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(回答先: 敗戦責任を問われるべき構造は、今日、別の戦いの終末でまた見えているのでしょうか 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 8 月 20 日 00:55:31)
戦争とは何をもって勝利となし、何をもって敗北とするかは、後世の歴史家が判断することである。そろそろ大東亜戦争についての冷静な判断ができる時代が来ていると思う。
日本が大東亜戦争に踏み切った理由としては、思想的には北一輝の「日本改造法案大綱」が大きな影響を与えていると思う。そこにおいてアジア主義が主張されている。
すなわち大東亜戦争が人種開放戦争、植民地解放戦争として見るならば、日本は米英仏蘭に全面勝利したことになる。そのような歴史観を世界に普及させることが我々に課せられた使命である。
◆株式日記と経済展望◆
「西尾幹二氏のインターネット日録のBBSに乱入してみました。反日教育の影響は大きい。」
2003年8月19日 火曜日
[626] 大東亜戦争は人種開放戦争である。 投稿者:TORA 投稿日:2003/08/12(Tue) 09:37 [返信]
戦前においては人種差別は当たり前のことであり、第二次世界大戦のアメリカ映画などを見ると、軍の将校には黒人は見当たらない。海軍などでは炊事係のような部門しか見当たらなかった。国家機関ですらこのような差別があり、アメリカ国内でもトイレから学校まで、何から何まで白人用と黒人用に分けられていた。
国家においても白人国家が多くを占めて、日本は有色人種の国家として例外的存在だった。ジョン・ダワー教授の「容赦なき戦争」においては、白人達は有色人種を野蛮な猿の一種として見ていることを率直に述べている。戦争プロパガンダだから極端なのでしょうが、アメリカ軍の戦場における日本兵の死体の扱いを見ると、日本人を人間としてみてはいないことは明らかだった。
戦前においては白人至上主義があたりまえであったし、欧米などへ長期滞在してみれば人種差別はいまだになくなってはいない事がわかる。戦前において日本は国際連盟へ人種差別撤廃の条項を盛り込むように何度も運動をしたが、その都度却下された。国際連盟においてすら白人至上主義がまかり通っていたのだ。
そのような風潮が変わったのは明らかに第二次世界大戦以降のことである。日本軍が瞬く間に東南アジアからイギリス、アメリカ、オランダなどの勢力を追い払った。近代兵器を用いての戦闘で、有色人種の軍隊が、今まで300年にわたって支配してきた帝国の軍隊を追い払った日本軍をみて、有色人種が猿の一種でないことを初めて悟ったのだ。
大東亜戦争を人種解放戦争としてみる場合、大戦は不可避であったとしかいいようがない。現実に東南アジア人の前で、完璧なまでに白人の帝国軍を打ち破って見せなければ、東南アジアの人々は独立しようとは思わなかったであろう。もちろん反乱程度の独立運動はあったが、本格的にはなりえなかった。アジアの人々も数百年も植民地支配されて当たり前と思い込んでいたようだ。
戦後、イギリス、フランス、オランダ、アメリカなどは再占領を試みたが、独立戦争に敗れ、アジア諸国は相次いで独立した。人種意識において白人至上主義が一掃されたから、独立戦争に勝利することが出来たのだ。もしあの時点で日本が戦争をせず、平和の道を選んでいたら、東南アジア諸国は独立できたのだろうか。アフリカ諸国も独立できたのだろうか。
アメリカ国内でも黒人の市民権運動が力を得たのも、アジア、アフリカ諸国が独立して、世界的に白人至上主義が誤りであることが分かったからだ。それ以前は黒人自身がそのことを認識していなかったのではないか。人種問題は宗教問題と並んでデリケートな問題だから、進歩的文化人はそのことを取り上げようとしない。
[628] 歴史の見方 投稿者:森英樹 投稿日:2003/08/12(Tue) 12:11 [返信]
>TORAさんへ
