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(回答先: 権威主義に基づく判断の放棄 投稿者 たこ 日時 2003 年 7 月 30 日 13:01:28)
学術の世界は世界化しており、あらゆる国の人々の間で情報共有・交換ふくめたコミュニケーションがおきています。学問の世界で貢献したい場合、やはり、このコミュニケーションの輪に積極的に入って行き、情報を提供し、交換し、意見を発表することが必要であると考えます。学会誌へ論文を寄せる行為はコミュニケーションを活性化する上で、非常に肯定的に捉えています。日本人として、世界に生きる市民として、それぞれの分野で、積極的に意見発表していくことはたいへん評価に値すると思います。
阿修羅でも、最近のたこさんの積極参加は、阿修羅ワールドを非常に活性化していると思い感謝の気持ちでいっぱいです。その積極参加回数でいえば、たこさんは阿修羅界のエール大学だと思います。アルなんかも、随所でもっと自分で書いて参加すべきだ、と述べていますが、私も同意見です。イエール大学の学者が個々で何を言っているか知りませんが、とにかく発表して行く態度とやる気に立派なものを感じます。翻って、日本人は国際会議でも外交でも、何も発言しません。経済学者もそうなのです。立派な考えかあるけど発表しないのか。それは疑問です。考えが何もない、発表する何物も持っていない、結果ではないかと思っています。自分の考えを育てていくためには、自分の考えを、思うところを、人々の前に晒していくことが非常に大切で生産性があることと思えるのです。国際商科大学の学者が1人で6度も論文を発表しています。彼は国際的なコミュニティーに出て行くことで自分の理論を発展させていく醍醐味を感じていることと確信しますし、実際彼の考えは発表するごとに鍛え上げられていっていることは確実です。自分の考えを発展発達させるため他流試合はどうしても必要です。たこさんが積極的に阿修羅に絡んでくださっているのは、ご自分のお持ちの情報や知識が他者と共有され、また、ご自分の考えがいっそう明瞭になったり、突き放して考えるよすがとする楽しさ面白さに憑かれていらっしゃるのではありませんか?
わたしは日本の研究者の日消極的な姿勢に歯噛みをしています。英語で書くのがたいへんなら日本語で書き、プロに翻訳させればいいだけですから、この時代英語を言い訳にすることはゆるされません。
学会専門誌への登壇の多さは、内容もさることながら、知識の公共性、知識の発展のために貢献をしている尺度としてみています。
国公立大学のみならず、私立大学も、巨額な補助金が血税からでています。納税者は研究者が、教育・研究において、日本と世界のために貢献しているのか。それを考えていく上で、このような尺度も有効なものの一つと思われます。
お断りしておきますが、示唆されているとおり、評価の尺度は各種の観点からのものがあります。絶対的で唯一の尺度というものはありません。
西洋の学会が西洋的ものの見方で傾くため、たとえば東洋的な見方の論文が専門誌に
取り上げられない。こういった問題があることも承知しています。それなら、日本人が世界に向けて学会専門誌を作って、自分たちが好む論文をバンバン掲載すればよいでしょう。チンコウも焚かず屁もひらず。これが一番だめです。
イエール大学はそのコミュニケーションを求める点で素晴らしく積極性が認められます。日本の大学は、背後に抱える人口の多さ、経済規模の巨大さからみて、たとえば東京大学が115位でしかない、というのは完全にバランスを崩しているものと考えますし、公共的財を豊かにしていくことの積極性が弱いと見ざるをえません。情けない!という感じです。
*ちなみに、以上の観点以前の問題ですが、専門学会誌への登壇回数で、研究者の評価をする仕方は,現行ではどの学問の分野でも一つの標準であり,私が1人逸脱的なことを言っているとは思いません。