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(回答先: 名古屋妊婦殺人事件【こんな事件も】 投稿者 エンセン 日時 2003 年 7 月 26 日 16:05:16)
ロボトミーの歴史と事件 精神外科の犯罪
ロボトミーは、ロブス(脳葉)とトミー(切截)の合成語で、精神医療を目的とする脳の一部分を切り取るか破壊する外科手術の事だ。
昭和54年9月26日午後5時すぎ、桜庭章司(50)は東京都下小平美園町の精神科医藤井澹(きよし・53)宅の格子戸を開けた。
和服の老婦人が出てきた。
「お届け物です」桜庭はデパートの配達員を装った。
段ボール箱を渡しながら婦人を押さえつけ、手足に手錠をかけ、ガムテープで目と口をふさいだ。
婦人は深川タダ子(70)、藤井医師の妻道子(44)の母だった。
間もなく帰って来た道子も取り押さえた。桜庭は藤井医師を待った。
桜庭の調べでは、藤井医師は6時半頃帰宅するはずだった。
だが、この日、8時過ぎても帰宅しなかった。
桜庭は道子とタダ子に話した。
こうなってしまった理由を
――桜庭は貧困の中、英語を独学し、昭和24年、20歳で新潟電話局に通訳として勤め米軍との折衝にあたった。
翌年、米軍に見込まれ諜報機関OSIにスカウトされ、英語を磨いた。
昭和29年、桜庭は上京し、王子で予備校の英語教師になるが、なじめず1年で松本に帰り土工として工事現場で働いた。
桜庭は正義感が強かった。出稼ぎをいじめる土工と喧嘩になった事があった。
桜庭は強かった。19歳で、北陸5県社会人ボクシング選手権大会に出場、ライト級で優勝していた。
現場で手抜き工事に気がつき、本社で社長に訴えた。
しかし、社長は桜庭に酒を飲ませ、半年分の給料5万円を握らせた。
桜庭は家に帰り、作家の勉強をはじめた。
だが、2ヶ月ほどした10月14日、殴った土工の訴えで逮捕された。
社長も金の事をしゃべったため、暴行と恐喝で懲役1年半、執行猶予3年の判決を受けた。
社長の仕組んだ口封じかもしれなかった。
翌年8月ダム工事の現場で、解雇と賃金不払いをめぐって社長宅に直接交渉に行き、恐喝とされ逮捕、執行猶予を取り消された。
昭和34年12月、長野刑務所に下獄した。
2年後の昭和36年、テレビが普及をはじめ、力道山がヒーローになった頃、桜庭は出所して再び上京、鉄筋工として働くかたわら翻訳の仕事を始めた。
昭和37年5月、翻訳会社からの帰り、桜庭はたまたまスポーツ新聞を手にした。
OSI時代アメリカのスポーツ情報に直接触れていた桜庭の目には信じられないデタラメばかりが書かれていた。
桜庭は新聞社に行って間違いを指摘した。
当時はプロレスやボクシングの人気が先行し、情報がなかった時だ、桜庭は願ったりかなったりの存在だった。
桜庭は新聞社から依頼され、鬼山豊の名で記事を書くようになり、すぐに売れっ子になった。
鬼山豊はスポーツライターの草分けとして、それまでなかったジャンルを独力で切り開いて行った。
桜庭は、昭和39年3月3日、妹宅を訪れた時、母親の事をめぐって妹夫婦と争った。
ずっと仕送りを続けているにもかかわらず、理解されないための苛立ちがあった。
桜庭が茶箪笥や人形ケースを壊したため妹の夫が警察に通報し、桜庭は逮捕された。
妹夫婦は翌日告訴を取り下げたが、所轄の志村署は桜庭を釈放せず、1週間後、都立梅ヶ丘病院に連行、精神鑑定をした。
鑑定した女医は、桜庭を精神病質人格とした。
前歴があったためだろうか、鑑定が終わり釈放を求める桜庭を、警察は今度は、聖跡桜ヶ丘の桜ヶ丘保養所(現桜ヶ丘記念病院)に連行した。
桜庭は問診ひとつされず、強制入院させられた。
