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「GLA高橋信次の著書(『心の発見』など)は虚偽とまちがいだらけ3」
<目次3>
☆ 偽りの「大黒天」
☆ 不空三蔵とミロクの混乱
☆ いいかげんな「本体・分身・転生周期」説
☆偽りの「大黒天」
信次が1968年7月以降、妹や妻や義弟などを「霊道者」にしたように、彼の知人友
人たちも、「光を入れられて前世記憶がよみがえった」として、GLAに参入していくこ
とになりました。
しかし、その友人たちに発現した「過去世」を説明する信次の筆は、調べた限りでは、
どう見てもまちがいとしか思えない記述をつむいでゆきます。
家族以外に「前世」をひもといた最初の人は、信次の中学生時分からの友人の佐藤氏で
す。信次は彼の釈迦時代の前世名を、「プルナートラヤー・ヤニプトラー」だと説明しま
す。
「神理編」P58
「プルナートラヤーは、今から2626年前に、インド西岸・・・に生まれた・・・ある
とき彼は商売の途中・・・ゴーダマのことを聞き・・・弟子になったのである。彼は仏法
をさとり、ゴーダマと同年輩の人だったが、説法が上手な方であったようである」
「プルナートラヤー・ヤニプトラー=佐藤」は、インドでBC658年(西暦1968年
現在から2626年をひくとマイナス658年になる)に生まれ、材木商人と香木売りの
商人だったとき、釈迦の弟子になったことになります。
しかし、ここで釈迦の出生年と佐藤氏の前世の出生年について、大きな問題が起こりま
す。
現在、史実としての釈迦の生没年は明瞭ではありません。諸説あるのですが「前565
〜前486年説」「前465〜前386年説」などが有力とされており、「BC463年
頃」とする説もあります。
プルナーの生年にもっとも近い「BC565」に釈迦が生まれたとしましょう。すると
釈迦は35歳で大悟したというのが通説ですから、弟子をとれるのは、早くても「BC5
30」以後になります。
すると、BC658生まれの「プルナートラヤー・ヤニプトラー」(以下プルナー)が
はれて弟子になれるのは、早くても128歳の超人的高齢のときです。どこが「ゴーダマ
と同年輩の人だった」といえるのでしょうか。
「同年輩」とは、せいぜいが10歳差以内が、常識的な許容範囲でしょう。最大限に信次
の記述に好意的な設定で見たとしても、35歳の釈迦と128歳のプルナーを「同年輩」
と見ることはできません。まったく、信次の記述と既存の通説では計算が合わないのです
。
「神理編」P65にも、妻一栄のインド時代の前世「マイトレーヤー」が「今(AD196
8年)から2607年前に生まれた」と書いていますので、彼女の生まれは「BC639
年」。「弟子になったのは21歳のとき(P74)」なので、釈迦に出会ったのは「BC6
18年」ということになります。
ところが、前述したようにプルナーの出生年にもっとも近い釈迦の生年として得られた
、通説「BC565」まで釈迦は生まれていません。釈迦が生まれたときには、マイトレ
ーヤーは「21歳」どころか「53歳」。当時としては高齢者になっているはずです。
では、信次がプルナーを、「釈迦と同年輩」と書いた根拠はなんでしょう?「ゴーダマ
が去る二年前に79歳でなくなった」と「神理編」P58で、プルナーのことを書いていま
す。また同P76では、「マイトレーヤーは、ゴーダマが81歳でなくなったとき、62歳
だった」とあります。
ということは、マイトレーヤーより、釈迦は19歳年長だったということです。すると
、「神理編」における釈迦の生年は、マイトレーヤーの生まれが「BC639」ですから、
19年をさかのぼって「BC658年」になります。これで、プルナーの「神理編」P58に
おける生年「BC658年」と等しく、「釈迦と同年輩」という記述に合致するわけです。
しかし、「神理編」では矛盾がなくても、既存の史料や説では「釈迦が紀元前7世紀中
葉に生誕した」というのは、あまり聞きません。前述したように、せいぜいが「BC5〜6
世紀」の範囲に絞られておりますので、既存の通説に従うならば、信次の「釈迦、プルナ
ー、マイトレーヤ」の「過去世記憶」の信憑性は、自己崩壊してしまいます。35歳の釈
迦と128歳のプルナーの「同世代の邂逅」という「ウソ八百」の姿をさらすことにもな
りかねません。
「プルナー」と「釈迦」が「同年輩」という根拠は、歴史的な事実によるのではなく、単
に「信次と佐藤氏が、中学時代の同級生だったから」という事実のひきうつしではないで
しょうか。要するに、「過去世関係」も「思いつき」の可能性が疑われるのです。
話を「プルナー=佐藤」に戻しましょう。このプルナーは中インドなどの諸国で、商売
をしたと、信次は「神理編」P58で書いています。そして、こう続けるのです。
「特に中インドのバッチ共和国にいって、仏教流布のため活躍された」
紀元前7世紀にインドに「共和国」(共和制)など存在したわけがありません。「共和
国」と名を冠する国が現れたのは近代以後であって、こんな時期に「共和国」など、地球
上には存在しなかったかずです。
紀元前2〜3世紀に、ローマの共和制はありましたが、それとて「共和国」と呼ばれた
