現在地 HOME > 掲示板 > 議論11 > 877.html ★阿修羅♪ |
|
天皇(制)について考えるとき、天皇と自身との接合点をリアルなものとして見出し得るかと自問したことがあるでしょうか。これは、Ddog氏への再三にわたる問い掛けであり、何度繰り返しても足りないくらいであると思っています。そもそも氏がこの問いを蔑ろにしていることが、摩り替えの論と他者から揶揄される元凶にもなっていると捉えています。
結論的に言えば、少なくとも私自身はそれを見出し得ませんでした。ですから、私よりも後の戦後世代であると公言されているDdog氏が、天皇やそれに纏わることが日本人の精神的支柱となるべき道理として相応しいものと叙述する様子に奇異な感じを払拭できないでいます。したがって、氏の所作はある種の想いこみ(幻想)によって天皇家の理念史を紡ごうとしているに過ぎぬように映じます。学生時代に議論を交してきた民族派の諸君には少なからず誠意や真摯さが見て取れ、氏にも同質性を看取できるがゆえに、余計に不憫に思えてなりません。
私も接合点を見出そうとする努力を惜しんだのではなく、ある時期には何とかして見出そうと腐心したものでした。日本人の祖先が日本列島へ流入した経過や紀元前の主に中国との歴史的経緯や紀元後の朝鮮半島が日本国成立に与えた影響についても自分なりに文献を踏査してみましたが、残念ながら今のところ明確な結節点を見出すことができないでいます。さらに、天皇家に絡んだ政治的な問題は古くには東北人(蝦夷)俘囚と防人(後期の)、あるいは往時の代々の天皇政治と部落形成が重層的に関連していると見ていますが、これについてはまだ満足な結論に達してはいません。
一方、己の出自を顧みても天皇家やその周辺との接点は善くも悪くも見当たりません。それ故、直接的に恩恵を受けたこともなく、また特段に災禍を被ったわけではなく、したがって取り立てて親しみや憎悪の感を抱懐しているものではありません。おそらく、戦後生まれの日本人の意識状態としては極々平均的なものではないでしょうか。
天皇(制)というコンテクストで読み解くのが可能な歴史はほんの一時期であり、天皇が戦争責任を引きうけなかったことで戦後社会の中でこのコンテクストは既に効力を喪失してもいます。それでも尚、たこ氏の言説を敷衍するならば、天皇に政治的責任があったのは明白であるし、それは人間裕仁氏が為政者の人格所持者として認知される本源的な素養を表象していると言えましょう。しかし、もし政治的責任がないとするならば、我々日本人は過去において国家経営の責任を負うべき資質に値しない人物を為政者として擁いたことになります。また、人々が何時になっても天皇を対象化することもなく、さらには政治的責任を問わないとしたならば、その日本人も歴史的に無自覚で無責任な国民と言わざるを得ないでしょう。
Ddog氏の天皇擁護論が空疎に響くのはこの視点を作為的に捨象してしまっていることに起因すると見ていますが、氏が何故そうするのかは、氏と天皇との接点のリアリティーにたいする疑義と同様に判然としないままです。
しかしながら、天皇自らその真髄を歴史の地中深くに葬り去ったのに等しく、況してや価値の再認証がなされる可能性のあらぬ天皇制が、どうして日本の方行を読み解くコンテクストのメルクマールになり得るのでしょうか。私は甚だ危ういものであると考えています。