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(回答先: 如往さんの「地球という Matrix」から 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 8 月 31 日 01:32:20)
マルハナバチさん、こんにちは。
マルハナバチさんはたしか理系のご出身で「上空飛行的思考」に偏った思考の持ち主ではないと認識しています。そして、時折そちら(彼岸)近くを飛んでみせてはまたこちら(此岸)に舞い戻って来て俯瞰した世界の様子を伝える、正しくマルハナバチさんの面目躍如といったところでしょう。
そこで、媒介であるマルハナバチさんご自身が抱懐している海図を掴むことができない状況では、勝手ながら思い当たった個所に関してのみ、的外れの謗りを免れ得ないものと覚悟してレスしたいと考えます。
>パリ、バンコク、ニューヨーク、カルカッタ、北京…いずれでもない、日本の場の、日本人の中にあってはじめて伸びやかに自己の生命性が自己の個体的限界性を超えるかのように広がり、林や庭、同胞としっかり結ぼれた織物を生成しているような感覚と経験というものがありますね。これは私たちに生命感を与えつつ創造性が発現する基盤になっています。こういう事は、地球よりもうひとつ次元を小さくした地域的matrixの存在を前提としませんか。
確かに異国の地に立ってみると、短期間であっても暫し望郷の念に駆られつつ、祖国日本の美点のみが想起されて来ます。と同時に、それを支えている同胞の存在の相貌・気配を曰く言い難く感じるのは私だけではないかも知れません。
しかしながら、「私たちに生命感を与えつつ創造性が発現する基盤たる」日本人の身体性に引き継がれた原体験とは一体何なのでしょう。さらに地域的matrixがその原風景を醸し出す起点となり得るのでしょうか。私を含めて地上の蟻達は今尚思索中と心得ております。
>グローバリズムは、各国、各地域文化の中にある自己文化への求心的愛着を破壊し、国際的という名の下で実はイギリス発欧米スタンダードの錯覚的優越性を対象国に刷り込む事で展開しようとします。(中国が周辺属国に対し「武化」と「文化」の両刀で、洗脳的支配を確かにして来たしたたかさを想い返してしまいます)
これに対抗するには、グローバリズムという名の下の欧米支配性を相対化して、意識化出来るようにする事と、自己に固有の地域的matrixに沿った文化的魅惑に染まり、愛着する事から離れない事ではないかと想うのです。
私は日本の固有性は「二項併存」の許容にあると考えています。ただしそれは日本が積極的に獲得したものではありませんし、歴史的な諸モメントに晒されることによって殆ど偶然的に身に付けていったものです。例えばそれは天皇の下命に到る「輔弼」の様式に表象されていると言えるでしょう。しかし、私はこれがグローバリズムを相対化していく上で、要諦となり得る日本人のさらなる進化を阻害している頚木にもなっていると思っています。すなわち、進化なくしてグローバリズムの相対化は叶わぬと見ているわけです。その進化とは「二項対立」を強かに咀嚼し、身と成し、しっかりとアウト・プットし西欧に投げ返すことに外なりません。(嘗て石原莞爾は周囲にたいする失意とともに敗北したのですが、現代では違った道程があるはずと楽観視しています。)
>この「地球という Matrix」 の、地域の現実の中での表現形(抽象であるわけがない)を、「地球という Matrix 」性を考慮しつつ、持続可能な形で実現しゆく時ではないかと想います。「地球という Matrix」 を想い計りつつ、実現は地域からです。その基盤は「地球という Matrix」 が生きている生物としてのヒトの身体です。地球に育まれて感応する身体です。
グローバリズムの相対化を画する上で地域において試行していくことの重要性を感じてもいますし、何よりも「地球というMatrix」を身近に意識することを可能にするでしょう。さらに、matrixとしての地域はますます厳しい状況下で人々が永久革命にコミットしていくときのよすがとなり得るかも知れません。
>ps.この身体性に関するテーマとして、いつか「精神のコスプレ」という表現をしました。これは負のニュアンスがあることを自覚して使っております。要は、アニメ、テレビゲーム、小説等による実体性無きイメージを「実存」の上にまとって自己認識することです。そのイメージが現実化したときに、自らの身体に加わり来る現実からの力動(暴力等)を了解していない形での自己イメージ形成です。本当の即物的コスプレでしたらその仮面性、仮想性は了解の上だと想いますが、精神のコスプレの場合どうなるか…。自分のバーチャル次元での快感や価値観に合わないものは脳内で無視…?
このご教示には感謝いたします。そして、後世代との結節点を探る上でも考慮に入れるべき思考実験の指針の一つにもなりました。ただし、探究は今始まったばかりと意識しています。
>個の独立については、母体的連続性からの擬似死による分断を、自律への手がかりとしてきた通過儀礼の意味を捉えなおす事で、可能性を考えたいと想います。(土居健郎氏は教壇的説明的物語を作っただけのような気もします)
蜜蜂社会における不連続点を繋ぐ雄蜂の存在意義を問うものと同義であろうと推量します。土居健郎について、『「甘え」の構造』が学会での講演が端緒となっている点からも、かかる考察に関しては自ずと限界があると見ています。
本日はこの辺にて失礼します。
また、お会いしましょう。