わけではないのです。実質上の「共和制」は、イタリアのヴェネチアなどにも、中世から
存在しましたが、これとてヨーロッパのごく一部。少なくとも、ローマ帝国の東国境より
以東に、紀元前に「共和国」が存在したなどといったら、バカにされるのがおちです。
ちなみに、インドがようやく「共和国」になったのは「西暦1950年」、今から52
年前のことです。もし、「バッチ国」が本当に「共和国」だったとしたら、それはインド
史どころか、ヴェネチア同様、世界史に大書されるべきことがらです。
もちろん、現代でも「バッチ共和国」などという名前の国家は存在しません。いったい
どこから、こんな「共和制国家」の名前を思いついたのでしょうか。もしかしたら、信次
には「共和制」の意味がわからず、単純に「特定の王がいない国」とでも思いこんでいた
のかもしれません。
さて、佐藤氏に続いて、その友人の小柴氏も、信次によって「前世がわかった」ひとり
とされています。仏陀の弟子の「スブティー」という中インドの商人だそうです。(「神
理編」P59)
同書同ページには、このスブティーが、紀元4世紀に中国に転生し、「大黒天」として
活動したそうです。もっぱら「神理を説く光の天使に経済協力をなされた方である。大黒
天としての諸天善神は、相当数おられる。仏教的な名ではあるが、実在界でこのように呼
ばれている」と説明されています。つまり、「スブティー」は「大黒天という諸天善神の
ひとり」であるということです。
ここで「大黒天」の説明をしないと、この記述がどんなにおかしいか、おわかりいただ
けないかもしれません。
信次は「大黒天」について、既存の通説や定説をまったく用いず、いきなり「諸天善神
」にして「仏教における経済的助力者」と位置付けていますが、これは根拠のない決め付
けに過ぎないようです。
なぜなら、「大黒天」は、もともとヒンドゥー教の神で、「マハーカーラ=破壊と暗黒
の神」とされています。それを漢字に訳して「大黒天」というのです。「マハー=大」「
カーラ=黒・闇」であり、決して、仏教起源でも、中国発祥の神でもありません。
ましてや、インドのシバ神の「暗黒面」を象徴する神ですから、「実在界=天上界」よ
りは、「地獄界」「魔界」の方がぴったりくる神さまです。
ですから、中国に「大黒天」という名の個人として生まれる理由がありません。「大黒
天」は人間でもなければ、「光の天使」でもなく「破壊と暗黒の魔神」たることが本来の
姿なのです。
マハーカーラは人の血肉をいけにえに、願いをかなえる魔神でもあり、それが中国にわ
たってから「戦闘神」「台所神」として、次第に「善神」の側面が加えられてきました。
最初から「善神」だったわけではありません。
さらに、日本にはじめて「大黒天」の信仰がもちこまれたのは、9世紀はじめ。密教と
ともに渡ってきました。信次がいうような「経済援助の福の神」となったのは、それ以降
の日本国内でのお話です。日本の総鎮守たる出雲大社の神様である「大国主命(おおくに
ぬしのみこと)」の音読み「大国(だいこく)」と混同され、習合の結果、こんにちなじ
みぶかい福福しい「大黒様」が生まれたのです。
このような史実を知れば、「マハーカーラ=大黒天」が、「小柴=大黒天」であるはず
がなく、「大黒天の生まれ変わり=小柴」ではないとわかります。ヒンドゥー起源の暗黒
神ですから「実在界の諸天善神」どころか、「仏弟子スブティー=マハーカーラ」ですら
ありえません。
大黒天が「財運招福」の神となったのは「9世紀以後の日本」においてであって、「4
世紀の中国」ではありません。ですから、スブティーの中国に生まれ変わった姿が「大黒
天」であるはずもないのです。しかも、「大黒天」が今日の大黒天らしくなったのがいつ
であれ、「大黒天が、同じ名を名乗る人間に転生する」など、考えられません。
仮に、「小柴=大黒天」が「役割」の名だとしますと、「4世紀の中国人」としての個
人の「人名」は、いったいどこへいったのでしょうか。これまで、あんなにひとりひとり
の名をくわしく説明してきたのに、ここへきてあの「聖観音」のように、「肉体人間とし
ての名前も住所も経歴も不明」な「無名人」になるのは、いったいどうしてでしょうか。
「神理編」P59では、「仏教的な名ではあるが、実在界でこのように呼ばれている」とあ
りますから、「ヒンドゥー起源」の大黒天の本来の姿を、信次が知らなかったことになり
そうです。「中国仏教」で「厨房の神」とされていたことさえ、知らなかったのではない
でしょうか。
もともと仏教的でない大黒天が、「実在界」で「マハーカーラ=大暗黒神」と呼ばれて
、そういう役目の霊人がたくさんいて、人間として転生してくるというのも理解できない
飛躍です。「大黒天」はその素性がなんであれ、「神」なのであって「人間」「霊人」で
はないのですから。
しかも、「大黒天」を、現在の日本の仏教宗派で重んじているのは、「日蓮正宗」「創
価学会」系です。本尊の脇侍として仏壇にまつっており、「諸天善神」という言いかたで
、「仏法を護る神々=諸天(天部)」を表現しているのも「日蓮正宗」「創価学会」系で
す。
ウソだと思うなら、大手検索エンジンで「諸天善神」をキイワードに検索をしてみてく
