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(回答先: RE:クエスチョンさん、ありがとうございます。 投稿者 愚民党 日時 2003 年 8 月 12 日 16:07:31)
これがパソコン通信デビュー掲示です。1995年のことです。
顔文字が現在もっぱら好きで使っている(^^; ではないのが初々しい。
って言うかワープロでは(^^; を出せなかったです。
今読むと、随分難しいことを書いていると感じます。現在は結構パソコ
ンとか詳しくなったけれど、はたして頭の方は進歩したのか退歩している
のか、、。(^^;
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麻原彰晃こと松本智津夫君、あなたプルシャってのはね…(^!^)
「プルシャって何?」と聞かれると、オウムのバッジと答える人が多い。
例の坂本弁護士宅に落ちていたバッジだ。しかし、プルシャの元々の意味
は、ヨーガの修業によって得られる、「人間としての最高の智恵、真の自
己である"真我"」のことである。真我というのは、経験と条件付けによっ
て制限された自我に対するもので、精神の非判断的な部分、条件付けられ
ていない精神、完全に無制限な可能性のことである。英語では、心理学・
哲学の分野で、小文字のselfに対して、大文字のSelfであらわす
ことがある。※参照
※瞑想は、精神の完全に非判断的な部分に気づくようになる能力、つまり
証人の役割を育てるものなのです。証人は、見守るという精神の一部なの
ですすなわち、考えていることに気づいていることなのです。証人は自我
を越えたものですから、判断にとらわれることはありませんし、したがっ
てどんな状況においても満足しているのです。証人の別名は、「自己」
(Self)なのです。つまり、条件づけられていない精神なのです。ど
んな経験であるかという条件がついていませんので、それはだれについて
も同じことなのです。自己は経験以前に存在するものであり、精神のいろ
いろな部分が起こる以前に存在しているものなのです。多くの心理学や哲
学において、自我は、小文字のsで始まるselfとよばれています。と
いうのはそれは、私自身の個人的な歴史なのであり、私たちの態度や恐怖
心という限界をもちながらも完全なものだからです。大文字のSで始まる
Selfは、完全に無制限な可能性なのです。=以上「体に聞いてこころ
を調える」ジョーン・ボリセンコ著、伊東博訳、誠信書房
伊東先生が「自己」と訳されたところを、ヨーガではプルシャ「真我」
と呼んでいる。言うのも馬鹿馬鹿しいが、麻原さんこと松本智津夫さんに
かかると、それはバッジであり、つけているだけで、真我が得られるとの
ことだ。以前テレビで、信者が「これをつけているだけで、効果があるん
です。自分以外の他人にはさわらせないんです」と言って、大事そうにつ
けていたっけ。また別のテレビでは、諜報省の井上嘉浩が住民とのやりと
りで「我々はシンガをえていますから」「シンガってなんだ」「あなたに
説明してもどうせ分かってもらえませんから」と言っていた。
真我は他人の奴隷になることではない。のびやかで自由。マインドコン
トロールとは対極にあるものと言える。諜報省の井上嘉浩が「シンガ」と
言っているのは、真我ではなく、麻原さんこと松本智津夫によって与えら
れ、入れ換えられた新しい見せかけの自我にすぎない。
井上嘉浩自身の元の自我に入れ換えられた、「カルマ」その他恐怖の教
えに条件づけられた自我にすぎない。真我ではなく与えられた自我だ。
麻原さんこと松本智津夫君、ハタ・ヨーガの元々の意味は、努力を要す
るヨーガなのですよ。もっとも、確信犯的詐欺師のあなたには、どうせ馬
の耳に念仏、蛙の面に水でしょうが…。最後に、真面目で無邪気なオウム
の一般信者さん、もしオウムをやめてもヨーガを決してやめることはあり
ません、本物のヨーガ、本物の瞑想を修業して下さい。皆さんに次の言葉
を贈ります。文中「私」というのはあなた自身のことです。
私の内面に偉大なる精神がある、私に耳を傾けよ、
師は近くにいるのだ、
目覚めなさい、目を覚ましなさい!
自分の足下に駆け寄りなさい
師は、今まさにあなたの頭のすぐそばに立っている。
あなたは随分と長いあいだ、居眠りをしていた。
もう今朝は、目を覚まそうではありませんか?
カビール(Kabir)
(ロバート・ブライの英訳から)
「体に聞いて こころを調える」ジョーン・ボリセンコ著、伊東博訳、
誠信書房 237頁より
その他「ヨーガ・写真で見る行法のすべて」番場一雄著、NHK出版、
参照
追記、オウム関連の評論家の話で、「いまさら、何をおっしゃってます」
と思うことがある。例えば、「宗教施設なのに銃の製造をしていたな
んて驚きです」というのがある。
驚くのは無理もないし、勝手だが、宗教と武器が結びついていた例
は別に珍しくも何ともない。イスラム過激派の例もあるし。アメリカ
では、ブランチ・ダヴィディアンの例もある。歴史をさかのぼれば、
十字軍の例もあるし、我が国では僧兵が武士勢力に対抗して武装して
いたこともある。脱税やりほうだい、拉致・リンチやりほうだい、中
で何をやっているのか分からない、という聖域を作っていたのがおか
しいのだ。オウムを宗教と見るかどうかは別にしても、「宗教家が武
器を持つはずなど無い」と信じているのがノー天気であるにすぎない。