そして、昭和39年11月2日、桜庭を担当していた藤井は肝臓検査と偽り、桜庭の脳を手術した。
執刀医は加藤雄司、ロボトミーの一種であるチングレトミー(帯回切除手術。脳の中心部にある帯回の切除)を行った。
桜庭は病院の実態を知るにつれて恐怖を感じ、母親に「手術には同意しないでくれ」と手紙を出していたが、病院に呼ばれて医者から「息子のために」と言われ、年老いた母は「先生が嘘を言うはずはない。後できっと喜んでもらえると思って」同意していたのだ。
手術後、退院したがった桜庭に、藤井は退院許可と引き換えに手術の同意書を書かせた。
すでにロボトミーの症状が現れ従順になっていた桜庭は同意書を書いた。
退院後の桜庭は書けなくなっていた。
ロボトミーのせいで意欲も集中力もない。
そして、頭痛に悩まされ、テンカンの発作を起こすようになった。
睡眠薬に頼るしかなかった。
何もできなくなり、転職に転職を重ねた。
発作を起こすため建築現場でも働けなくなっていた。
どん底をさ迷った。
睡眠薬でもうろうとした中で金があれば勉強が出来ると、横浜の貴金属店に強盗に入り、店員に取り押さえられた。
4年の懲役刑を執行された。
出所後、フィリピンにいた弟の世話で、通訳としてマニラに行き、永住を考えるまでになったが、部屋に遊びに来た現地青年の中に反体制派がいたため、国外退去となった。
帰国後の桜庭を支えたのは、転落しきった果てに思いついた復讐だった。
藤井に詫び状を書かせ、無理心中する。
桜庭は、医師名鑑で藤井医師の住所をつきとめた
――藤井医師は帰って来ない。
桜庭はナイフで道子とタダ子の首を切り、殺した。
物盗りに見せかけようと給与袋と預金通帳を奪って逃げたが、池袋の中央改札近くで何度も段ボール箱から手錠を落としたため警察官に職務質問を受け、交番に連行された。
27日午前2時すぎ、同僚医師の送別会の二次会からタクシーで帰った藤井医師は、妻と義母の死体を発見し、知人を通じて警察に通報した。
犯人の桜庭は捕まっていた。
桜庭には、すでに本人への復讐を果たすだけの力がなかった。
女2人を殺すので精一杯だった。
だが、力を奪ったのは、妻と義母を殺された藤井医師だった。
平成8年11月16日、最高裁が桜庭章司の無期懲役を確定、ロボトミー殺人は結審した。
昭和33年6月5日、坂本一仁は河口湖畔で生まれた。
銀行員だった父親は仕事と家庭を放り出して行方がわからなくなっていた。
母岩瀬幸子(24)は一度は一仁を堕ろそうとしたが、割烹旅館で働きながら一仁を産んだ。
生後3ヶ月の頃、母は上京し、新宿のクラブに勤めた。
一仁は甲府の祖母と2人で育った。
母は学齢になったら一仁と暮らすのを夢見ていた。
母はホステスをやめ、池袋でスナックをやっていた。
昭和40年4月、一仁は上京し日之出小学校に入学した。
しかし、5月に知恵遅れとして大塚台小学校特殊学級に転校させられた。
一仁は目をパチパチするようになり、1年生の終わり頃、一仁は数秒から10数秒、瞬間的に意識をなくす発作を起こした。
昭和42年1月19日、担任教師の紹介で、都立梅ヶ丘病院に通院した。
投薬を受けたが、1人で通学し、問題なく友達と遊んだ。
11月23日、全身けいれんの発作を起こした。
翌8月に2度目の発作を起こし、梅ヶ丘病院に入院した。
なじめず、1週間で退院した。
母は池袋に近い病院を希望し、東大分院精神科外来を紹介された。
分院で検査をしたが検査結果に疑問があると、東大脳外科を紹介された。
一仁は検査を嫌がった。
それで検査には全身麻酔が必要だと入院する事になった。
11月22日、一仁は入院した。
25日、脳外科の長、佐野圭司教授が大勢の弟子を連れて回診した。