ださい。ヒットするサイトの多くが、「日蓮正宗」「創価学会」関係のサイトです。
その一例として、従来の「諸天善神」の定義を、あるサイトより引用させていただきま
す。
「諸天善神とは、太陽もそのなかにはいり、焚天、帝釈もそのなかにはいります。あるい
は天照太神、正八幡大菩薩、あらゆる神々がそのなかにはいると、日蓮大聖人様はおおせ
になっております」
このように、信次はどうも「日蓮正宗」や「創価学会」で使われたターム(用語)を、
独自の解釈で使っていることが目立ちます。このことが、また信次が「神理編」で記述し
たことと激しく矛盾することになるのです。
信次は、『心の発見』の随所で「自分は仏教もキリスト教も学んだことはない」と書い
ていますが、この「日蓮正宗」「創価学会」的用語の用い方が、それを裏切っています。
それらの用語と意味の独自解釈を、「転生の記憶・潜在意識の智慧」とするには無理があ
ります。
なぜなら、「神理編」P32-33にかけて、「姉夫婦が、創価学会の日蓮正宗に狂信的な信
仰をよせ、ほとんどの兄弟たちが、信者となって教学を学んでいった」とあり、「当然、
多くの信者たちは私の家にも折伏にきた」と述べています。
すると、なんらかの形で信次は、「創価学会」の教学に触れているわけです。少なくと
も30年以上も「神仏の世界ともう一人の自分」を求めてきた信次が、折伏しにきた信者
や兄弟(十人もいます)たちと「論争」しなかったわけがありません。折伏に関しては、
ただでさえ激論がつきもののようですし、兄弟じゅうからの「折伏」を跳ね返すとなると
大変な努力が必要でしょう。先述した妹の「星洋子」も10年来の熱心な「日蓮正宗」の
信徒だったとあります。
ひとことでいえば、「諸天善神」という言葉を知っていること自体、「仏教を学ばなか
った」ことがウソであることを証しています。つまり、信次の「ほとんど仏教を学んだこ
とがない」という言いかた自体が、事実に反することになります。少なくとも、「折伏し
にきた学会員たちと論争し、兄弟たちの入信のすすめを受けるうちに、日蓮正宗の教学の
一部を知ることができた、ほかの宗派のことはわからない」と書くのが、正直で誠実な態
度というものでしょう。
したがって「神理編」に、信次の宗教に対する姿勢として書かれたことは、残念ですが
ウソだとしか思えません。
「神理編」
「宗教に関してはほとんど学んだことがなく」P9
「従来の宗教関係を求めることなく、それらの書籍を読むこともなく」P26
と書いておきながら、次のページではこうです。
「その頃、私は他の宗教への遍歴もしていた」P27
記述に一貫性がないのにも、ほどがあります。
さらには、同書で「私のような仏教をまったく知らない人間」(P140)などと平気で書
いているのです。
兄弟じゅうが創価学会員となって折伏しにくる環境なのに、「宗教に関してはほとんど
学んだことがない」では通りません。信次自身が「創価学会」信者か、またはシンパとな
っていた時期の存在さえ疑われます。なぜなら、信次の語る「神理」には、「創価学会」
の教学用語ぬきでは説明できないものがあるからです。
たとえば、今まであげた「大黒天」「諸天善神」そして「正法」は、日蓮正宗では当り
前の用語として使われています。また信次が考案した『心行』(『心の原点』P338)に
出てくる、「大宇宙体は意識の当体」「当体・意識は不二」「当体は大神体」「当体の細
胞」などと書かれている「当体」ということばも、日蓮上人の書いた『当体義抄』にある
、ばりばりの仏教用語なのです。
『当体義抄』は、現在も「創価学会」の「教学」の書のひとつとされ、そこでは「当体の
蓮華」という難解な言葉が学ばれています。検索エンジンで「当体」と、キイワードを入
れて調べてみてください。これまでの私の分析が、ウソではないことがお分かりいただけ
るはずです。
もちろん、『心行』における「当体」の語は、高橋信次のオリジナルでないことはもち
ろん、『当体義抄』で使われているような意味でさえありません。信次が、勝手な解釈を
もって選び、『心行』を書くときに、無断で用いたということになります。
ここまで「創価学会」の教学用語をパクッておいて、信次は「仏教をまったく学んだこ
とがない」などと、しゃあしゃあと書いているのです。それとも、信次にとって「日蓮正
宗」「創価学会」は「宗教」「仏教」ではなかったのでしょうか。
「現証編」でも「スブティー=大黒天」について、こう書かれています。
「現証編」P104
「五世紀ごろ、中国の南支で大黒天と呼ばれていた人である」
「神理編」では「4世紀」だったのに、いつのまにか「5世紀ごろ」に変わっています。
ほとんど「恒例」の食違いです。しかも「南支」というのは「南支那=中国南部」のこと
ですから「中国の南支」というのは、奇妙に過ぎます。
このように「神理編」では、「小柴=4世紀の中国人の大黒天」ということになってい
るのです。ところが、この先の同書P109-111にかけて、ことなる大黒さまの由来が登場し
てくるので、またわずらわしくなります。
まず「神理編」P109-111で、「埼玉県の日向親子」が「心眼」を得た結果、「聖観世音
菩薩(星洋子の守護霊と思われる)」がたびたび夜中に眼前に現れたといいます。それは