我々日本人(私も含む)は意識的にも無意識的にもアジア人を軽蔑していると思う。それは明治維新で文明開化し地政学的にも欧米諸国の植民地にもならず大東亜戦争後は経済的に飛躍的に発展したことに原因があると思う。現在も尚、日本人は白人に憧憬を抱いていると思う。それは大学の科目を見れば一目瞭然。基本的に日本人は他民族に対して自分より上か下かで付き合う傾向が強い。それは自国に自信が無い事に起因していると思う。
実の処、日教組教育の弊害なんぞ根本的な問題ではない。国旗掲揚や国歌斉唱に反抗する若者が多い事を保守派言論人はしきりに嘆くが、この現象はただの若気の至りでしかない。実際彼等が社会に出ると日教組教育など何処吹く風で上司が命令すれば何の疑問も持たず国歌斉唱するだろう。「国家とは何か?」と一日中思索している奇人は見たことがない。大学の政治学の教授でも講議がもしくは研究が終れば夜のネオン街に行って女房の愚痴を言っているに違い無い。本来、「国家」とは文化を同じくする共同体に過ぎないのだから無意識的な虚構だと思う。国家を意識的に考えなければならない感覚が異常なのである。苦言を呈するようだが先の大東亜戦争が人種解放戦争であるという認識は歴史を事件が起こった後の結果論的解釈に過ぎないと思う。「日本が植民地支配から解放してくれた」とアジア人が言うなら納得出来るが、日本人自らが「解放してやった」と言うのは恩着せがましいアジア人蔑視の主張だと思う。歴史をどのように解釈しようと個人の勝手だがTORAさんの主張はただの左翼批判には有効だが健全とは言えないと思う。返答をお待ちしております。
[642] 北一輝の白人帝国主義に対するアジア主義 投稿者:TORA 投稿日:2003/08/13(Wed) 09:18 [返信]
大東亜戦争が人種解放戦争であると書きましたが、イギリスのジャーナリストのジョージ・モンビット氏も、英国ガーディアン紙において、良い意味か悪い意味かの違いがありますが、1930年代の日本の戦争をアジアの「解放」戦争として引用している。
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,3604,1007741,00.html
事実英国は第二次大戦後植民地のインドとシンガポール、マレーシアを失った。大東亜戦争の日本のイデオロギーはアジアの開放であった。226事件で刑死した北一輝は「日本改造法案大綱」を現したが岡崎久彦氏は次のように書いている。
『まず第一は、白人帝国主義に対するアジア主義です。アジア主義は近衛文麿の父で、公家の俊秀として西園寺公望と並び称されながら早く逝った篤麿、犬養毅などの伝統があります。「現状即ち正義ではない。英国がインド人を犬馬の如く扱い、豪州がアジア人を締め出し、レーニンがシベリアを独占するのも正義ではない」として、「無産階級が流血に訴えても不正義なる現状を打破するならば、日本が戦争に訴えても国際的不正義を匡(ただ)すこともまた是認さるべきだ」と、北は、その「日本改造法案大綱」で論じています。』
226事件は失敗に終わりましたが、その後の日本は北一輝の描いた「アジア主義」のイデオロギーに基づいて政治が行われた。日本が戦争に訴えても国際的な不正義がまかり通ることに対する、白人帝国主義との戦いであった。ガーディアンの記事は当時の日本とジョージ・W・ブッシュのアメリカとを対比している点で大変ユニークだ。
当時の日本も「神国」として八紘一宇の思想によってアジアの開放を目指した。結果的に日本は米国との戦争に破れ、日本は侵略国家の汚名を被ることになった。しかし日本が勝っていたらどうなっていただろう。日本はアジアの解放者として評価されていたことだろう。もっともこのような評価は東京裁判史観に汚染された進歩的文化人には受け入れられないが。
[646] Japan is not a religion投稿者:TK 投稿日:2003/08/13(Wed) 23:45 [返信]
モンビットの述べる北一輝は、自分の理解ではこのようである。
「ファシストの理論家が、天より日本に聖なる使命がくだったと述べた。
それはアジアを「解放」し、神聖な国土を拡大せよとのことである」
これには違和感を禁じ得ない。どうしてこういう書き方になるのか。
アジア主義は、キリスト教国の世界征圧の結果としてあらわれた
被征服民族の反発であり、人種平等思想や民族自決主義によって説明できる。
これは現代に通じる普遍性を備えているため、
