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(回答先: これでは答えにならないでしょう 投稿者 悩める凡人 日時 2003 年 6 月 07 日 23:49:34)
悩める凡人さん、こんにちわ。
>投企は企投が正しいのではないか?
実存主義の用語としては企投です。
「企てをこの身をもって世界に投げかける」というイメージを持っているので、“投企”と書く習慣が身に付いています。
「この身を投げて企てる」というイメージであれば、“企投”のほうがふさわしいと思っています。
目的を企ててから行動を起こすという捉え方をしているので、“投企”と表記したくなります。
>論旨は、自分が望みもしないのにこの世に生を受けたのだから、自分の存在を考える
>ことなんか馬鹿らしいよ、ということなの?
「自分の存在」を「自分の存在目的」と置き換えると、おっしゃられるような意味合いも含んでいます。
天賦もしくは先験的な存在目的があるとしても、それを自覚ないし掴み取るのは「世界−内−存在」である自分でしかないというのが論旨です。
>「「存在目的」は、世界−内−存在としての個が選び取り行うものでしかなく、存在
>論的な意味での目的はないことになります。」は意味不明。また、存在論とはどのよ
>うな論なのでしょう?そもそも存在目的は措定できないと言いながら、何故このよう
>に個が選び取り行うものと言えるのか不明。
存在論は、感性的な認識から始まって理性的な認識で体系化される外的存在の在り様のことを意味しています。
人として存在していること自体で目的性は付与もしくは顕現されていないと考えているとご理解ください。
>「個としてのヒトを世界に投げ出した主体」とは何?
>「神でも生物学的摂理でもかまわないと思っています」と言いながら、その主体に目
>的を求めるのは理解ができない。そもそも生物学的摂理に目的や意志というものがあ
>るのだろうか?神の摂理という言葉あるが。
神学や哲学のテーマとしての“始源”に関するもので、「単なる言葉の遊び」とも言えるものです。
「個としてのヒトを世界に投げ出した主体」は、神なのか自然の摂理なのかはわからないし、信じることはできても、論証ないし実証はできないと考えています。
(ざっくばらんに言えば、それは信仰の問題だから、あれこれ言っても始まらないテーマだと言っているだけです)
生物学的摂理の目的や意志という問題についても、同じことが言えます。
哲学者・神学者・有閑富裕層の知的探求者が抱きがちなテーマに口を挟んだものだとご理解ください。
>「「世界内存在」としての絶対的実存」とは何?個としてのヒトとどう違うのか?
器であり対象である世界がどういうものかや自分が何のために生きているかは個々人によって掴み取られ選択されるものであるということが“絶対的実存”の基礎にあります。
「世界」は個々人にとって別物であり、生きる目的も個々人で異なります。それは、ある人をある人で取り替えることができないということも示唆するものです。
そして、持っている「世界」と抱いている目的性が違うもの同士が関係的に活動しなければ、世界に働きかけて目的を実現できないというものだと考えています。
そのためには、言語的コミュニケーションを通じての「世界」のすり合わせと目的の合意が必要になります。
「個としてのヒト」は、実在はしないのですが、思念的に措定した客体としての存在とご理解ください。(「個としてのヒト」は、絶対的実存としてのみ実在しているという考えです)
>その論理的理由を認識すること」とは何?世界と関係しながら自己の在り方変えてい
>くという条件が脅かされているという現実を感得しなさいということはわかるが、そ
>れに続く「その論理的理由を認識すること」とは条件、現実、存在そのもの、存在目
>的・・・・・何なんだろう。
すばらしい物質的条件を手に入れられると吹聴されてきた「近代」が、なぜ、その低落を余儀なきものと意識させるようになっているのかを経済論理として理解したり、主権者とされていながら、しぶしぶびくびくといった日々を強いられているかという政治論理を理解することです。
「近代」は、普遍的な貨幣経済の確立と強大な国家統合により、生存活動の規定性や支配−隷属の関係性が見えにくくなっています。
そのため、疑義や不満を唱えても、そんなことを言っても、社会はこういう論理で動いているのだから仕方がないとか、そんな政策をとると余計におかしくなると反論されて押し潰されてしまいます。
疑義や不満を解消するためには、怒りをぶつけたり、部分的な対抗策を提示するだけではなく、体系的な論理で対抗する必要があるという意味です。