信次によれば、「聖観世音菩薩の分身で平安時代に生まれた白菊さんという方」です。「
白菊」などという女性の名前は、平安時代にしては、違和感がありすぎます。、「聖観世
音菩薩の分身」ということは、星洋子の分身ということですから、彼女の守護霊は、第三
者の前にも姿をあらわす、出張するキャラクターということになります。
その「白菊さん」のほかに、この親子の眼前に「大黒天」も「たびたび姿を見せている
」とあります。それで、この「大黒天」の正体は、「スダッターというインド時代、神理
を説く方々に対して、良く面倒を見られた方」で、現世では日向親子の亡き父だというの
です。
そのあと、「神理編」でこう続きます。
「神理編」P110
「中国時代、五世紀に、やはり天台上人に経済的な援助をされた方が、スダッターの分身
で、大黒天と呼ばれ、(日向親子の前に)たびたび姿を見せているのである」
天台上人とは、天台山を中国に開いた「天台智 (てんだいちぎ)」のことです。する
と「小柴=四世紀の中国南支の大黒天」と「日向(亡父)の前世の天台上人のときの大黒
天」の関係は何なのでしょうか?「スブティー大黒天=スダッター大黒天」なのでしょう
か? 本体と分身? 分身と分身の関係?・・・それとも、同じ世紀の同じ地方に出た、
二人の「大黒天」? 次第にこんがらがってきます。
このような読者への混乱をまきちらしたまま、信次はまたも告げるのです。
「神理編」P110-111
「正法流布に協力してくださった人々は、ほとんど大黒天と仏教では呼んでいる」
前述したように、これは間違った記述であり、事実を正しく表現していません。「大黒
天」が仏教と関わりあうのは、「日蓮正宗」「創価学会」の中での事ですので、「仏教全
体」というのは、よく言えば大きな誇張、悪くいえばウソです。
しかも、大黒天は「援助」というよりは「仏法の守護神」としてまつられています。「
ほとんどの仏教では大黒天と呼んでいる」というのは、どんなにまことしやかに書いても
事実に反します。「大黒天」を「正法パトロン」にしてしまうのは、「仏教の常識」など
ではありえず、単なる信次だけの独断と自己流解釈にすぎないのです。
まずもって、このような信次の「大黒天への無知と誤解」が明白になると、「神理編」
でのその後の記述にとって、非常にまずいことが生起します。
それというのも、こう書かれてあるからです。
「神理編」P140-141
「伝教大師の過去世が・・・天台山を開かれた天台智 という僧侶であった」
「私(信次)の守護霊は、不空三蔵がつとめている以上、伝教大師の消息については非常
にくわしい」
伝教大師は、9世紀に日本の天台宗・比叡山延暦寺を開いた「最澄」のことです。つま
り、上の記述は、守護霊経由とはいえ「信次は最澄について非常にくわしく知ることので
きる立場にある」と語っていることになります。この記述自体が、信次の「大黒天」への
無知と自己流解釈のせいで、完璧なウソになってしまうのです。
なぜなら、この「最澄」こそ、西暦805〜6年に、「厨房神としての大黒天信仰」を
はじめて日本にもたらした人物だからです。これは史実です。最澄こそ、当時の日本で、
もっともくわしく正確に、インド・中国における本来の「大黒天」のことを、ほとんど唯
一、知っていた人物なのです。
したがって、守護霊や過去世経由で「伝教大師については非常にくわしい」はずの信次
が、これまで述べたような「大黒天に関する無知と誤解」を展開するのは、決定的な論理
の破綻です。そればかりか、彼の「守護・指導霊」が偽者であり、信次の過去世について
の記述が、史実とことなる信頼性皆無の偽りの証拠になってしまうのです。
☆不空三蔵とミロクの混乱
先に信次は、「私の守護霊は不空三蔵」と書きました。私ははじめ、不空三蔵が「フワ
イ・シン・フワイ・シンフォー」ではないかと疑いましたが、「科学編」P194-196の記
述で別人とわかりました。
「イエスの分身フワイ」は、「フォワイ・シン・フォワイ・シンフォ AD400年ごろ
」とあり、「釈迦の分身・不空三蔵」とは異なると書いてありますので、同じ中国人でも
ちがうということになります。
しかし、問題は「イエスの分身の仏僧・フワイ」も「釈迦の分身の天台僧・不空三蔵」
もともに信次の「守護霊」となっていることです。なぜならば、『心の原点』では、次の
ように「守護霊」の定義がなされているからです。
『心の原点』P298
「人の潜在意識層には、皆それぞれ魂の兄弟がいて、所謂、守護霊となってその人を守っ
ている。その人の生まれてからの人生を、その守護霊は皆知っている。私は、その守護霊
から様子を聞くのでわかるのである」
そうすると、信次の「魂の兄弟」は、「釈迦の魂兄弟」と「イエスの魂兄弟」と「ふた
り分・二重関係」の例外的な兄弟構成ということになるのでしょうか。普通「兄弟」とい
うのは、肉体的にたとえれば「親を同じくする家系の兄弟」であって、別の親の家系の兄
弟には同時にはなれないはずです。ところが、信次の場合は、それが何の説明もなく当然
のように書かれているのです。
「神理編」P40
「私の守護霊は、中国において4世紀ごろに肉体をもって生活していたフワイ・シン・フ
