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あっしらさんへ
私、昨年の末頃より、阿修羅サイトを読み始めたロンドン在住の一サラリーマンです。
金融関係の業務に従事していながら、法律関係が専門のため、あっしらさんの経済関係の文章は必ずしもすべてを理解できているわけではありません。
ところがある日、あっしらさんの論考の中で、海外の金融資本家を寄生者と捉え、その他被支配者を宿主と捉える文章に接し、鳥肌がたつ思いで読ませていただきました。ここまで、事の本質を、全くブレのない文体で、一つ一つの単語を吟味しながら書き連ねておられることに驚嘆しました。
私もロンドンに住みながら、イギリス金融人(イギリス商人)の世界の支配のありようというものを考えるにつれて、あっしらさんが考えておられるような世界を漠然とながらも自分なりにつかみ始めたと感じていたのですが、あっしらさんの文章を読んで、まるでつき物が落ちたようにストンと胃の腑に何かが落ちていったことを告白させていただきます。私が毎日イギリス金融商人のトップ層に感じているもので、日本人にはなかなか理解してもらえないモヤモヤをわかり易い文章で紡ぎ出していると感じます。
日本の文献でこれらのことをこれまで明確に書いてある文章はこれまでにはないのはないでしょうか。
せめて私がイメージするものとしては、竹内久美子氏が書いている動物学の最先端の紹介の中で、執拗に「寄生者と宿主」というテーマについてイギリス人が興味を持ってきた、ということが思い浮かぶぐらいです。これも、実は、動物学が博物学を起源とする植民地経営学に資するための学問から出発した、という視点がなければ、一般の日本人にはなぜこれほどまでに、英米人が「寄生と宿主」というテーマについてこだわるのかはわからないと思います。
一つのイメージの例でいえば以下のようになります。
イギリス人(アメリカ人)がドイツ人や日本人の背中にあるときそっと負ぶさる。ドイツ人や日本人は「何か重たいなあ」と思いながらも、日常の忙しさにまぎれそのことを忘れ、感じなくなってしまう。しばらくするとイギリス人(アメリカ人)は首の後ろにそっと注射針を刺し、ドイツ人や日本人は「チクリ」とした痛みを感じる。但しその痛みはほんの一瞬であり、やがてその痛みを忘れてしまう。
ところがあるときふと鏡を見て自分の顔がげっそりとやせていることに気づく。しかしそのときまでには、これまで負ぶさっていた寄生者はその宿主から別の宿主へ乗り換えることを準備しつつある。
〜といった感じでしょうか。
リチャードドーキンスの「利己的な遺伝子」の発想も、遺伝子を寄生者と捉え、個体を宿主と捉えた極めてイギリス的な発想であると思っています。
もう一つあっしらさんの論考をよんでいて思いだしたのは、ハリーポッターの第1巻の中で、闇の帝王ボルデモートが住んでいた場所(「部下の頭の後頭部」といういかにも英米人好みの場所。まだハリーポッターを読んでいない人にはネタバラシごめんなさい)と、そのボルデモートがハリーポッターに呼びかける以下の言葉です。
「この世に善と悪などないのだ。ただ力の強きものと弱きものがいるだけだ。ハリー、わしと組まんか?」
実はハリーポッターシリーズは、「支配と被支配」というあまりにイギリス的なテーマを大きな主題として描かれています。
自らは表に姿を現さず、誰かを通して支配を維持し、自らは安全な場所を確保する、ということの意味をしつこく主題として繰り返しています。
また、著者が、印税を全額寄付するとして有名になった本の中に「魔法界のさまざまな動物を紹介する図鑑」があります。この本の冒頭の中に「魔法界においては、どこまでが人間の魔法使いで、どこからが動物(被支配者)なのか」という基準線をどこで引くべきかが長年の論争の的になってきた、ということが述べられています。実は、これは、イギリス人(イングランド人)から見て、近代社会における「人間」という定義をどのように定義すれば、どの範囲の人間を(近代社会における)「人間」の範疇に入れることができるか、といった視線を持っていることを告白したものだと思っています。
(最近出版されたエマニュエルトッド氏の「帝国以後」にも、そのようなイギリス人の「非イギリス人」の分類の仕方が載っていました。)
あっしらさんの論考を読んでだらだらと感想文めいたものを書いてしまいました。
最後にあっしさんにひとつだけ質問させてください。
あっしらさんは、英米への在住経験がありますか?乃至は日常英米人と仕事等で付き合うポジションにおられますか?
(ただ読書だけを続けて博覧強記であるというだけでは、これらの論考のインスピレーションは得られないのではないか、という素朴な疑問からお尋ねするものです。)