佐野は一仁のカルテに「難治性てんかんでステレオ(定位脳手術)適応」と書いた。
検査の前日、1回の回診で検査入院をしたはずの一仁がロボトミー手術を受ける事になってしまった。
病院はいつまでも一仁を退院させなかった。
母はやっと一仁を退院させ、分院に通院させた。
投薬で症状は落ち着いて来た。
昭和44年11月27日、朝11時、東大脳外科からの突然の電話で一方的に入院を言われた。
母は一仁を早退させ、病院に連れて行った。
12月2日、頭蓋骨に穴を空けて脳波を調べるなどの検査を受けた。
6時間以上かかるつらい検査だった。
12月11日、一仁はロボトミーをされ、12月30日、歩く事もできず母に背負われて退院した。
発作も続いていた。
昭和45年1月3日、朝から何度も発作を起こした。
母は病院に連絡した。
1月8日の再入院を指示された。
入院した。
1月20日に2度目のロボトミー手術が行われた。
1度目も2度目も検査名目で手術だという事は知らされなかった。
2月7日、一仁を病院から退院させるよう連絡があった。
悪化していた。
主治医は冷たかった。
一仁を捨てたのだ。
2月15日、退院。
寝たきりの一仁は1日中「ウルトラマン」と「仮面ライダー」の主題歌を聞くだけで、話す事もできなかった。
曲が終わると、一仁が母にだけわかる声でせがむ。
母は何度でもテープを再生した。
床ずれが酷かった。
一仁にはヒダントールF錠が処方された。
副作用で歯肉が増殖し、口の外にはみ出した。
流動食しか食べられない。
1口ごとにむせて、まわりは嘔吐物で汚れた。
舌が喉の奥に沈み呼吸困難になった。
眠っている時は顎を上げておかなければならなかった。
母は往診を依頼した。
だが、担当医は連れて来いと取り合わなかった。
病院に行っても、担当医と会う事もできなくなった。
知り合いだった保険関係の新聞記者が顔を出してくれた。
すると、医師はすぐに出て来て往診を承諾した。
態度がまったく違った。
往診はおざなりだった。
手ぶらで来て、スリコギを出させ、一仁の体を叩いて見るだけだった。
貧しい母子家庭と見てか、馬鹿にしきっていた。
一仁は衰弱して行った。
母は病院の対応が許せず、弁護士に会った。
昭和48年6月、母は訴訟を起こした。
昭和49年3月21日、一仁は死んだ。
18歳だった。
裁判は続いていた。
昭和48年6月11日、1月に開院したばかりの札幌市豊平区真栄にある精神科北全病院から2人の入院患者が脱走した。
2人は札幌弁護士会に救いを求め、病院の惨状を告発した。
2人は北全病院には看護婦が少なく、掃除などをする病棟婦、作業指導員らに注射や点滴をさせている事、患者を薬づけにし退院を遅らせている事、手紙の検閲をし、手紙を焼いたり不都合な部分を消したりしている事、不満をもらす患者には暴行し、電気ショックを加える事を訴えた。
外見は小奇麗な北全病院だったが、中身は惨澹たるものだったのだ。
2人のうち、河合幸次(37)は3月6日に北全病院に入院した。
内科のつもりで北全病院に行き、診察もなく生年月日を確認しただけで入院手続きは終わった。
河合は閉鎖病棟に入れられて、はじめて精神病院だと知った。
退院を申し出たが許可が下りず、面会に来た妻も追い返されいた。
河合は脱走を試みた。
2階の窓ガラスを破って地上に飛び降りたが、その場で職員に捕まった。
四畳半の保護室に連行され、電気ショックをされた。
手足を抑え付けて拘束衣を着せられ、口に手拭いを突っ込まれた上に手足を固定し、左右のこめかみを濡らし、電極をあてる。
一瞬体が痙攣し、意識がなくなる。
北全病院では「作業療法」として様々な作業を患者にやらせていた。