ワイ・シンフォーと呼ばれている方であった」
これは「フワイが守護霊」ということでわかります。では次は誰のことでしょうか。
「神理編」P140
「私の守護霊をしている方は中国に生まれた僧侶で、5世紀から6世紀の頃、仏教を学び
実践された人」として、この守護霊に「法華経のお題目について教えてもらった」
これは「フワイ」のことでしょうか。「不空三蔵」のことでしょうか。
「フワイ」は既に述べたとおり「4世紀ごろに肉体を持った」とあります。ですが、「科
学編」では「AD400年頃」と書かれているのです。こうなると「5世紀はじめごろ」
になります。どちらが本当なのか、またまた「同一人物についての食違い」です。ここま
でくると救いようがない、という感じがします。
さて、「中国に生まれた僧侶で、5世紀から6世紀の頃、仏教を学び実践された人」と
は、「フワイ」でしょうか。生きていた時代が、「4世紀」か「5世紀はじめ」か「5世
紀から6世紀にかけて」か、ばらばらなのですが、とりあえず「フワイ」としておくほか
はないようです。
なぜなら、「不空三蔵」は中国密教史に名前を残した人物で、その生涯は「西暦705
年生〜774死去」と分かっているからです。史実にしたがうなら「不空三蔵」は「中国
生まれの僧侶」でもありません。
不空は、父がインドのバラモン、母がサマルカンド(西域=中央アジア)の出身で、母
のもとで生まれ、長じてインドにおもむき密教をおさめました。それを中国に伝道すると
ともに帰化したのですから「中国生まれ」ではありません。
ところが信次は、「守護霊・不空三蔵」について、下記のように、史実とことなるまち
がったことを堂々と書いているのです。
「現証編」P251
「私の守護霊のひとりに、七世紀、中国に生まれた不空三蔵とよばれていた僧侶がそばに
きていた」
またも「七世紀」と不空三蔵の生涯の世紀をまちがえています。史実はさっき挙げたと
おり「八世紀」ですし、「中国生まれ」でもありません。信次は、自分の守護霊について
正しい過去の生涯の知識を、なぜ本人の霊と交流できる状態にありながら、得ることがで
きなかったのでしょうか。普通に考えるなら、「守護霊・不空」が偽者であるか、信次の
創作した人物であるか、いずれかでしょう。
ここで、一度はおさまっていたはずの「信次の守護霊問題」を、少し蒸し返して確認し
ておきましょう。「守護霊フワイ」の「本当の姿」についてです。
「神理編」P46
「フワイは、髪が首まであり、あごひげをはやした身長1メートル78センチほどの方で
、やはり、上段階、光の大指導霊で、1世紀にイスラエルに活躍した人である。イエス・
キリストの分身の名であった」(「現証編」P92にも同一描写あり)
これは変です。何が変かといえば、「フワイ」は「科学編」では「AD400年ごろ中
国に生きた」と書いてあるのです。それが、「1世紀にイスラエルに活躍した人である」
と書かれて、しかも「髪が首まであり、あごひげをはやした身長1メートル78センチほ
どの方」とまるきり「イエス・キリスト」のイメージであって、「中国人」らしくありま
せん。
前述した「マイトレーヤ」たちは「インド女性」の当時の姿なのですから、「フワイ」も
「中国人」の姿であるのが自然でしょう。
「現証編」P90
「若葉色の中国風の法衣をつけた僧侶」の霊が、フワイのことを「BC32年(ママ)イ
スラエルに生まれたイエス・キリストである」。
「現証編」P95の「123」の言葉。
「私、エジプトで生まれたモーゼと呼ばれていたもの。ここにいる人、フワイ、二千年前
、イスラエルで生まれたイエスといわれた人」
こう見ると、信次の守護霊は「あごひげをはやした身長1メートル78センチ、イエス
の分身フワイ」の姿と、「若葉色の中国風の法衣をつけた僧侶」の姿と、「123」が告
げた「BC32年(ママ)イスラエルに生まれたイエス・キリスト本人」の姿と、三つに
分裂していることになるのです。
しかも、信次が「不空三蔵」について「中国で生まれた」と間違って思いこんでいたな
ら、「若葉色の中国風の法衣をつけた僧侶」は「守護霊・不空三蔵」のつもりで書いたの
かもしれません。そうなると「中国生まれらしい姿のフワイ」はどこにも存在しなくなっ
てしまいます…。
いずれにせよ、この混乱と矛盾と食違いについて、信次はなんらの釈明も説明もしてい
ません。まったくの書きっぱなしです。自分の人生を見つめてくれる「魂の兄弟」たる「
守護霊」なのに、これだけのイメージの分裂と混乱があるのは理解できません。
かろうじて判断できるのは、これらがすべて「信次の妄想と想像によるでっちあげ」で
ある可能性の高さです。しかも、でたらめで思いつくかぎりのことを、口からでまかせで
しゃべる虚言の印象が強い。だからこそ、見なおしも書き直しもしない「書きっぱなし」
でも平気なわけです。ウソだからこそ「書き捨て」ができるのでしょう。
ここまでくると、どれもこれも「デタラメのウソっぱち」と思わざるをえません。こん
ないいかげんな史実を無視した「過去世記憶」も「守護霊」も、本物であるはずがありま
せん。いまや、だれの目にも明らかです。
この「でたらめ」としか思えない記述の矛盾と誤りは、妻・一栄の「ミロク(マイトレ
