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覚 醒 剤
覚せい剤は、隠語では一般的に「シャブ」、「ブツ」、「ネタ」などと呼称されていますが、地域によっては「アンポン」、「アンポンタン」などと呼んでいるところもあります。
また最近、若者の間では、「S」、「スピード」などとも言っています。
この覚せい剤は、我が国で最も乱用されている薬物ですが、もともと覚せい剤には、アンフェタミンとメタンフェタミンの二種類があります。
アンフェタミンの化学名は、フェニルアミノプロパンで、メタンフェタミンの化学名は、フェニルメチル・アミノプロパンです。
現在国内に出回っている覚せい剤のほぼ100パーセントがメタンフェタミン、すなわちフェニルメチル・アミノプロパン及びその塩類です。
今、我が国では第三次覚せい剤乱用期にあると言われていますが、戦後の昭和20年(1945年)から現在までの覚せい剤乱用の経緯をたどってみますと、概そ次のようになっています。
● 第一次覚せい剤乱用期 [昭和20年〜昭和30年(1955年)頃までの間]
この時期は、「ヒロポン」の乱用期とも言われています。
ヒロポン〜ギリシャ語で仕事を好むの意〜はメタンフェタミンの商品名で、戦時中、軍需用品として大量に生産され、兵士や軍需工場等で働く労働者に服用させ、その薬効によって疲労の除去を図り、戦闘意欲や作業能力、生産能力を高めたと言われています。
また、お茶の粉末にヒロポンを混入して固めた「突撃錠」「猫目錠」と呼ばれた錠剤を特攻隊員に配給し、若き特攻隊員はこれを飲んで敵艦に突撃して行ったという悲劇もあったと言われています。
こうした軍需用品として生産されたヒロポンが、敗戦で荒廃した社会に流出し、それによる深刻な覚せい剤禍が現出しました。
これが、第一次覚せい剤乱用期となった原因の一つといわれています。
この期のピークは、昭和29年(1954年)で、この年の検挙人員は5万6千人に達しました。
当時、覚せい剤に関する規制は、薬事法に基づく販売者に対する規制しかなく、末端乱用者の所持や使用を取り締まることができなかったことから、昭和26年に新しく覚せい剤取締法が制定され、輸入、製造、譲渡、譲受、所持、使用が原則禁止されることになりました。
そして、昭和29年と30年に取締りの強化を目的とした覚せい剤取締り法の改正が行われましたが、これらの対策によって、覚せい剤の乱用は急速に鎮静化し、昭和30年頃までに日本国内での密造が一掃されました。
● 第二次覚せい剤乱用期 [昭和45年(1970年)〜平成8年(1996年)頃までの間]
第一次覚せい剤乱用期から10年余にわたって封圧されていた覚せい剤の乱用が、昭和45年頃から再び息を吹き返し、昭和59年(1984年)の検挙人員約2万4千人をピークに、昭和63年(1988年)まで年間の検挙人員2万人台の高原状態が続きました。
それ以降は、年間の検挙人員は2万人弱の状態で推移しました。
第二次覚せい剤乱用期に突入した大きな原因の一つが、暴力団がその資金源として、組織的に覚せい剤の密輸、密売を行うようになったことにあると言われています。
そして暴力団は、取締りの目を掠め、現在にいたるまで覚せい剤の密輸、密売を執拗に行い、巨額の不法資金を得ているのが現状です。
一方、この頃、我が国と近い関係にある韓国や台湾で新たに密造が始まったことも、乱用に火をつけた一つの原因になったと言われています。
そしてこの時期、深川通り魔事件(昭和56年)など、中毒者による凶悪犯罪が多発し、大きな社会問題になったことも、記憶に新しいところです。
このような深刻な情勢の中で、昭和48年(1973年)には覚せい剤取締法の大改正が行われ、違反行為の整理と法定刑の引き上げ、覚せい剤または覚せい剤原料の輸入等の予備罪、資金提供罪の新設等が行われました。
● 第三次覚せい剤乱用期 [平成10年(1997年)から現在まで]
平成10年1月、国において第三次覚せい剤乱用期への突入宣言が出されました。
その背景としては、第一に、それまで台湾、韓国等から流入していた覚せい剤に加えて、新たに、中国、北朝鮮で大規模な密造が始まり、多量の覚せい剤が我が国に流入しつつあること、第二に、従来の暴力団絡みの密売組織に加えて、イラン人等来日外国人の密売組織が参入し、街頭における無差別密売により覚せい剤入手が極めて簡単にできるようになっていること、第三に、薬物乱用に対する罪悪感が希薄化し、特に青少年の間では、ファッション感覚で弄ぶ風潮さえ生じていること、第四に、昭和50年(1975年)代に1万円程度で密売されていた1回分(約0.02グラム)の末端価格が2千円程度にまで下っていること等から、それまで高原状態で推移していた覚せい剤の乱用が、一層伸長して行く危険な情勢にあることによるものです。