アジア主義否定の底意を持つモンビットには都合が悪い。
そのためにモンビットが持ち出したのが、
日本の対英米蘭戦争を宗教圏拡大のイメージで語ることである。
アジア主義の背後にヨーロッパ帝国主義におけるキリスト教、
イスラム圏におけるイスラム教のようなものがあって、
あたかも神道か何かがそれにあたるといいたげではないか。
しかしアメリカのイラク征圧も、日本の対英米蘭戦争も、
そのような「聖なる使命」では説明できないと思う。
題:i勝手思考(12052949) /名:機械計算課長/2003年08月13日 14時29分
西尾先生の投稿に対する感想ではないので、TORAさんの投稿を読んでいて感じた疑問をこっち側に書いておきます。
まず植民地解放運動が主軸であったかどうかの話です。
植民地解放理念というスローガンは別に昭和期に出てきたものではなく、ベルサイユ条約の中でも日本人が論じていることです。さらにもともと日本の明治維新が西洋の植民地化から何とか逃れようと言う努力がその本質であったことを私は否定しません。
従って結果的に見ても、日本が植民地解放を成し遂げたというのはウソじゃないです。政治や軍事は結果商売ですから、その意味では賛成です。またその国民感情の上でも植民地解放運動という考え方があったこと自体を否定しません。実はこの考え方は非常に根強く戦後の安保闘争やベトナム反戦運動の根底にながれていると私は考えてるからです。
実際にはベトナム反戦運動は北ベトナムが勝利を得て、ボートピープルが出現し、かつ北ベトナムが周辺諸国に対して侵略活動を始めたときに、それを非難しなかったがゆえに見事に国民運動にはならなかったですが。
さてこのベトナム反戦運動と並べて見てみると、私の疑問がわかりやすいかもしれません。大東亜戦争を植民地解放運動であったと考えた人間の存在を否定しませんが、それが本当の主軸であったのでしょうか。ちょうどベトナム反米運動に植民地解放運動という情念がありながら、実際には主軸はそうでなかったことが後でわかったのですが、大東亜戦争はどうだったのでしょう。
次の疑問は昭和期に喧伝された八紘一宇という考え方です。これは植民地解放運動というより、世界を一つの家にする運動なんでしょ。
八紘一宇という言葉は辞書では次のように書いてあります。
〔日本書紀「掩二八紘一而為レ宇」より〕天下を一つの家のようにすること。第二次大戦中、大東亜共栄圏の建設を意味し、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。
日本の海外侵略を正当化するスローガンという内容が妥当かどうかを論じているのではありません。なぜ平安時代も、室町時代も、江戸時代も八紘一宇という日本書紀にあるような言葉が喧伝されずに、昭和の初期になって強く意識されるようになったのかを考えています。
「天下を一つの家のようにすること」というのは江戸時代日本人の考え方の根底にある「人間はそんなかわりはない、裸になればみな同じだ」、「誰もが本質善を持っているから本質的に悪いことをするのはタマタマなんだ」という考え方から見れば、天下を一つの家のようにすることなんて難しいことじゃない、その意味で国連を天下を一つの家にするその第一歩だという誤解が日本人の何人かにあってもおかしくはありません。またTORAさんがそのように国連を見ているという意味でもありません。
もともとの日本書紀の八紘一宇に東南アジアの植民地化の解放を行えという意味はないと思いますから、やはりこれは当時の時代背景や西洋文化の普遍主義の影響を受けて、日本書紀から再発見された言葉なんでしょう。
それでも本来的な意味的には「天下を一つの家のようにすること」という意味なんでしょう。すると昭和期に使われた「天下を一つの家のようにすること」という意味は何だったのでしょうか。一つの家にするというのは家の流儀や習慣や考え方を同じにして皆が仲良く生きてゆくという意味なのか、それとも単に皆が仲良くいきていくことによって天下を一つの家のように家内安全が得られるという考え方なのか……。後者なら多くの空想平和主義日本人の言っていることとかわりはないですね。前者なら植民地解放運動との関係が理解できなくなります。
