鉛筆で書かれた文字は、少し震えているようにも見える。市職員としての悔恨と無念、妻子への謝罪と惜別。
<残念で仕方がないけど、これで決まりをつける以外方法はない>
<私は死んでも必ず見ているから>
妻は声を詰まらせた。 「どんな思いでこれを書き、どんな思いで市役所の五階に立ったのか」
前夜、参事は真っ暗な自宅の部屋で一人たばこを吸っていたという。
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二月十一日朝。鹿沼市の税務担当参事=当時(53)=は自ら命を絶った。三十六年間勤務した市役所の非常階段から身を投げた。遺書は六通。家族、市長、教育長、職場、親友である同僚、検事あてのものがあった。
参事は殺害された小佐々守さん=当時(57)=の前任者だった。事件の首謀者とされる曽根正志社長=当時(61)、自殺=の廃棄物収集運搬会社に便宜を図ったとされる。
二月上旬から県警の事情聴取を受け、自殺した日も地検から呼び出しを受けていた。「疲れた」。参事のつぶやきを聞いた同僚もいる。
曽根社長の会社の元従業員は、参事と小佐々さんの印象の違いをこう表現する。「前任者は行きやすい人、小佐々さんは行きにくい人」
小佐々さんは法令に厳格で、指導を受ける曽根社長側には「煙たい存在」だった。前任の参事は、曽根社長の会社の扱いには甘かった。これに乗じて、曽根社長は増長していった。
<役所として大変世話になった人への恩義のためにしたことであり、悪いことではあるが社会通念上仕方なかった>
市役所のためだった…との思いがにじむ。
捜査当局は、曽根社長と市行政との間に癒着があったとみている。
<自分の意志は組織の中にいると、押し通すことはできない>
<強い組織には一人では勝てない。完敗です>
「組織とは市役所のことだ」と県警捜査幹部。
参事の遺族はこう感じたという。
「市役所は怖い」
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二月九日夜、参事は小学校の級友だった男性宅をふらりと訪ねた。
自殺した時と同じ紺のジャージー姿。友人は不在だったが、応対した妻が「曽根さんはなぜ自殺したんでしょうね」と問いかけると、参事は「おれも死ぬよ」とつぶやいたという。曽根社長の通夜の晩のことだ。
身を投げたのはその二日後だった。
親しい同僚は話す。
「知っていることをすべてぶちまけてから死ねばよかったのに、と言う人がいる。でも、それが言えないから死ぬしかなかったんだ」
<こうした形をとった方がだれもキズつけないで済む>
参事の妻は訴える。
「夫は家族にも何も語らなかった。でも、このままでは夫一人が悪者になってしまう。真相を知る人が黙っていることが、何より悔しいんです」
プロローグ4 「念書」の謎 (2003年8月16日付)
http://www.shimotsuke.co.jp/hensyu/kikaku03/kanuma/seigi/pro/pro4.html
市幹部、遺書で関与否定・「2通あったんだ」・社長の知人は見た もう1通には朱印
<念書は命にかけて作っていないことを証明します>
親しかった同僚にあてた遺書。自殺した鹿沼市の税務担当参事=当時(53)=は、その三行目にこう書き残していた。
事件の首謀者とされる曽根正志社長=当時(61)、自殺=に市が便宜を図ることを約束した「念書」。参事は遺書で曽根社長への便宜を認めながらも、念書作成への関与は強く否定し命を絶った。
参事の同僚は言った。
「すべて自分がやったと思われるのが、よほど悔しかったんだろう」
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参事の死から三週間後の三月四日。匿名の封書が複数の報道機関へ一斉に送られてきた。
「責任を持ってご支援とご協力を(中略)確約申し上げます」
A4判、ワープロ打ち。日付は「平成四(一九九二)年二月十日」とある。当時の稲川武市長名で曽根社長にあてた「念書」のコピーだった。
同じコピーは、殺害された小佐々守さん=当時(57)=がファイルに保管しており、失跡後に市が県警に提出していた。
念書には、曽根社長に市が「多大な迷惑と負担」をかけた問題として、下水道汚泥や市清掃事務所の焼却灰処分など四項目が列記されている。曽根社長は念書をちらつかせ、「おれのごみにけちをつけるな」と小佐々さんらをどう喝していた。
念書にある日付の当時、稲川市長は病床にあり、ほとんど執務していない。自殺した参事は当時、秘書人事課長補佐として市長を支える立場だった。「参事が作って公印を押したのでは」。疑惑の目が向けられていた。
