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(回答先: Re: 2ちゃんねるBBS テレビ局はなぜ竹中批判が出来ないのかより 株式日記と経済展望 投稿者 M 日時 2003 年 6 月 10 日 03:27:00)
http://www.kyoto-seika.ac.jp/matsuo/merumaga/backnumber/01.html
2001年7月5日 松尾 真
■小泉内閣異常高支持率の謎解き
小泉内閣の支持率は相変わらず高い水準にある。このままいけば、都議選につづいて参院選でも「自民党」が圧勝する可能性が高いと言えよう。
小泉内閣あるいは小泉首相個人への支持率の高さは、この10年ぐらいの間、少しずつ高まっていた「強いリーダーシップへの待望」が、ここにきて一挙に表面化したものととらえることができる。高支持率の原因はそれだけに解消しえないとしても、これが大きな要因の1つであることは、非常識な差別発言等を繰り返す石原慎太郎東京都知事への支持率の高さとも重ね合せて考えれば明らかであろう。
さて、いまの日本社会では、「強いリーダーシップ待望」の舞台条件が揃っている。ざっと挙げてみると、(1)この10年来の危機の継続、悪化、(2)旧来型「指導層」への深い失望、(3)国民の政治的主体性の弱さ、などであり、石原氏にしても、小泉氏にしても、そうした中でその「待望感」に応えるパフォーマンス能力が「傑出」している。石原氏にしてもそうだが、小泉氏はかなり意識してパフォーマンスを押し出している。『小泉内閣メールマガジン』の首相執筆部分(「ライオンハート」)も、政策や政治主張を述べるのではなく、「人間味溢れるリーダー・小泉純一郎」というイメージを売り込むことを主眼にしているように思われる。
だが、ここで隠されていることが1つある。小泉首相本人はじめ主要閣僚メンバーの出自である。まったく知られていないわけではない。が、それが大きな問題であることが意識的に否定あるいは隠蔽されているのである。それは内閣自身が隠しているだけでなく、マスコミも小泉人気の時流に配慮してか、大きな声では問題にしないようにしているように感じられる。
この否定ないし隠蔽の重要性を考えてみたい。
■「改革」は可能か
小泉内閣は「構造改革」を高らかに謳い上げているわけだが、「改革」にはまず、問題の所在をあきらかにすることが必要である。何が問題なのか、その問題は何故に生じたのか、これらのことが解明できれば、その解決策は自ずから明らかになると言っても過言ではない。
小泉内閣の「構造改革」方針はそうした問題点の解明、言いかえれば前内閣までの問題の総括、反省に充分にふまえているであろうか。否、である。そして、私はこの「改革」は日本社会の抱えこんでいる諸問題を解決するどころか、とんでもない方向に日本社会を引っ張っていってしまうと危惧している。
そこで、今回は、小泉内閣の「構造改革」の「理論的リーダー」と目されている竹中平蔵経済財政担当相に焦点をあてて、その点を考えてみたい。
■竹中経済財政担当相とは何者なのか?
竹中氏は『小泉内閣メールマガジン』の創刊準備号で、自らのことを「学者」であると自己紹介している。本当にそうなのか?
