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(回答先: 小修正 投稿者 馬場英治 日時 2003 年 8 月 25 日 04:57:13)
馬場さん、まず、前回の言霊のレスへのお礼をしそびれました事をお詫び致します。
あれこれ考え、又長くなってしまいそうで、あまりくだらぬ事を書いて余計に迷惑をかけてしまわぬか、などと思っているうちにタイミングを逃してしまい、後で、ひとまず短くても良いからお礼だけでもしておけばよかった、と大変後悔し、胸につかえておりました。
10月頃に又、この板をお読みになれるかもとの事でしたので、その頃くらいに改めてしよう、と思っていた折りの予期せぬご登場に、これは有り難いと思い、全く前後とは関係ない事柄で大変申し訳ございませんが、この場をお借りしてお礼を言わせて下さい。
馬場さんが言霊について書かれた中で、『経済活動は一種のコミニュケ−ションであり、通貨システムはメディアに他ならないと考えています。』や『阿修羅という仮想的コミュ−ンとスカルアンドボ−ンズなどの秘密結社との相違点がどこにあるかを考えるのも意味があると思います。「言葉の霊性」が指標となるような気もします。』という所等、考えても見なかったような事でしたので、大変興味深く思いました。
又、それに加えて『聖書には「父なる神やキリストに対する罪は赦されるが、聖霊に対する罪は赦されない」とあります。私の解釈では「聖霊に対する罪」とはメディアつまり「言葉の霊性」を冒す行為に当たります。熱力学の第2法則ではこれを「エントロピーは不可逆的に増大する」と表現します。「散らばった子羊を呼び戻すこと」は神にすら難しい難事業です。』
ここの馬場さんのされた解釈は、特にすばらしいと思いました。
これを読んでなるほど、とこのサイトも含め、あらゆる「情報」というものそのものと、その伝え方、受け留め方等について改めて考えさせられ、それらの重要さ、複雑さに気づきました。
そもそも「情報」というものの信憑性については、通常どのようなものだろう。
何か出来事があった時、それが起こった事柄等は各国、どのメディアも大体同様であれば受け手側は、そうなのか、と思ってしまう。
例えば人間による初の月面歩行や、その後の月に関する情報等は、実際の所どうなのであろう。
新地を発見し、到着に成功するや否や、土着民の方々の事などお構いなしで、次々と人を送り込み、その地を欲しいがままに扱ってきた疑いようの無い気質はどこへ行ってしまったのだろう。
月に限っては、そのような(凶悪な)好奇心は無いという事か。
世界中のどのくらいの人が、どれだけの期間、月をはじめその他、宇宙開発について各国が同様に流す情報を信じてきているのだろう。
通常メディアが10件中10件流すニュ−スを疑うだろうか。
情報そのものの信憑性は通常、何件中何件というメディアの多数決による所と、情報の出所による所が大きいと思う。
しかし、その出所というのも、どれくらい信じられるものなのだろう。
情報の伝え方に関しては周知のとうり、伝え方によってどのようにもなる。
つい二、三日前の事だが、親日家の知人からThe Japan Timesにオ−ストラリア人のジャ−ナリストが書いた北朝鮮の拉致問題の記事について、どう思うかと尋ねられた。
そこには、日本は北朝鮮の拉致問題を大袈裟に騒いでいるが、先の大戦で日本人は朝鮮人を数多く拉致し、同じ事をしたではないか、むしろ拉致された人の数は日本人のそれとは比にならない。とあり又、北朝鮮側は拉致を認め公式に謝罪しているではないか、日本は隣国へ未だかつてきちんと公式謝罪などした事がない、などと日本を痛烈批判しているらしい。
拉致したという行為そのものにおいては、その通りであり、両国とも同様であり、疑いようの無い事実である。
何とも極悪非道な行為ではなかろうか。
その犠牲になるのは、そういった事象を引き起こした「彼ら」ではなく、いつも何の罪も無い人々である。何ともやりきれない。
しかし、その両国の犯した同じ行為を考える時、どう見ても安易に両国を比べて批判するのはおかしい気がする。
戦時中の植民地下の状況で起こったものと、戦時下でもなく莫大な資金援助をしてきた国からの行為である。
このように極めて異なる状況下での出来事を、同じ土俵に乗せて比べる事はおかしいのではないか。
そのような情報の伝え方はおかしい、と私は感じる。(どのような状況下であっても勿論行為そのものは、あってはならない事だというのは、誤解の無いように断っておきたい。)
これは、殺人事件で、殺人を犯した者の精神状態が全く正常な場合と、異常をきたしている場合とでは同じように比べられないが、それを安易に比べて話しているようなもののように思える。(いずれにしろ、殺人という行為自体には変わりが無いけれど。)
この手のおかしな情報のされ方がまかり通っていて、事実をどう判断するのかは困難である。
馬場さんがご指摘されたように『言葉を回収する事は不可能』であるからこそメディアの責任は大きいと思う。
それこそおっしゃられるように、メディアの不正は聖霊を冒とくする、くらいの意味があると私も同感致します。
よくあるように、始めそんな馬鹿なと思われる誤報を大きく流しておいて、後で事実を小さく伝えても、その最初の印象が強ければ修正は難しい。
最終的には、事実は違ったけれどそういう事も起こるのかもしれない、などという気にさせ、事実の影は薄れてしまう事もある。
私は、ある情報について議論をしていて、相手と意見が異なり白熱してきた時、どれくらいの割合でその情報を肯定的に見るか、否定的に見るかの違いだけであって、実は情報そのものについては両者とも、事実かどうかわからないのだ、とふと気が付きました。
こんなに情報が溢れていても、実の所、この世はわからない事だらけなのではないだろうか。
そしてもしかしたら、それは、いつまで経っても事実かどうかわからまいままで終わるのかもしれない。
そういった中で我々は、いつも情報を肯定的に見るか、否定的に見るかの割合を選択しながら暮らしているような気がする。
そこで、私が一番重要な事ではないかと思っているのが「直感」である。
馬場さんのような新たなものを研究する学者達は、こうではないか、いやこうかもしれない、と思ってこの直感のような自分の内から来るものを頼りに探って、一番こうであろうと感じる所を基に研究を進めて行くものと思う。
そして、これだ、と感じる「ひらめき」のようなものが浮かぶのかもしれない。
私はこのように、わからない事だらけの情報の中で暮らさねばならぬ世では、この直感を研ぎ澄ます事がとても重要なのではないかと思っています。
すみちゃんが、『Re: 平成恐慌の到来を告げるために飛んできたのです』の稿で書かれていた所の「直感」という言葉を見て、そうだこのことだと思い、再確認する思いでした。
この方は、馬場さんのような研究者と同様、日頃、直感を研ぎ澄まして又、それに耳を傾けているのだろう、と思った。
最後に、この世を良く変えていく責任は、何かおかしいと気づき現状のままではいけない、と気づいた者にあると自分をも含め改めて思う。
そして、それを実際行動に移しておやりになっている馬場さんのような方の存在に感謝し、皆様と同様、私も陰ながら大変応援しております。
ご健闘をお祈り致します!