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(回答先: バブルの学習効果とは? 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 8 月 20 日 01:06:32)
日本社会の強さであり、逆に弱点は、群れて行動することでしょう。群れ(むら)となって、一緒に同じことを目指します。
なぜ?
こういう社会を作ってきた背景には、いろいろ理由があるでしょうが、大きくは、
1.温暖で、水に恵まれた稲作が基本だったことです。ひと夏、水田の水の管理を経験すると、はっきり分かるのですが、村では、村民が、水の管理を木目細かく、同期して行います。村では、同じ日に、田に水を入れ、周りと同期して水位を調整します。隣の田を通って、自分の田に水を通し、自分の田を通って、お隣の田に水は流れます。こうした調整を、一夏、2000年やってきたのです。我々は。しかも、温暖だから、労力をかけても、死ぬことはありません。(インドでは無理です。40度になりますから。)
2.第3者の絶対神を作らなかったことです。簡単に言ってしまいますと、絶対神の社会では、自分の行いは、神の思し召しのまま、神の意志を実現する、いわば媒体です。ところが、我々の社会では、どちらかといえば、神、仏は、我々の意図の実現を助けてくれる存在で、結局、自分が中心となります。
こうした背景があると、互いに批判することは、その人格まで批判することになってしまいます。その人の、その行動、意見に反対、とはならず、その人の否定になりがちです。人の群れであれば、むらを否定しかねません。人は、弱いから、結局、お互いが似ていれば、最終的に、安心というか、よりどころが得られます。
一方、神の意志を媒介するのであれば、自分としては、どうしようもないか、神の意志が分からないか、結局、神様、私にどうしろと、おっしゃるのですか?となって、牧師に助けを求めることになります。こういう社会では、人は、互いに似ていなくても、なんとかなる度合いが、大きいのです。
上記した傾向は、相対的なものでしょうが、けっこう、大きな差となるのでは?
同じ村の、むら人を、批判しにくいのですよ。
皇軍という村、金融村、、、、。
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しかし、村全体が、ころっと、変わることも、可能なんです。評価基準は、むらの人が、どう思うかで、その中身は二義的ですから。
この点、お隣の韓国の方が、思想体系を大切にするようです。傾向として。