たしかに竹中氏は大臣に就任するまでは慶応義塾大学の教授であり(いまもゼミだけは担当しておられるとも聞くが)、国会議員などの職にあったわけではない。その意味では「学者」だったと言えるのかもしれない。
しかし、竹中氏はやはり単なる「学者」であったわけではない。彼は今から3年前、1998年8月に当時の小渕首相から経済戦略会議のメンバーに入るように要請され、同年12月の中間報告、翌99年2月の最終提言のとりまとめをはじめとして、同会議の中心メンバーとして活躍した。その経緯は竹中氏本人が著した『経世済民』(99年3月刊、東洋経済新報社)に詳しい。同書の内容を詳しく紹介する余裕はないが、竹中氏の思想的・理論的背景を知るうえで、なかなか得るところが多い。アメリカの市場原理主義的エコノミストの主張がすべて、という感じである。
さて、その経済戦略会議の政策提言と、今回、竹中経済財政担当相が中心となって取り纏められた「構造改革の基本方針」、いわゆる「骨太の方針」とは内容的に瓜ふたつである。とくに、日本経済の潜在成長率を約2%と見積もっている点、また、不良債権の処理等、日本経済のマイナス要因を取り除くのにおよそ2〜3年を要すること、その間はGDP成長率が0%程度にとどまり、その後、約2%の潜在成長率が現実の成長率として実現される としている点などは、経済戦略会議報告で1999年が起点とされているのを2001年に置き換えれば、そのまま今回の「構造改革の基本方針」に描かれているタイム・テーブルとなる。
そこで、問題は、なぜ、タイム・テーブルが3年ずれたのか? である。
「守旧派議員・族議員あるいは官僚の抵抗」のゆえなのか? どうやら竹中氏自身はそう言いたいようである。『経世済民』で竹中氏は、経済戦略会議提言を自画自賛したうえで、その報告を実行に移す「政治的執行体制」の確立を強く主張したが、報告にその旨を書き込めなかったと強調しているからである。たしかに、経済戦略会議報告の中身の是非はともかくとして、その報告内容が与党内部や官僚の抵抗にあったというのは事実であろう。しかし、では、竹中氏本人には同報告のシナリオ、タイム・テーブルが実現されなかったことに責任がないかと言えば、けっしてそうではない。
まず、事実の問題として、竹中氏はその後も小渕首相の病気退陣まで小渕内閣周辺にいたし、問題の後継者・森首相のブレーンとしてIT戦略会議の立ち上げを推進し、小泉内閣の誕生まで一貫して森内閣の中枢ブレーンとして存在しつづけてきたのである。まさに「一介の学者」などではなく、小渕−森内閣の財政資金ばら撒き−「改革」先送りの政策展開を支えてきた張本人なのである。小渕−森内閣の財政資金ばら撒き政策がどれほど日本経済と日本社会の危機を深刻化させてきたかを考えれば、そして、竹中氏が『経世済民』で述べている「政治の責任の大きさ」という認識に忠実ならば、彼は小渕−森内閣と袂を分かって、その内閣の経済政策の問題性を真っ向からあきらかにすべき立場にあったと言うべきだろう。私は、15年戦争の戦争責任をめぐって丸山政男氏が指摘した日本の指導者世界の「無責任の体系」という問題は今日においても非常に重要な問題だと考えている。自らの主張や理論に誠実であるべき「学者」が、自らの言動に「無責任」を決め込んでいて、いったい、どのような「改革」が出来るというのだろうか。
■経済成長パラダイムへの固執こそが真の原因
竹中氏が経済戦略会議提言で打ち出したプランが実現されず、今回の「構造改革の基本方針」で3年遅れのタイムテーブルを再度出さざるをえなかったのは、しかし、単なる政治的要因によるものだけではないと、私は思う。そして、その点で竹中氏の責任はいっそう大きいと思うのである。
それは、小渕政権(−森政権)の下での「景気回復」のための財政資金ばら撒き政策がじつは竹中氏自身の政策でもあったということである。具体的には98年10月に経済戦略会議が打ち出した「緊急提言」が景気対策として財政資金ばら撒きへの道筋をひらいたのである。竹中氏自身、それについて今日の日本経済が直面しているような財政破綻と経済停滞への道を開く危険性を有していることを、当時、自認していた。
ここで、問題は、「景気対策をおこなう一方で、構造改革も進める」道を採らずに、景気対策に終始してしまったことにあるのではない。
