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朕、即位以来 茲ニ 二十有余年、夙夜 祖宗ト 萬姓トニ 背カンコトヲ恐レ、自ラ 之レ 勉メタレドモ、勢ノ趨ク所 能ク支フルナク、先ニ 善隣ノ 誼ヲ 失ヒ延テ 事ヲ 列強ト 構ヘ遂ニ 悲痛ナル敗戦ニ 終ワリ、惨苛 今日ノ 甚シキニ至ル。
屍ヲ 戦場ニ 暴シ、命ヲ 職域ニ 致シタルモ 算ナク、思フテ 其人 及 其遺族ニ 及ブ時 寔ニ *怛ノ情 禁ズル能ハズ。(*「りっしんべん」に「中」)
戦傷ヲ負ヒ 戦災ヲ被リ 或イハ 身ヲ異域ニ留メラレ、産ヲ 外地ニ 失ヒタルモノ 亦 数フベカラズ、剰ヘ 一般産業ノ不振、諸価ノ昂騰、衣食住ノ窮迫等ニヨル 億兆 塗炭ノ困苦ハ 誠ニ 國家未曾有ノ 災殃トイウベク、静ニ之ヲ念フ時 憂心 灼クガ如シ。
朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ。
身 九重ニ在ルモ 自ラ 安カラズ、心ヲ 萬姓ノ上ニ置キ 負荷ノ重キニ惑フ。
然リト雖モ 方今、 希有ノ 世変ニ 際會シ 天下 猶 騒然タリ 身ヲ正シウシ 己レヲ 潔クスルニ急ニシテ 國家百年ノ憂ヲ忘レ 一日ノ安キヲ 偸ムガ如キハ 眞ニ 躬ヲ責ムル 所以ニアラズ。
之ヲ 内外各般ノ 情勢ニ稽ヘ 敢テ 挺身 時艱ニ當リ、徳ヲ修メテ 禍ヲ嫁シ、善ヲ行ツテ 殃ヲ 攘ヒ、誓ツテ 國運ノ再建、國民ノ康福ニ 寄與シ 以テ 祖宗 及 萬姓ニ 謝セントス。
全國民 亦朕ノ意ヲ諒トシ 中外ノ形成ヲ察シ 同心協力 各 其天職ヲ 盡シ 以テ 非常ノ時局ヲ 克服シ 國威ヲ 恢弘センコトヲ 庶幾フ。
朕、(ちん)即位以来 茲(ここ)ニ 二十有余年、夙夜(しゅくや)祖宗(そそう)ト 萬姓(ばんせい)トニ 背(そむ)カンコトヲ恐レ、自(みずか)ラ 之(こ)レ 勉(つと)メタレドモ、勢(いきおい)ノ趨(おもむ)ク所 能(よ)ク支フルナク、先ニ 善隣(ぜんりん)ノ 誼(よしみ)ヲ 失ヒ延(ひい)テ 事ヲ 列強ト 構ヘ遂ニ 悲痛ナル敗戦ニ 終ワリ、惨苛(さんか)今日ノ 甚(はなはだ)シキニ至ル。
屍(しかばね)ヲ 戦場ニ 暴(さら)シ、命ヲ 職域(しょくいき)ニ 致シタルモ 算(さん)ナク、思フテ 其人 及(および) 其遺族ニ 及ブ時 寔(まこと)ニ *怛(ちゅうだつ)ノ情 禁ズル能(あた)ハズ。(*「りっしんべん」に「中」)
戦傷ヲ負ヒ 戦災ヲ被(こうむ)リ 或(ある)イハ 身ヲ異域(いいき)ニ留メラレ、産ヲ 外地ニ 失ヒタルモノ亦(また)数フベカラズ、剰(あまつさ)ヘ 一般産業ノ不振、諸価(しょか)ノ昂騰(こうとう)、衣食住ノ窮迫等ニヨル 億兆 塗炭(とたん)ノ困苦ハ 誠ニ 國家未曾有(みぞう)ノ 災殃(さいおう)トイウベク、静(じょう)ニ之ヲ念(おも)フ時 憂心(ゆうしん) 灼(や)クガ如(ごと)シ。
朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧(は)ヅ。
身 九重(きゅうちょう)ニ在(あ)ルモ 自ラ 安(やす)カラズ、心ヲ 萬姓ノ上ニ置キ 負荷ノ重キニ惑(まど)フ。
然(しか)リト雖(いえど)モ 方今(ほうこん)、 希有(けう)ノ 世変ニ 際會(さいかい)シ 天下 猶(なお) 騒然タリ 身ヲ正シウシ 己レヲ 潔クスルニ急ニシテ 國家百年ノ憂(れい)ヲ忘レ 一日(いちじつ)ノ安キヲ 偸(ぬすむ)ムガ如キハ 眞(まこと)ニ 躬(み)ヲ責ムル 所以(ゆえん)ニアラズ。