だが、同僚は否定する。「彼が作ったとは思えない。だって当時はワープロが打てなかったんだから」
参事は家族あての遺書の結びに記している。
<もっとも尊敬した稲川市長を裏切るような行為は絶対にしないことを信じてほしい>
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「おれが見たのは、あれじゃない。念書は二通あったんだ」。曽根社長の会社の残務整理をする男性が証言する。
「五、六年前、社長に見せてもらった。新聞に載った横書きのじゃなく、縦書き。ワープロ打ちで稲川市長名は同じだったが、コピーじゃなく朱印が押してあった。四項目なんて、なかったな」
男性が曽根社長に「こんなもの効力ないよ」と言うと、その後、念書が話題に上ることはなかったという。
「念書は書き換えられたんじゃないか」。男性は推測する。「社長一人で作れるもんじゃない。だれかが知恵をつけたんだろう」
今月四日、市議会調査特別委員会(百条委員会)終了後の記者会見。
「…出せる状況にありません」。念書の作成者について問われた山崎正信委員長は、口元をゆがめて言った。
百条委は「四項目の根拠があいまい。文書サイズなどから九五年以降に作られた可能性が高い」と偽造の疑いを指摘した。だが、肝心の作成者は特定できなかった。
「印影は本物。公印を押したのは職員以外考えられないのだが…」。委員の一人はつぶやいた。
プロローグ5 現場から (2003年8月17日付)
http://www.shimotsuke.co.jp/hensyu/kikaku03/kanuma/seigi/pro/pro5.html
深層への鍵 三つの死・「背景を明らかに」・納得できぬ理不尽さ 本当のこと知りたい
暗闇の道を照らすには、その光はあまりにか細い。
小佐々守さん=当時(57)=殺害事件後、鹿沼市上殿町の拉致現場に一基の防犯灯が設置された。
小佐々さんが勤務していた「市環境クリーンセンター」から三百メートルほどの距離。二年前の十月三十一日、ここで見知らぬ男たちに連れ去られた。
その日、妻の洌子(きよこ)さん(55)は友人と奥日光へ出かけた。
「楽しい話をいっぱい持って帰ってきたのに」
早く土産話を聞かせたい。きっと、夫はいつもの笑顔でうなずきながら聞いてくれるだろう。
こぼれそうになる笑みを抑えながら、いつまでも帰りを待ち続けた。
しかし−。八月十日の葬儀。骨箱には帽子や眼鏡、お気に入りのネクタイ…。遺体はまだ帰らない。
理不尽−。
小佐々さんは、なぜ殺されなければならなかったのか。
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三年前に市長が交代してから、税務担当参事=当時(53)=は「居心地の悪さ」を感じていた。
「部長会議に出たくない」「役所やめようかな」。周囲に漏らすこともあった。「彼は旧体制派だったから」と同僚。
れんが色の鹿沼市庁舎新館に、白く塗られた非常階段がある。
裏山に面し、休日にはひっそりと静まりかえる。そこから参事が身を投げたのは二月十一日、建国記念日の朝だった。
参事は遺書にこう書き残した。
<あまりにも冷たい視線が多い>
役所内で居場所を失った参事は、誰もいない役所での孤独な死を選んだ。
参事は、事件の「首謀者」曽根正志社長=当時(61)、自殺=に便宜を図ったとされる。やはり「旧体制派」の元三役ら歴代の廃棄物担当者にもさまざまな疑惑が浮上している。
彼らは、参事の死をどう受け止めるのだろう。
沈黙−。
参事は何を守り、だれをかばおうとしたのか。
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曽根社長は、慣れ親しんだ商売道具を死に場所に選んだ。
鹿沼市池ノ森の建設会社の敷地には多くのダンプカーが駐車している。二月六日早朝、その中の一台から曽根社長の遺体が見つかった。
捜査の手が伸びる中、三日午後から行方不明になっていた。
「やつれて苦しそうな顔だった」
現場となった建設会社の社長は曽根社長と旧知の間柄だが、しばらく疎遠だったという。
「どこへも帰れなくて最後におれを頼ってきたんじゃないか。群がっていたやつらはみんな逃げてしまったから」
盛衰−。
ダンプ運転手、居酒屋店主から廃棄物処理業に転じ、大成功を収めた「力」の源泉は何だったのか。いつから破滅の道を歩み始めたのか。
「事件だけでなく、背景が明らかにならなければ納得いきません。本当のことが知りたいんです」と洌子さんは言う。
三つの死。深層に迫る鍵がここにある。
(プロローグ終わり)
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