ーヤ)」の自覚劇・守護霊との合体現象にも及んでいます。もう、うんざりという感じで
すが、最後までお付き合い下さい。
「神理編」では、1968年10月23日になって、9月19日に「聖観世音菩薩」とと
もに出現した、もうひとりの「美しいインドスタイルをした霊人の女性」が、やっとその
正体を告げます。
「神理編」P62
「わたしはミロクと申します。ほんとうにしばらくでございます」
このとき、霊人ミロクは、霊視状態の信次に「あなたの奥様の守護霊でございます」と
告げますが、妻の一栄は、このことをまだ知りません。
そこで、信次は妻の体に、守護霊が入りたがっていると判断し、こう告げるのです。
「神理編」P63〜64
「今日から1週間、午前1時から午前2時まで、屋上に出て今までの人生を良く反省して
、心の調和をはかりなさい」
「・・・午前1時ともなると、心を調和するには絶好の場所である。1時間の反省的な瞑
想は、光に覆われて妻の心は浄化されてゆく」
ここまで読めば、読者は、当然「では、1週間後に守護霊が、妻に霊がかりするのだな
」と思うでしょう。
ところが、この「10月23日夜、妻にこれから1週間の反省をしなさいと命じた」あ
とに続くくだりを、信次はこう書いています。
「神理編」P64
「10月23日の夜、私が調和の光を与えたところ、遂に妻の意識を守護霊が支配し、優
しい日本語で語り始めたのである」
「10月23日の1週間後」が「10月23日」というのは、どういうことなのでしょう
か? 信次がわざわざ命じた1週間の瞑想のあとだからこそ、「遂に妻の意識を守護霊が
支配し」と表現したはずです。本当なら「10月29〜30日」と書くべきところです。
同じ本の中で同じ現象に関するこの「1週間」の「消滅」は、何に由来するのでしょう
か。これも信次のフィクションであるが故の書きまちがいの一例ではないかと、思うほか
はありません。
では、同じ「妻の瞑想と守護霊の顕現」のエピソードを「現証編」ではどう書いている
でしょうか。「神理編」と同じならば当り前で、異なっていたらおかしなことになります
。普通はそういうことですが、なにしろ「神理編」の中味自体に「1週間の消滅」などの
決定的矛盾があるのですから、「現証編」もすぐに破綻した記述に遭遇するはずです。調
べてみましょう。
やっぱり、というか、まず「インドスタイルの美人の霊人の女性」が霊体で現れる日付
が「神理編」の「10月23日」とちがいます。
「現証編」P84
「10月17日・・・私はその日、妻のそばにも印度スタイルの美しい女性が立って
いるのを見た」
しかも、信次はそこで「神理編」のように、その霊体の女性から「私はミロクと申しま
す。あなたの奥様の守護霊でございます」などという「あいさつ」は受けません。その霊
体の女性は、挨拶もなく、ただ信次と妻を見ているだけです。「神理編」で起こった「ミ
ロク霊の自己紹介」が、ないことになっているのです。
しかも、「現証編」の信次は、妻にこういうだけです。
「現証編」P84
「私は妻に『おまえも屋上へ出て今までの人生を反省して心の調和をはかってみたら」と
いった、妻は素直に夜11時ごろから2時間ほど心の統一を計り、心の曇りを晴らした』
つまり、信次は妻に「神理編」の記述のように「1週間、反省しなさい」などとは、「
現証編」では命じていないことになっています。しかも「神理編」では「毎日午前1時か
ら2時までの1時間」を「瞑想の時間」と指定しているのに、同じことについて、「現証
編」では「夜11時ごろから2時間」に変わってしまっています。瞑想しなさいと命じた
本人の記述がこれですから、あまりの一貫性のなさに口あんぐりです。
まだまだ、食違いが面白いほど出てきます。食い違っていない所を探す方が、大変なほ
どです。
「現証編」P85
「そして10月23日の夜であった。古代印度スタイルの女性が・・・「私の出番のよう
です。おほほほ」とその人は笑って立っているのだ。私が「妻の肉体を支配してください
ますか」というと・・・「はい、私はマイトレーヤーと呼ばれた印度の時代ゴーダマ様の
お弟子でございました」と・・・感激のあまりか、大粒の涙を流し・・・挨拶するのだっ
た」
「神理編」では消えてしまった「妻の瞑想1週間」が、「現証編」では、なぜか「10月
17日〜23日」という形で、暗に「存在」しているのがおわかりいただけるでしょうか
。しかも、「現証編」では信次が「1週間の瞑想」を命じていないのにです。
また、「神理編」と「現証編」では、日付こそ同じ「10月23日」であるものの、上
述したように、「ミロク」の現れ方がちがいます。はじめて挨拶して名乗った時点が異な
っているのです。
「神理編」では、霊人みずからが、「私はミロクで、あなたの妻の守護霊です」と、妻に
霊がかりする前に、霊視できる信次に名乗っています。ところが「現証編」では、妻の肉
体にかかってから、妻の口を借りて、はじめてその霊人が名乗りをあげたことになってい
るのです。
このように「神理編」では、10月23日に信次の妻・一栄が、霊道を開いて「守護霊
がかり」になります。そこで、彼女は、やはり守護霊複数説としか思えない発言をするの
です。
「現証編」P65