之ヲ 内外各般ノ 情勢ニ稽(かんが)ヘ 敢(あえ)テ 挺身(ていしん) 時艱(じかん)ニ當(あた)リ、徳ヲ修(おさ)メテ 禍(わざわい)ヲ嫁(か)シ、善ヲ行ツテ 殃(わざわい)ヲ攘(はら)ヒ、誓ツテ 國運ノ再建、國民ノ康福(こうふく)ニ 寄與(きよ)シ 以テ 祖宗 及 萬姓ニ 謝(あやまら)セントス。
全國民 亦(また)朕ノ意ヲ諒(りょう)トシ 中外ノ形成ヲ察シ 同心協力 各(おのずから) 其天職ヲ 盡(つく)シ 以テ 非常ノ時局ヲ 克服シ 國威ヲ 恢弘(かいこう)センコトヲ 庶幾(こいねが)フ。
Ddog訳):
私が即位してこの二十数年、朝起きて夜寝るまで(夙夜)歴代の天皇や祖先(祖宗)と国民(萬姓)の{期待}を裏切るようなことがないよう、勉めてきたが、時勢(勢)の流れ(趨)に支えきれず、まず、周辺諸国(善隣)と平和な関係(誼)を失い、そして列強諸国と戦争状態(事を構へ)となった、そして、遂に悲痛な敗戦となった、そして今日の見るに耐えない災難(惨苛)が甚だしい状況になってしまった。
{国民が}死体を戦場にさらし、命をその職や受け持ちの範囲(職域)で散らしたが、そのかいもなく{敗れてしまった}(算なく)、その本人やその遺族の皆さんのことを思うと、まことに{心を}憂い痛む(チュウ怛)思いが止められない。
戦闘で傷つき、戦災を被り、あるいは、身柄をまだ外国に抑留され、財産を外地で取り上げられたりする例もまた、数えきられない。おまけに、一般産業の不振、諸物価の高騰、衣食住が困窮して、膨大な苦痛は、日本が始まって以来の災難と言ってもいい、{一人}静にこの事を思うと、憂い心が焼ける思いです。
私の徳が無い為に{このような結果となり}、深く世界や国民(天下)に謝罪するものです。
身は、皇居(全く安全な場所(九重)きゅうじょう?)に在るのだけれども、とても落ち着いてはいられません、心を国民のもとに置き、責任(負荷)の重さに{心}惑う。
しかし現在(方今)まだ、歴史始まって以来の変化に遭遇して、世界はまだ騒然としている。自分だけ潔く退位することは、責任から逃れるだけで、逃げ出すことは(国家百…如キハ)、責任をとることにならない。
現在の国内世界情勢を考えると、身を国家国民の為に奉げ(挺身)その時代の難問題(時艱)に当たり、徳を修めて禍を寄せ付けず(嫁シ)、善を行って、災いを掃い、国の再建 国民の幸福に寄与することを誓い、それをもって、歴代天皇や国民に謝罪することにさせて下さい。
国民の皆様、再び、私の誠の意思を理解し(諒ス)、国内国外情勢を察して、一致協力 それぞれの、仕事に励み、この非常事態の世の中を乗り越え、国の力を広げ回復(恢弘)することをお願いしたい。
以上Ddogによる口語訳(全文)と読みカナの一部。
文芸春秋によれば、この文章を草起したのは、昭和二十三年から二十八年末まで宮内庁長官であった、田島道治氏とされています。まだ草稿段階で、正式な宮中風には改まっていないとの分析ですが、当時の陛下の自己表現をする仕方や独白録の内容と一致しているので、先帝陛下が草稿に関与していたことは読み取れるとの見解です。
田島氏は就任前天皇退位論者であったが、天皇と接するうち、留意派に変わったとされています。先帝陛下も退位を望み、三回退位の気持ちを洩らした。一回目は終戦直後8月に木戸内大臣に、自分が退位して収めるわけにいかないか相談している。
次が昭和二十三年十一月東京裁判判決時(今回の文章作成時期)三回目は昭和二十七年サンフランシスコ平和条約発効前。分析では、この国民への謝罪文と責任の取り方への表明文はA級戦犯の刑の執行日に発表する可能性があった。