食事の配膳、後片付け、掃除洗濯、院長比田勝孝昭の車の洗車、死者が出た場合の死体処理まで患者がやらせられた。
そのくせ、自分で用便の出来ない女性患者を全裸にし、オムツをあてがうのだけは男性職員がやっていた。
脱走した2人は、作業療法を利用した。
ゴミを捨てに行かされ、そのまま原野を横ぎり、山伝いに逃げたのだった。
北全病院の実態は道内のメディアで大きく取り上げられた。
北全病院に対する非難が高まって行った。
その中で、ロボトミーをされた患者が発見された。
元鉄筋工の加藤直信(29)は酒で体を壊し生活保護を受けていた。
肝硬変、糖尿病、慢性胃炎の診断で市内の病院に入院したが、2月14日、福祉事務所のケースワーカーが加藤を北全病院に連れて来た。
比田勝院長は加藤を慢性アルコール中毒、爆発型・意志薄弱型精神病質と診断し、内科ではなく精神科の患者とした。
比田勝院長は病院は最初、加藤に大量の向精神剤を投与し、次に札幌市立病院脳外科の竹田保医長にロボトミー手術を依頼した。
4月19日と6月5日、市立病院で加藤のロボトミーが行われた。
6月29日に退院した加藤は北全病院への再入院を拒否、帰宅した。
加藤はまったく別人となっていた。
行動が遅く、まとまりがない。
無遠慮で投げやりで身辺整理もできない。
無気力で集中力がなく、記憶にも障害があった。
その上、失禁をし、自分では着替えなかった。
妻は、2人の幼子を抱え、こうした状態の加藤に手を焼いた。
加藤が発見されたのは、そんな時だった。
加藤のロボトミーには本人はもちろん、妻の同意書もなかった。
比田勝院長は、入院の同意書を「ロボトミーも含めた入院中の全治療行為についての同意」とし、加藤には検査と説明して手術をしていた。
3人の弁護士が代理人となり、3人の医師が特別補佐人となった。手弁当だった。
裁判のための証拠保全で様々な事があきらかとなった。
まず、カルテを書きかえていた。
差し押さえたカルテと後に提出されたカルテと内容が違っていた。
比田勝院長は「証拠保全で持っていかれたので、書き写した。その時に写し間違えた」と言い放った。
コピーをとらずに手で書き写したというのである。
こうして12年におよぶ裁判が始まった。
昭和59年、突然、加藤が誘拐された。
元道警札幌南署員と旭川市内の興信所員の2人が、7月22日午後1時頃、旭川市内の精神病院に入院していた加藤を「ちょっとドライブに行こう」と誘い出し、乗用車で札幌市内のマンションに連れ込んだのだ。
加藤はその後、札幌高裁に訴えの取り下げ書と弁護団の解任届を提出し、11月7日にタクシーの無賃乗車で札幌西署に保護されるまで行方不明になった。
弁護団は、訴えの取り下げなどに対して札幌高裁に異議を申し立てる一方、保護された加藤から事情を聴いた。
加藤は、病院から連れ出されたあと、札幌市内のマンション2カ所で元警察官ら4人と共同生活をし、食事などは元警察官に用意してもらっていた。
元警察官は加藤が保護された直後にマンションを引き払い、行方をくらませてしまった。
昭和61年3月31日、比田勝孝昭院長が2千万円、執刀医1千万円を支払うという内容で和解が成立した。
加藤は42歳になっていた。
1949年、湯川秀樹と同じ時にポルトガルのエガス・モニッツがノーベル賞を取った。
モニッツは近代ロボトミーの祖と言われる学者で、1935年にロボトミー(前頭葉白質切除手術)を発明した。
神経病理学者ウィリアム・フリーマンを中心に、アメリカでロボトミーが広く行われるようになる。
精神病院で入院期間が短くてすむ(と信じられていた)ロボトミーおよびショック療法が、積極的に採用されたのだ。