「私は、ミロク菩薩と呼ばれているものでございます。今日までは日本人として生まれて
いる友達の守護霊や指導霊をしておりましたが、ご本人の心の目が開かれましたので、私
が守護霊をつとめさせていただきます。私は本体の分身、十五世紀、中国に生まれたガラ
ンという名の女性でございます」
ここでも「守護霊・指導霊の定義」の混乱が見られます。『心の原点』で示されている
「本人の潜在意識にいる魂の兄弟」や、「本体と分身は、てのひらと五本の指の関係」と
いう「守護霊の定義」に、信次の「魂兄弟の二重構造」同様、反しているのです。
果して妻・一栄の守護霊は「ミロク」か「ガラン」か。「本体」なのか「分身」なのか
、まるでわかりません。他人の守護霊や指導霊も兼任できるなら、この「ガラン」や「ミ
ロク」が、本当に一栄の潜在意識にいる「魂兄弟=守護霊」である証拠は、どこにもない
ことになります。少なくとも、このような「守護霊の交換」が「魂兄弟ではない霊」でも
可能だと、信次がはっきり明言しているところはないはずです。
せいぜいが、一時的にほかの人に守護霊を乗り移らせることができるという現象を説明
しているだけです。守護担当すべき本人をさしおいて、ほかの友人の守護・指導をする兼
任が可能だとは書いていないはずです。
つまり、信次はここで、「守護霊=本人の魂兄弟・潜在意識」と説明しながら、もう一
方では「他人の魂兄弟・潜在意識」にもなれるといっています。これは「天上世界と地上
を結ぶ転生の法則」と、信次自身が述べていることを侵しています。すなわち個人の霊魂
の固有性の論理を、教祖みずから破壊していることになります。
「現証編」では、一栄が覚醒した10月23日、「守護霊」として現れるのは「マイトレ
ーヤ=ミロク」のみです。「ガラン」はその「ガ」の字さえ現れません。「現証編」から
、まったく姿を消しています。最初からいなかったかのような扱いです。(P133 1行目
以降参照)
おそらくは、「神理編」でかかれた「ガラン」のウソを一栄にとがめられ、「現証編」
では削除したのではないかと、推測したくなります。
一栄の「守護霊」の「ガラン=ミロク」は、「マイトレーヤ時代」の思い出を語るので
すが、そこでもひっかかりができます。
まず、「マイトレーヤー」こと「ミロク」は、通説では「男性」ではなかったでしょう
か?少なくとも「女弟子」だったという記録は、見たおぼえがありません。
「弥勒仏」「未来仏」「マイトレーヤ」は、仏性としては性別を超えてはいるものの、釈
迦時代に「比丘尼」だったとは、どこにも書かれていないはずです。
信次が、一栄の前世の「女性」として「マイトレーヤ」を書いたのは、何らの根拠も有
さない「思いつき」のようです。
また、「神理編」P73には「ミロクとは慈悲と調和という意味である」と信次は書いて
いますが、「マイトレーヤ」に「慈悲」「いつくしみ」「友情」という意味はあっても、
「調和」という意味はありません。よけいなウソを「つけたし」しているのです。
さらに従来の説とことなる信次の「思いつき」をひとつ。マイトレーヤ21歳当時、1
20歳以上になる伯父の「ヴァヴァリー」が、現在「阿シュク如来」と呼ばれ、大変に高
度な「上段階光の大指導霊」になっていると、「神理編」P76でも「現証編」P135でも書
いてあります。
そればかりか、先述した「ガランダ長者(弘法大師の前世)の女婿」(おそらく、信次
の妹の前世の夫)が、天上界に昇って大日如来となって、釈迦の説かなかった愛を説いた
と「神理編」P143にあります。そんなことがありえるでしょうか?
では、既存の「阿シュク如来」について、「大日如来」とからめて御説明しましょう。
「阿シュク如来」というのはサンスクリット語で「アクショーブヤ」という名前で、「ヴ
ァヴァリー」などではありません。「大日如来」は「ヴィローシャナ」です。
さらに、「阿シュク如来」は「大日如来」の備える「五つの知恵」を、五体の如来(五
つの方角)にあてはめたうちの一人で、東方に坐るとされます。
ということは、「阿シュク如来」は「大日如来の知恵の象徴のひとつ」として後代に発
案されたものであって、実在した人間がモデルではないことになります。もちろん、「大
日如来」が「阿シュク如来」の娘婿として釈迦時代に肉体をもっていたなど、何の根拠も
ない話です。
ヴァヴァリーなど、仏教の関連文書の中には、どこにも出てきません。つまり、信次が
「マイトレーヤが伯父ヴァヴァリーの代わりに、17人の男女とともに、釈迦に弟子入り
するために危険な旅をした」という、「神理編」の記述自体が、信憑性を著しく欠いたエ
ピソードなのです。
それなのに、信次は「神理編」P76は、こう書いています。
「ババリーは現在も実在界におられ、上段階光の大指導霊で、仏教的には阿シュク如来と
いわれているお方である。たびたび妻の指導霊として、私の家にこられることがある」
いもしない「如来」が、どうやってくるでしょうか。本当に来たというのであれば、そ
れは「妄想」でしょうし、来ていないのを「来た」と書くなら、それは「ウソ」「でっち
あげ」としか言えないと思います。
この限りなく創作としか思えない路線から推察すると、信次の『人間釈迦1〜4』も、