昭和二十三年夏天皇退位問題が新聞雑誌で議論され、天皇も退位を望んでいたようだが、GHQと吉田茂の説得で思いとどまったが、全国からは宮内府には全国から数十万通の留意の手紙が殺到していた為、退位せずの意思を固めたようだ。田島日記では、何度も退位の気持ちを洩らし、田島長官が留意させたとの記載がある。
昭和天皇は責任意識が強く、長官は日本を再建することが責任の取り方だと説得留意させたと書かれている。地方巡行もその一貫なのです。
この草稿の内容は、独白録の内容とも一致している。
@ 国民や先祖に対する深い畏敬の念を表明している。A戦争が意図したように進まなかった。B運悪く戦争に敗れたとしている。C国民が犠牲になった事、多くの人命や財産が失われた事に心から謝罪している。D国民の生活の復興と国威の回復を願っている。
私は、この文章は世に出すべきだったと思う。出しておれば、もう少し天皇責任論者の考えも変わっていただろう。
なぜ、表に出なかったか。天皇自身は退位か留位か揺れ動いていたが、在位継続は既成事実化してしまっていた。GHQも天皇が、「ここにいる東条以下をすべて釈放してもらいたい、責任は全部私が負う」と、極東軍事裁判で証言されると、非常に都合が悪く、ソ連や支那に付け入れられてしまうことを恐れていた。当時冷戦は始まっていた、共産化の波の中で、GHQの寛大な講和路線を取っていたし、昭和天皇を頂点とする間接統治するうえで、都合が悪い。
日本側の吉田茂首相や官僚達が無難な方へ曖昧な方へと処理され、遂に日の目を見る事が出来なかったようだ。これは、太平洋戦争の宣戦布告の遅滞と同じぐらいの官僚のミスではなかったか?
ジャーナリストの徳岡氏はこの文章が発表されなくてよかったとの意見を文芸春秋に載せている。先帝でなくとも、人は己に絡む誤解の十や二十は引きずっている。すべて解決する事は出来ない。説明はさらなる誤解を生むだけだ。先帝は言い訳しない、神になろうと断頭台上の露と消えようと従容としている。
木戸日記やだれ彼日記、独白録であっても、すべて傍証にすぎない。先帝の真意を本当に直接表明出来るのはもしかしたら、御製の歌だけかもしれない。
昭和七年満州事変翌年の御製。
ゆめさめて、わが世を思ふ あかつきに、長なき鳥の 声ぞ聞こゆる。
昭和六十一年八月十五日御製
この年の この日にもまた 靖国の、みやしろのことに うれひはふかし。
先帝は戦争責任、死者の鎮魂は、生涯を通じてあったといえよう。
天皇が在位にこだわり、戦争を長引かせたり、戦争責任から醜い工作をしたなどという左翼の歴史の曲解は、こういった歴史的事実の前では、悪意以外の何物でもない。
多くの反日本的 歴史研究者が陥る誤解のように、天皇は戦争中も絶えず戦況等を下問していたが、国家国民を慮る内容がほとんどで、これをもて、戦争指導したと断定し、なんとか天皇の責任を問わせようとするのは如何なものか?
極東軍事裁判の裁判長ウェッブは、天皇が訴追の対象から除かれたのは、法律的根拠でなく政治的根拠に基づくと言明している。天皇はいわば占領軍の都合によって公式に退位の表明することを阻まれてしまったのである。
そして、先帝陛下は、日程時間まで公表して、大衆に身を曝して、地方巡行を決行したのである。これが、先帝陛下の道義的責任の取り方で、自分の御代で焦土となた日本、この幻の詔書の公約どうり、見事に復興させ昭和六十四年正月崩御されたのであった。