『タイム』をはじめアメリカの主流メディアが「奇跡の治療法」とした事もあった。
1948年から1952年がアメリカにおけるロボトミー手術の最盛期とされる。
だが、1950年代後半以降ロボトミーやショック療法の効果が疑問視され、薬物投与に切り替えられ、現在は薬物治療が主流となっている。
アメリカだけではない。
ロボトミーの本家ヨーロッパでもロボトミーは広く行われた。
今年の4月6日、共同通信が、スウェーデンの国営テレビが、1944年から1963年にかけてスウェーデンで児童ら4500人がロボトミーをされていた事を暴露する番組を放映すると報じた。
スウェーデンでロボトミーの対象とされたのは、精神障害者や発育不全の児童で、七歳の男児が手術されたり、肉親の許可なしに病院側が独断で手術した例もあるという。
事情は日本と変わらないかった。
世界中でどれだけの人の脳が切り取られたか計り知れない。
ロボトミーは、ロブス(脳葉)とトミー(切截)の合成語で、精神医療を目的とする脳の一部分を切り取るか破壊する外科手術の事だ。
意志、感受性、喜怒哀楽が失われる悲惨な後遺症があいついだため、日本では昭和51年5月に「医療としてなされるべきではない」と日本精神医学会が決議している。
脳を切り取ってしまって、人間が良くなるなんて、考えなくてもありえないと思うだろうに、世界中で長々とロボトミーをやっていたなんて、今になってみると信じられない。
頭のいい人たちは、ものすごい馬鹿な事をしでかすという見本だ。
それに、ボーッと空ろになってしまった人を見て、治癒した、良くなったとどうして思えたんだろうか、その感受性を疑う、ロボトミーをやっていた医師たちは、おかしいんじゃないだろうか。
坂本一仁君についていた付添婦の村井さんは「脳を手術しちゃだめだよ。あたしは何人もみているけど、よくなった患者は1人もいない」と幸子さんに言っていたという。
付添いのおばちゃんにわかる事が、どうして先生たちにわからなかったのだろうか。
患者の統制さえとれれば、後はどうでもいいと考えていたという面もあるだろう。
病院によっては他に考えられない事をしている。
また、その時の主流の治療法だったという事もある。
いい事をしているという意識は、人にどんな残酷な行為もさせてしまうのだ。
専門性が非常識に肥大する例は数多くある。
もうひとつ言えるのは、外科医は切ってなんぼだという事だ。
金の話ばかりではない。
職業意識として外科医は沢山切って経験を積みたいのだ。
そこで人体実験まがいのむりやりな手術が行われたのではないか。
ロボトミー殺人の桜庭章司が入院していた桜ヶ丘保養院では、桜庭の手術の前にロボトミーされた女性が自殺したという。
壊されてしまった人間は、元には戻らないのだ。
法廷で争われたロボトミー訴訟は札幌の北全病院、名古屋の守山十全病院、東京の東大附属病院、青森の弘前精神病院の4件だが、すべて和解している。
だが、このたった4件の背後に、どれだけのロボトミーをされた患者がいるのか見当もつかない。
千倍ではきかない数だという事はわかる。
ほとんどの人が涙を飲んで沈黙に沈んで行った。
桜庭の事件は、すべてのロボトミー患者の気持ちだろう。
やられたらやり返すしかないのだ。
桜庭の無期懲役は法的な筋としては妥当なのだろう。
しかし、同時に努力とストイシズムの果てにスポーツライターとして立ちはじめた矢先、理不尽に人生を奪われてしまった桜庭の行為もまた、妥当だと思う。
翻訳調だが、データをよく整理した文章を桜庭は書いていた。
自身がボクサーである肉体性も強さだった。
桜庭の前には大きな人生が開けていたのだ。
それがついえた。