事実、過去の覚せい剤押収量の推移を5年単位で比較してみますと、次表のとおり、平成6年(1994年)から10年の押収量は1,770.1キログラムに達し、昭和29年をピークとする第一次覚せい剤乱用期、昭和59年をピークとする第二次覚せい剤乱用期における押収量を超えています。
また、平成11年中の覚せい剤の押収量は、1,975.9キログラムで史上初めて1トンを突破し、過去の年間最多押収量であった平成8年(1996年)の650.8キログラムの約3倍に達しています。
なおまた、平成12年中の覚せい剤の押収量は、1,027.0キログラムで平成11年に次いで多くなっていますが、平成13年は406.1キログラムで平成11年、平成12年に比して大きく減少しています。
ただそれでも年間押収量としては過去6番目の多さとなっています。
これら押収された覚せい剤は、実際に密輸されている覚せい剤の10分の1から20分の1に過ぎないとも言われています。
5年単位でみた覚せい剤押収量年 覚せい剤押収量
昭和29年〜33年 248.4kg
34年〜38年 14.0kg
39年〜43年 9.0kg
44年〜48年 98.8kg
49年〜53年 253.9kg
54年〜58年 618.1kg
59年〜63年 1,675.9kg
平成元年〜5年 874.3kg
6年〜10年 1,770.1kg
11年〜13年 3,409.0kg
覚せい剤押収量の多かった年(年押収量300kgを超えた年) 順位 年 押収量
1 平成11年 1,975.9kg
2 平成12年 1,027.0kg
3 平成8年 650.8kg
4 昭和62年 620.5kg
5 平成10年 549.0kg
6 平成13年 406.1kg
7 昭和61年 349.7kg
8 平成6年 313.3kg
以上が第一次覚せい剤乱用期から第三次覚せい剤乱用期に突入した今日までの経緯の概要ですが、先にも触れましたように、この覚せい剤の不正取り引きには、暴力団が深くかかわっており、近時、来日イラン人密売組織等による密売事犯が頻発しているとは言え、なお、暴力団が覚せい剤の密輸、密売の中核的な存在になっていることには変りはありません。
従って、覚せい剤の乱用を封圧して行くためには、何よりもまず暴力団の壊滅を図り、不正取引の根を断って行く必要があります。
ところで、覚せい剤にはどのような薬理作用や効用があるかと言いますと、覚せい剤を使用すると、中枢神経が興奮し、疲労感の除去、気分の高揚、陽気、多弁、多幸感等の効果が現われ、一方では瞳孔の散大、頻脈、血圧上昇などの交感神経系の症状を併発します。
セックスの際に使用すると、男性は持続力がアップし、女性は全身これ性感帯になると言われています。
覚せい剤の使用料は、1回当たり0.02〜0.03グラムと言われており、作用時間は約2時間、長くても3〜4時間ですが、恐ろしいのは、覚せい剤を一度使用すると、快楽、陶酔感を再び味わいたいと言う強い欲求と、更に、薬物の消失後に生ずる疲労、倦怠感から逃避するため、どうしても乱用を反復継続したいと言う強い「精神的依存」が起きるといわれています。
このようにして、覚せい剤を継続使用すると、数ヶ月で中毒症状を呈するようになり、幻覚、幻聴、妄想が現われ、また歯がボロボロとなり、肝臓障害(肝硬変、肝臓ガン)を起こします。
また、覚せい剤中毒となった者が、長年月の断薬後、乱用を再開した場合、容易に精神障害を発現するという事実もあります。
これを、「フラッシュバック現象」といっていますが、この現象は極めて短期間、時には1回の使用や、覚せい剤を使用することなく別の刺激(過度の疲労、強度の精神不安、深酒等)でも再現することもあります。
このように覚せい剤は、人間性をも破壊してしまう大変恐ろしい薬物で、これが広く乱用されるようになると、国の存立そのものが危うくなりかねません。
今、我が国では、世の享楽的な風潮の中で、こうした覚せい剤の他、コカイン、ヘロイン、あへん、乾燥大麻(マリファナ)、大麻樹脂、向精神薬等の各種薬物も乱用されており、極めて危険な状況にあります。