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(回答先: どこかに過激な内容がありました? 投稿者 あっしら 日時 2003 年 6 月 06 日 22:30:55)
今後の歴史的過程が過激なものとなるという予感があるのです
あっしらさん。 如住さん。 こんにちわ。
1. 微温的解決について
あっしらさんが微温的解決を模索しておられるのは良く分かるんです。
しかし、現実の歴史課程は、激越なものとなるとの予感を抑えることができません。
(経済(生存条件)の悪化が意図的ではない近代価値観の変化(瓦解)を引き起こす可能性もあります)
可能性ではなく、蓋然性であると考えています。
大多数の人間が、肥大して現実に適合しなくなった近代的価値観を抱えたまま、その生活条件が喪なわれるとき、近代的価値観は瓦解します。
それが「精神の崩壊」として立ち現れるのではないかという予感を持っています。
この精神の崩壊が引き起こす歴史過程は激越なものに違いありません。
(非暴力的で過程的なものであれ、「近代」の現在的制度を一部でも覆すためには既存勢力と異なる価値観を持つ新しい勢力が政治権力を奪取する必要があります。)
現在では近代国家の権力奪取という話になりますね。
例えばスパルタクスさんが拒絶反応を示しているのがこれですね。
微温的解決にはならないんでは?
私は、ボリシェビキやナチスによる「国家による救済」思想が、実は「近代人の傲慢」に基づき、それを際限なく膨張させたものであったがゆえに失敗したと思っています。 この点で強い警戒心を持っています。
それと同時に、オルターナティブな考え方による近代国家の政策変更なくしては、上記した悲惨な「精神の崩壊」を避け得ないとい恐怖を抱いております。
「近代人の傲慢」を抑制しつつ、つまり国家に過度の強権を与えることなく、かつ国家政策を微温的に変更して精神の崩壊を最小限にとどめる方法はないのか? これが私の疑問ですね。
自分より頭がよさそうなあっしらさんに教えてもらおうという汚い根性でした。 失礼しました。
2. フェニックスの民について
(彼らの経済的成功が寄生地の興隆として見られ、寄生先の移転がそれまでの寄生地の滅亡として語られているだけです。(非支配層は寄生地の滅亡と運命を共にします)
なるほど。 そういう見方がありますね。
(彼らが彼らの先祖を鎮魂したいのなら、彼らの歴史過程を公表するのがいちばんだと思います。 限られた史料と貧困な想像力で彼らの歴史過程をあれこれ語るよりもずっといいはずです。)
(ドグマと同質である正義とやらで彼らを説得できるとは思いませんが、合目的的な話である利と理では説得できると思っています。)
これらは、「寄生者」の存在が白日の下にさらされることを意味していますね。
「寄生者」の存在が白日の下にさらされた後なら、一種の「司法取引」の水準なら現実性があるのかもしれません。 そう考え直しました。
(彼らについては血や霊の問題ではなく、歴史継承的な価値観や生存様式の問題だと考えています。)
歴史継承的な価値観や生存様式を「葬送」するという微温的解決を構想されておられますか?
確かにこのように考えた方が建設的かもしれません。
ご論考を読んでいて思ったんですが、「寄生者」の存在と生存様式を認め、寄生を許し、一種の「華族」としてその取り分を確保するという考え方があるのかもしれませんね。
その代わり、寄生者家族の取り分を減らし、活動範囲を限定するということです。
その方が、今世紀の悲惨な闘争による犠牲を減らす上で有効かもしれません。
3. 国家による救済と人性について
(この問題ではアナーキズムや“異端派”に近い考えを持っていますから、「国家による救済」が「人の性」に適ったものであり、それ以外では目的が達成できないと判断したら、ひそやかに生活する道を選択します。)
少なくとも、世界を認識し、所有しようとする「近代人の性」にはかなっていることは間違いありません。
そうであるからこそ、利口な近代人たちが、20世紀にとてつもない蛮行を繰り広げたのです。
そうであるからこそ、「空想的」社会主義は敗北したのです。
人類はこの経験に学んだのでしょうか?
それが「人の性」であるかどうかは、私も分かりません。 教えて。
あっしらさんも分からないかな?
実は「人の性」なのかなという予感を持っています。
だけど「それを言っちゃあお終いよ」という車 寅次郎の声もかすかに聞こえてきます。 迷っています。
(価値観の見直しは「近代国家」の枠内でも可能ですし、グランド・デザイン(制度)の変更も、対処療法的に巧妙なかたちであれば「近代国家」単位でできると考えています。)
微温的にそれが可能なんでしょうか?
また同じ問題になってしまいましたが。
もしグランドデザイン変更が、人々の価値観に沿わないものであれば、その過程は「暴力」となってしまいます。
熟さない柿をもいでも苦いだけですね。
ボリシェビキのことをやはり考えてしまいました。
ロシア人の主流の思想は、クロポトキンのような、相互扶助的な思想が強かったのではないでしょうかね。
ツァーリの首を切ることも、当時のロシア人の価値観に沿ったものだったんでしょうか? 疑問を感じてなりません。
やはりボリシェビキは近代人の傲慢でしかなかったのでは?
今の日本人、特に若者相手ですと(私もそんな年ではないですけど)、下手するとボリシェビキになってしまいかねないというおそれも感じます。