題:日本改造法案大綱のどこに書いてあるんでしょう /名:機械計算課長 2003年08月13日 21時56分
私は寡聞にして北一輝の「日本改造法案大綱」を一種類しか読んだことがなくてその中で北一輝が反植民地運動を唱えているという文言に気づきませんでした。TAROさんは北一輝の「日本改造法案大綱」のどのあたりに書いてあるか知らせてくれませんか。四万九千字もあるものですが、非常に強く書いてあるのでしょ。確かに岡崎久彦なんかも、次のように書いています。
(引用開始)
まず第一は、白人帝国主義に対するアジア主義です。アジア主義は近衛文麿の父で、公家の俊秀として西園寺公望と並び称されながら早く逝った篤麿、犬養毅などの伝統があります。「現状即ち正義ではない。英国がインド人を犬馬の如く扱い、豪州がアジア人を締め出し、レーニンがシベリアを独占するのも正義ではない」として、「無産階級が流血に訴えても不正義なる現状を打破するならば、日本が戦争に訴えても国際的不正義を匡(ただ)すこともまた是認さるべきだ」と、北は、その「日本改造法案大綱」で論じています。
しかし実際に「日本改造法案大綱」を読んでみると、植民地支配へ抵抗すべきだというのがどうにも見つからないのです。だって目次だけ読むだけでもおいちょっと待てよと思いますよ。ざっと目次だけ抜き書きしても、また中身を見ても、社会主義のようなそうでないような何とも不思議な論文であるという印象なのですが。
題:北一輝の日本改造法案大綱について /名:TORA[URL]/2003年08月17日 15時19分
機械計算加課長様へ
日本改造法案大綱はネットでひらがな版で公開されています。URLは以下の通り。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shigeaki/KitaIkki.htm
特に抜き出すと以下の通り。
開戦の積極的権利
国家は自已防衛のほかに不義の強力に抑圧さるる他の国家または民族のために戦争を開始するの権利を有す。(すなわち当面の現実問題としてインドの独立および支那の保全のために開戦するごときは国家の権利なり)。
国家はまた国家自身の発達の結果他に不法の大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に対して戦争を開始するの権利を有す。(すなわち当面の現実問題として濠州または極東シベリアを取得せんがためにその領有者に向って開戦するごときは国家の権利なり)。
注一 近代に至つて世界列強が戦争を開始せんとするときことごとく自他を欺く旧道徳的名分を掲げ、またはこれを自己防衛の口実に求むるは国家生活の権利を半解するより来る卑怯なり。真の徹底的理解はおのずからにして正々堂々たる宣布となるもの。日本が積極的発展のために戦うことの単なる我利私欲にあらざることは、他の民族が積極的覚醒のために占有者または侵略者を排除せんとする現状打破の自己的行動が正義視せらるるごとく正義なり。自利が罪悪にあらざることは自滅が道徳にあらざると同じ。したがって利己そのものは不義にあらずして他の正当なる利己を侵害しておのれを利せんとするに至って正義を逸す。正義とは現在の状態そのものにあらざるは論なし。英国がインドを牛馬視しておのれを利しつつある現状が正義にあらざるごとく、日本および近接のアジア七億の民族より濠州を封鎖しつつある現状は同一なる不義なり。支那を併呑し朝鮮を領有せんとしたる「ツァール」の利己が当時の状態において不義なりしごとく、広漠不毛のシベリアを独占して他の利己を無視せんとするならば「レニン」政府現在の状態また正義にあらず。正義とは利己と利己との間を画定せんとするもの。国家内の階級争闘がこの画定線の正義に反したるがために争わるるごとく、国際間の開戦が正義なる場合は現状の不義なる画定線を変改して正義に画定せんとする時なり。英国は全世界に跨る大富豪にして露国は地球北半の大地主なり。散粟の島峽を画定線として国際間における無産者の地位にある日本は、正義の名において彼らの独占より奪取する開戦の権利なきか。国内における無産階級の闘争を認容しつつひとり国際的無産者の戦争を侵略主義なり軍国主義なりと考うる欧米社会主義者は根本思想の自己矛眉なり。