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(回答先: Re:またご教示をお願い致します 投稿者 すみちゃん 日時 2003 年 6 月 25 日 10:00:15)
当然ですが、倫理は時代に規定されます。たとえば、教育勅語が家族倫理の段で、「夫婦」の前に「親子」と「兄弟」を並べるのは、家が生産単位であった時代を反映した倫理ですね。現代的価値観なら、「夫婦と未成年の子」などを至上の基本単位として、この自立を前提に、親子・兄弟は、基本単位間の相互扶助の問題として、これに次ぐ関係とされます。さらには、あっしら氏にご指摘いただいている単身赴任の例のように、「夫婦」さえも、「近代」では至上の存在とは必ずしも考えられていません。単身赴任を命じる雇用者の一方的な問題ではなく、「個人の自己実現=近代社会での職業」を夫婦の同居より優先すべきとする(現代的な)倫理も否定されるべき社会ではありません。このような意味で、「教育勅語の精神」は、その天皇に関する部分を度外視しても、「近代」に敵対するファクターを含みます。
「貧困層は資本主義の作動によって生まれるもの」を否定はしません。しかし、被支配者に「忠」と「孝」を求めつつ、支配者に「徳」と「仁」を求める儒教倫理は、封建的支配を支えるとともに、そこから生まれる貧困などへの緩和剤としての作用が予定されていたはずです。すみちゃん氏が「教育勅語の精神に反していないんでしょうか」は、この緩和作用に期待しておられるのだと憶測します。この緩和作用をまったくの幻想とは申しませんが、教育勅語に関しては、発布当初から、その倫理項目を邪魔とする「支配層」もいたでしょう。
「儒教道徳に対して、「天皇様」という偉い存在(神)を接ぎ木することがもっとも効率的という、明治政府の判断」はそのとおりと考えております。教育勅語は、「天皇教」布教の道具で、「天皇が皇祖皇宗の遺訓を体現している」ことを宣明すれば、その「遺訓」が時代遅れであっても、あまり気にもしていなかったのではないかと思います。