ひとつ言うとすれば、藤井医師には悪いが、女性2人を殺すのではなく、桜庭に本懐をとげさせたかった。
藤井医師の妻と義母を失った苦悩は察するにあまりあるが、どうしても、そういう思いが拭い切れない。
ロボトミーをされた後の桜庭は、外見は同じでも、何もできなくなっていた。
それを「なまけているんじゃないか」などと言われるのが一番こたえたという。
人の痛みは感じられないものだが、それが精神的なものの場合、輪をかけて理解が届かなくなる。
たった1人で苦悩を背負うしかないのだ。
これはロボトミーではないが、昭和57年に岡山の障害者施設「大佐荘」で、知恵遅れの女性が、生理が近づくと精神状態が不安定になるという理由で子宮を摘出されてしまった事件がある。
その方が落ち着くというのだ。
「精神障害者の大脳の一部を切って性格を変えるロボトミー手術と同じ」と、7年経った昭和64年に問題になった。
これなどは、まさに精神科的な外科手術という意味で、ロボトミーと同じ意図の手術だ。
いくらあつかいの難しい人だからといって、また、悪意はなかったとしても、管理をしやすくするために、個性を剥ぎ取ってしまう残酷さに気がつかなくなってしまうところに人間の怖さがある。
桜庭が事件を起こした時、新聞には「15年前の逆恨み」と書かれた。
その頃から見ると、ロボトミーに対する認識は大きく変わった。
今、ロボトミーは医学の主流からはなくなったが、マインド・コントロール絡みの話には、必ずロボトミーが出てくる。
管理をしやすくするためにロボトミーをするというのは、まさにマインド・コントロールそのものの発想だからだ。
オウム真理教内でロボトミーが行われたという噂もあったが、技術的に難しくないロボトミーは、治療を離れて、悪意の目的に転用される可能性がある。
進歩した薬物とメスを使わないソフトなロボトミーを組み合わせる者が現れるかもしれない。
マンガや小説、映画にもロボトミーを題材にしたものがある。紹介しよう。
昭和52年1月、手塚治のマンガ『ブラック・ジャック』がロボトミーを美化していると問題になった。
「少年チャンピオン」の連載第153話「ある監督の記録」で、世界的に有名な映画監督が脳性マヒの息子の手術をブラック・ジャックに依頼し、手術場面を映画に記録するというストーリーで、ブラック・ジャックは頭に2つ穴を開け、脳中枢部に電極を差し込み、電流を流す。作品の中で「ロボトミー」という言葉も使っている。
ブラック・ジャックが行ったのは、定位手術装置で針電極を脳に挿入し、視床の背内側は電気で焼灼破壊するタラモトミーという手術か、視床下部の後内側部を電気凝固させる後内側視床下部破壊のどちらかと思われる。
人気漫画の主人公がロボトミーをするのだから、美化と言われてもしかたがない。
本当に美化し、推進するつもりがないのなら、うかつすぎた話だ。
抗議を受けた手塚治側は「不勉強のためロボトミーにそれほど問題があるとは知らなかった。申し訳ない」とコメントした。
小説では『失楽園』の渡辺淳一が『脳は語らず』というロボトミー問題をあつかった作品を書いている。
こちらの方はうかつという事はなく、それなりに周到に書かれている。
北全病院事件を題材にしたと思われるロボトミー事件を、フリーランスの週刊誌記者が追って行くというストーリーだ。
貧しい被害者夫婦に同情してロボトミー事件を追って行くうちに、夫婦の裏側、病院経営のあからさまさ、医者の裏側が少し見えて来る。
渡辺淳一は斜に構えて、医者も医者だけど、患者の方もね、という感じの覚めた書き方をしている。
小説としてはうまいからスルスルと読めてしまうが、底辺の人間に対する市民の目の冷たさって、こんなものだろうなという感じが残って後味が悪い。