「ヒュース」が労働者出身なりとも、「レニン」が社会主義者の尊敬すべき同志なりとも、国際的対立より見て彼らが〔大地主〕たることは、昔時魚売りたりし大倉喜八郎、貧書生たりし加藤高明が無産階級より見て富豪たると同じ。国内の無産階級が組織的結合をなしてかの解決を準備しまたは流血に訴えて不正義なる現状を打破することが彼らに主張せらるるならば、国際的無産者たる日本がかの組織的結合たる陸海軍を充実し、さらに戦争開始に訴えて国際的画定線の不正義を匡すことまた無条件に是認せらるべし。もしこれが侵略主義軍国主義ならば日本は全世界無産階級の歓呼声裡に黄金の冠としてこれを頭上に加うべし。合理化せられたる民主社会主義そのものの名においても日本は濠州と極東シベリアとを要求す。いかなる豊作をもってすとも日本は数年の後において食うべき土地を有せず。国内の分配よりも国際間の分配を決せざれば日本の社会問題は永遠無窮に解決されざるなり。ただドイツの社会主義にこの国際的理解なく、かつ中世組織の「カイゼル」政府に支配せられたるがために、英領分配の合理的要求が中世的組織の破滅に殉じて不義の名を頒ちたることを注意すべし。したがって今の軍閥と財閥の日本がこの要求を掲ぐるならばドイツの轍を踏むべきは天日を指すごとし。改造せられたる合理的国家、革命的大帝国が国際的正義を叫ぶときこれに対抗し得べき一学説なし。
題:あのう遠慮しながらお聞きしますが /名:機械計算課長/2003年08月17日 16時36分
TAROさん>
これがあなたがおっしゃる日本が東南アジアの植民地主義に反対した論説なんですか。
ベルサイユ条約での後で大日本帝国首相になった日本人の論説は明確な植民地主義反対でしたが、これがそうなんですか?だいぶちがう印象ですが、TAROさんはこの論説が日本が東南アジアの植民地解放運動の思想背景だというのですか。
もしも私が北一輝の論説を引用するならこれが北一輝の書いたことの10%もないことを明確にしてから書きますが、まあその点はおいておきますが。
[659] 大東亜戦争は植民地解放戦争であった。 投稿者:TORA 投稿日:2003/08/17(Sun) 10:29 [返信]
東南アジアの政治家の多くが、大東亜戦争をアジア開放の戦争と見ているのは間違いない。もちろん中国と韓国は異論があるだろう。しかし中国や韓国は当時の白人帝国主義に抵抗するだけの力を持っていなかった。むしろ蒋介石などアメリカから援助を貰い自ら進んでアメリカの手先となっている。
東南アジアやインド、スリランカなどは大東亜戦争をアジアの解放戦争であると評価している政治家や歴史家が多い。しかし日本では、あまりにも自虐史観を学校教育で刷り込まれた人が多い。
他のサイトからの引用ですが、東南アジアの多くの国が対日賠償請求を放棄してくれました。そしてスリランカと日本には、あるエピソードがあったそうです。
(引用はじめ)
それは戦後6年経った1951年9月に行なわれたサンフランシ
スコ対日講和会議での事です。その会議では、ソビエト政府よ
り日本に対する制裁と、今後再び戦争を起こさせないという目
的で、連合国による日本の分割統治が提案されていました。
戦勝国の一員として登壇したスリランカ(旧セイロン)の全
権代表J・R・ジャヤワルダナ(当時大蔵大臣、後大統領)は、
こう演説しました。
「アジアの諸国民は、なぜ日本が自由になる事を切望している
のか。それはアジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきゆ
えであり、又、植民地として従属的地位にあったアジア諸国民
が日本に抱いている深い尊敬のゆえである。往時、アジアの中
で日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守
護者かつ友邦として仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来
事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガン(大東亜共
栄圏の事)は従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、イ
