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あっしら氏の「加害者か被害者か分からない」と「被害者に落ち度」は異質の問題 − 鴻池発言の問題は「加害者か被害者か分からない」である −(http://www.asyura.com/0306/nihon5/msg/992.htm)」に対するコメントです。
鴻池発言のメッセージは明瞭と考えております。あっしら氏は、「女児らの“自立的な人格”をある程度認めなければ出てこないと推測される」としておられますが、この表現にしたがうなら、自立的な人格を事実として認めつつ、それに否定的評価を与えるものです。また、「打ち首」について、「子の触法行為は親の責任」は、鴻池発言の含意として明瞭で、子の年齢などを適切に考慮するなら必ずしも否定しません。しかし、「打ち首」から「親権者の差異性を教育制度などで補完するべき」とする含意を読み取るのは牽強付会です。
以下は、「被害者にも落ち度」の問題です。
「そうなる可能性が生じる状況をできるだけ避けるのが賢明な対応である」は、犯罪被害防止として当然です。「大事な対応策の一つだと考える」という述語部分には意見の相違がありません。しかし、「被害者にも落ち度」とするのは、鴻池発言に匹敵する反人格的発言と考えております。どちらが法的な被害者かなどの観点とは、まったく無関係です。
鴻池が言及する事件と直接の関係はありませんが、前のコメントでは比喩として「強姦」をあげさせていただきました。これは、ある種の人には非常にわかりやすい比喩なのですが、ちょっと説明を要するでしょう。次のような説明でいかがですか?
「強姦」のような性的自由を侵害する犯罪の場合(そしてこの種の犯罪のみ)、「被害者の落ち度」が強調されます。強姦事件のほとんどは、知人によるものです。多くの場合は甘言が先行し、これで目的を達し得ないときに暴行・脅迫に移行し強姦に至ります。甘言ではなく、正当な婚姻の申込のこともあるでしょう。問題は加害者の暴行・脅迫です。
もちろん、甘言では、それに欺かれる被害者の思慮不足が常に問題になります。しかし、たとえば高齢者が甘言に欺かれて、老後の生活資金を詐取されたときに、「被害者の落ち度」を強調する人がいますか?「世間を甘く見ている」などと説教するのですか?被害者が「女児」でもよいのですが、甘言で小遣いを巻き上げられたときに、「被害者の落ち度」などと言いますか?
強姦などの特定の犯罪のみに、「被害者の落ち度」を強調する論は、その被害者にある種の行動規律を求めておられるのではないですか?(「被害拡大の可能性」を理由にしてこんな発言を正当化するのはスリカエと申しております。)私はこれを「人格を軽視する姿勢」と申しております。