手塚治も渡辺淳一も医者だが、そのせいかどうか、医者寄りという感じがしないでもない。
渡辺淳一が作家でなく医者をやっていたとしたら、患者になりたくない。
平成8年9月4日、劇作家テネシー・ウィリアムズの姉、ローズ・ウィリアムズが死んだ。
テネシー・ウィリアムズの出世作「ガラスの動物園」の主人公のモデルとなったのがローズだった。
また、名作「欲望という名の電車」にも影響を与えた。
彼女は不況時代のミズーリ州セントルイスで青春時代を過ごし、精神病となって1930年代後半に前頭葉のロボトミー手術を受けていた。
直接的にロボトミーをあつかったわけではないが、テネシー・ウィリアムズの戯曲のクセのある登場人物、途方に暮れる人々のありさま、破綻した男女の赤裸々さやクライマックスを作っていく緊張感のある会話にの背後には、ロボトミーを受けた精神病者の姉の影響があったのだ。
文学者ではビート詩人のアレン・ギンズバーグの母親もロボトミー手術を受けている。
母親や姉の人格がなくなってしまう体験はこうした人たちに深く影響しているはずだ。
アメリカでのロボトミーの広がりを感じさせるうすら寒い事実だ。
映画では1975年の「カッコーの巣の上で」がある。
ジャック・ニコルソン主演の名作だ。
今でもこの映画にシビレている人は多い。
監督は亡命チェコ人のミロス・フォアマン。
原作はビートニクの作家ケン・ケーシーで、ベストセラーになっている。
物語は刑務所の強制労働を逃れて、オレゴンの州立精神病院に入った主人公マクマーフィーが自由奔放な言動で他の入院患者を活気づけるが、患者たちが積極的になりすぎて秩序が乱れて行き、悲劇的なラストに向かう。
時としてしつこすぎるジャック・ニコルソンの演技も名演と言うにふさわしい。
おもしろくて、やがて悲しきというやつで、やはりいい映画だ。
かなりの力もある。
それから、テレビでもやっていた「ハルモニア」、あれは医療事故が原因だけど、結果ロボトミーと言えば言える。
脳を破壊された主人公が超能力を得てしまうのはロマンチックすぎるけれど、トリックスター的な人物が精神病院に出現し、患者たちが活気づくという物語の「カッコーの巣の上で」も、そんなのありえないという意味で同じくロマンチックなのだ。
脳が壊される事は、そのまま人間の破壊なのだ。
その破壊は元にもどらない。
でも、現実を見たいなら、ロマンチシズムを否定してはならない。
ドキュメントとしては佐藤友之の『ロボトミー殺人事件』がある。
桜庭事件や訴訟など日本の事件はこれでわかる。
ロボトミーはそれがあった事すら忘れ去られようとしている。
しかし、これらの作品が時を超えて、今でも事実を伝えてくれる。
左右のこめかみに穴をあけ、脳の前の方にある前頭葉の白質を切り取るのが前頭葉白質切截だ。
別名標準法と呼ばれる。
名前の通り最もロボトミーらしい手術だ。
この他、頭蓋骨を切り開いて行う開頭式、皮膚ごと前頭葉を切除する前頭葉切除、眼窩から脳に入れた針先を動かして白質を切り取る眼窩経由など、切り取る部位ごとに分類されている。
また、放射線を使った放射線ロボトミー、超音波ロボトミー、電極を入れて脳を焼くタラモトミー、薬品で扁桃核を破壊する定位扁桃核破壊もある。
ロボトミーは主に前頭葉など脳の表面を対象とするが、新潟医大の中田瑞穂教授が9歳の精薄児の大脳を半分切り取り「脳の半分がなくても、どこかがその代わりの働きをする」と報告したという。
開頭式以外の手術は頭に開けた穴にメスを突っ込んで行う。
中が見えないから、カンがすべてだった。
どこまでも恐ろしい手術だ。
ロボトミーは現在でも行われているという噂もある。