ンド、インドネシアの指導者の中には最愛の祖国が開放される
事を希望して、日本に協力した者がいたのである。」
そして「我々アジアの将来にとって、完全に独立した自由な
日本こそが必要である。」と強調し、ソビエトが主張した日本
分割案に真向から反対してこれを退け、「憎しみは憎しみによ
っては止まず、愛によってのみ止む」という仏陀の教えを引い
て、対日賠償請求の一切を放棄する事を表明し、各国にそれに
続く様呼びかけました。そして、その呼びかけに答えて、イン
ド、ラオス、カンボジアが自発的に対日賠償請求権を放棄して
くれたそうです。
この話はスリランカの人の殆どが知っていて、日本人に聞い
て「知らない」と返事が返ってくるとがっかりするそうです。
しかし、あの時もしこのジャヤワルダナの演説がなければ、
もしかして日本は旧東西ドイツ、また朝鮮半島の様に一つの民
族が分断されていたかもしれないと思う時、敗戦に打ちひしが
れていた日本に手を差し伸べてくれたアジアの友人の友情に、
日本人として感謝の気持ちを持ち、この話は語り継がれるべき
だと感じています。
(引用おわり)
>森英樹さま
このように東南アジアをはじめインド、スリランカなども、大東亜戦争をアジアの解放戦争と評価しています。私はアジアを蔑視してはいないし、白人を憧憬もしていない。むしろアメリカのイラク侵略に見られるように、白人は非常に凶暴な性格を持っていると見ています。
西尾幹二のインターネット日録 BBSより
政治思想のウエブサイトとして「西尾幹二のインターネット日録」があります。終戦記念日の月でもあるので、大東亜戦争について書き込みを行いました。私の日記においても東京裁判史観に洗脳されてはならないと何度も書いてきましたが、BBSで反応を見たかったのです。で、論客の多い西尾幹二氏のBBSを選ばせていただきました。
やはり大東亜戦争を人種解放戦争とか植民地解放戦争と見る見方には、森英樹氏からの反論がありました。日本の教科書で教育を受ければ森氏の反論の方が正解なのだろう。ただアジア人への蔑視だとか、白人への憧憬があると言う指摘には覚えがないので、言ってもいないことを取り上げて、反論してくるのは左翼に良くある論法だ。
また大東亜戦争への評価も結果論的解釈に過ぎないと言う指摘については、それぞれ私の反論を投稿しました。それぞれについては歴史的資料を提示して反論してあるから、森氏も納得していただけたと思う。大東亜戦争が人種開放戦争であり植民地解放戦争と言う評価がもっと学校教育に教えられしかるべきである。
大東亜戦争が植民地解放戦争という意見には機械計算課長氏からも反論が寄せられた。これについては北一輝の「日本改造法案大綱」の一部を紹介して反論した。このように「インドの独立」とはっきり書いてある。さらにはソ連のシベリアやオーストラリアがアジア人のために解放されるべきという主張もしている。私の反論に対しては機械計算課長氏は感情的な反論しか返ってこない。具体的資料をつけて反論しなければ論争は負けなのだ。
TK氏からはイギリスのジャーナリストのモンビット氏の北一輝論の意見があった。北一輝のアジア主義を、モンビットは「神道」によるキリスト教国への反撃としてとらえている。大東亜戦争をアジアの開放戦争として解釈されてはイギリス人として困る。アメリカのGHQだって同じなのだ。このように日本人はもっと自分の正当性を主張するべきである。結局、学校の歴史教科書によって小学校から洗脳教育が行われてきたのだ。
その洗脳を解く為には、西尾幹二氏の「新しい歴史教科書」が必要なのだ。西尾幹二氏も今日の日録にて次のように書いている。
「先生は大東亜戦争の否定論の否定論者だとアイロニカルな言い方をなさったが、私は率直に自らを大東亜戦争肯定論者でよいと思っている。」
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu52.htm
◎日本軍の中枢が米国派(ユダヤ・フリーメーソン)だった太平洋戦争◎
(トラトラトラはTORAの昔の名前)
http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/413.html