核心的な問題は、経済成長パラダイムへの固執にある。
21世紀を迎えて、いま、われわれが問われているのは、20世紀、とりわけその後半の経済成長至上主義的な経済・社会運営を続けていくのかどうか、という問題なのではないだろうか。竹中氏のような市場原理主義的な「構造改革」論者も、「右肩上がりの成長の時代は終わった」とよく言う。しかし、彼らが言っているのは5%、6%もの高成長が望めないということであって、絶えざる経済成長を求めるという点では、経済成長パラダイムになんらの変わりもない。
この経済成長パラダイムに固執するかぎり、景気対策とか緊急経済政策とか称する財政資金撒布政策は避けえないし、また、「改革」はすでに多くの人が指摘しているように、社会の中に「勝ち組」と「負け組」を生み出す(後者の方が圧倒的に多くなる)ことになるのである。
■市場原理主義は私たちをどこに導くか
竹中氏はきっと、「いや、構造改革をきちんと行えば、緊急経済政策での財政資金撒布はデフレ・スパイラルを防止し、改革−強い日本経済の再生につながる」と反論するだろう。『経世済民』等での彼の主張からいえば、1990年代に見事に再生したアメリカ経済がお手本だということになろう。
しかし、そのアメリカ経済もすでに後退局面に入り、90年代のような好調に回帰する展望が確たるものとしてあるわけではない。90年代アメリカ経済の好調はIT革命に支えられたものであったと言われるが、そのIT革命によって最も進んだのが投機的、バブル的な金融取引の拡大であったことの意味をもっと深刻にとらえかえすべきなのではないだろうか。
それとの関連で、竹中氏の主張でどうしても触れておかなければならない問題がある。「給料が減っても大丈夫。国民はハイリスク・ハイリターンの資産運用を」という主張である。昨年末に出版され、竹中氏の大臣就任とともに、出版社が「ベスト・セラー」と宣伝している『みんなの経済学』(幻冬舎)という著書で次のように主張されている。
「失業問題は経済における最大の問題ですから、雇用を守るべきです。ただし、守ろうとすれば賃金は抑えなくてはなりません。/ 賃金が抑えられると、われわれの生活は苦しくなると思うかもしれません。ところが、賃金が抑えられても、個人の生活が苦しくならない方法があります。/ それは、個人資産の運用利回りを高めるという方法です。」(p45)
銀行預金は、お金の出し手である家計の立場からすれば、極端なローリスクの運用になります。…その代わりに利回りも低く設定されます。つまり、ローリスク・ローリターンの運用先です。/ 出し手がお金を流すルートはほかにもあります。…家計が直接お金の取り手に流す方法で…/…こちらはリスクが高くなります。…しかし、うまくいけば高いリターンが期待できます。つまり、家計にとっては、ハイリスク・ハイリターンの運用先というわけです」(p69)
ここで竹中氏が主張していることは、まさに90年代アメリカの金融投機の道を日本も突き進め、ということに他ならない。
だが、アメリカ主導の金融グローバリゼーションが90年代、何をもたらしたかを、いまこそ明確にすべきであろう。アジア通貨危機、アフリカ・アジアなどの重債務国の経済破綻、アメリカのバブルの腐敗……。世界はかつてない貧富の格差を生み出している。いわゆる「先進国」での労働者の労働条件の改善や生活水準の向上、植民地諸国の独立と南北問題の自覚化−解決への取り組み、こうした20世紀のプラスの側面をすべてひっくり返してしまいつつあるのだ。
政府の経済政策責任者が国民の基本的生活資金の確保のために「ハイリスク・ハイリターンの選択を」と提唱するなどということがあってよいはずがない。
最後に一言付け加えて終わりにしたい。
竹中氏の眼中には市場、経済しかないようである。だが、われわれの人間としての社会生活の中で市場あるいは経済が占める位置というのは本来、どのようなものであるのか、あるべきなのか。このことをじっくりと考え直してみるべきときを、われわれは迎えているのではないだろうか。その点で、広井良典氏が近著『定常型社会』(岩波新書)でおこなっている問題提起は深い意味をもっていると思う。機会があれば是非、コメントしてみたいと思っている。