本気では読めなくなります。作品そのものが、信次が調べた資料の知識と「根拠なき思い
つき」のごたまぜ物語としかいえないはずです。「実在した釈迦の魂の記憶の物語」など
ではまったくない、といわざるを得ないのでないでしょうか。
ところで、「神理編」に、信次の本の執筆法に関して、謎の1行があります。
「守護霊ガラン」が「マイトレーヤ時代の記憶」を語っているくだりで、こういうのがあ
るのです。
「神理編」P74
「ガランさんは・・・意識をひもといて、当時の模様を昨日のように語るのであった」
「妻の守護霊は、私の筆を支配して流れるように筆を運ばせる」
すると、これは「信次の肉体に、妻の守護霊がかかって、自動書記で書かせている」と
いうことになります。では、「意識をひもとく」ガランさんが、ガランさん本人であるこ
とを、いったいだれが証明できるのでしょう? 信次に筆をとらせ、マイトレーヤ時代を
書かせている「意識」が、妻・一栄の守護霊なのを、客観的に確認するすべはあるのでし
ょうか。
これまでは、信次の記憶やテープやビデオでの録音、口述筆記の整理などの形で、書い
ていたはずなのに、なぜかいきなり「実は守護霊がかりの自動書記」となっています。
そうすると、「他人の過去世の記憶」は、「神理編」に関するかぎりは、みな「守護霊
が信次の体を借りて自動書記したもの」ということになります。今までの、あまたの守護
霊や指導霊・過去世記憶の数々のまちがいや矛盾も、すべて発言者(かかった霊)の責任
に帰することにもなってしまいます。
すなわち、著作のまちがいのすべては、信次や信次の周囲の人間のせいではなく、守護
霊・指導霊・潜在意識そのものが、まちがっていることになります。かかる霊がデタラメ
をいったのでしょうか。そうならば、信次もその周囲の人間は、だまされて間違えたわけ
です。
いずれにせよ、信次たちの「霊がかり」も「過去世記憶」も、まったく信頼性にかけた
ものでしかないことだけは、証明されてしまいます。
もちろん、「現証編」では、この「信次にかかった妻の霊による自動書記現象」はまっ
た書かれていません。
これら一連の破綻した記述から生まれるのは、またも「創作疑惑」です。妻・一栄に「
守護霊ミロク」が出たという現象に関するエピソードが、全部、信次のつくり話という推
定です。実際には、妻のあずかり知らない所で、でっちあげられた話ではないのでしょう
か。
このような破綻した記述を、平気で書いたりできる信次は、ウソをつくことに良心の痛
みを感じない人種と、断ずるほかはないと思います。そう考えなければ、なぜこれほどま
での「矛盾と誤りと思いつき」を書き続けられるのか、理解できません。信次は、精神に
異常をきたしていたでも思わなければ、説明がつかなくなります。
妻の守護霊ミロクを創作する信次が、晩年、娘を「大天使ミカエル」にしたて、自分を
も「天上界・太陽系霊団の最高指導霊・エルランティー」とかたることは、もうこの19
68年10月23日の時点で、道がしかれていたのかもしれません。
☆いいかげんな「本体・分身・転生周期」説
それでは、ここで「科学編」からも、おかしな点があることを指摘しておきましょう。
まず「本体と五人の分身」という「転生の法則」を説明するくだりです。「キリスト」と
「釈迦」、それぞれの魂につき、本体と分身の転生順に、名前と生まれた年代と場所がリ
スト化されています。
「科学編」P194-196
*イエスキリストの生命。
「本体」 イエス・キリスト 紀元前32年 イスラエル
「分身」
(1)クラリオ BC4000年ごろ エジプト
(2)マグガリス AD200年ごろ イスラエル
(3)フォワイ・シン・フォワイ・シンフォ AD400年ごろ 中国
(4)バロイン AD1500年ごろ イギリス
(5)マグネチオ BC2000年ごろ エジプト
*釈迦牟尼仏(ゴーダマ・シッタルダー)の生命。
「本体がゴーダマ・シッタルダーで、分身は不空三蔵、天台智ギ、伝教(最澄)、空教、
木戸孝允」
信次は生前、「本体と分身は、あたかも核の周りをまわる電子のように、輪廻転生には
一定の周期がある」「本体と分身は、てのひらと五本の指の関係」と説明しています。
後者については、すでに信次と一栄、両者の守護霊の件で、破綻していることが証明さ
れています。
では「イエスの生命」「釈迦の生命」に、一定の法則にもとづく「周期」があるかどう
かたしかめましょう。簡単な算数の問題です。
「イエスの生命」(古い順 ※は転生の間隔期間)
クラリオ6000年前--※1--マグネチオ4000年前--※2--イエス本体2032年前
--※3--マグガリス1800年前--※4--フワイ1600年前--※5--バロイン500年
前。
<転生間隔>
※1=2000年間 ※2=2032年間 ※3=約200年間 ※4=200年間
※5= 1100年間
●周期比率「20:20:2:2:11」
「釈迦の生命」( )内は生年
ゴーダマ・シッタルダ(BC658年)--※1--天台智ギ(AD538)--※2--
不空三蔵(AD705)--※3--伝教(最澄AD767年)--※4--空教(不明)--※5-
-
木戸孝允(桂小五郎AD1833)--※6--高橋信次(AD1928)
<転生間隔>
※1=1196年間 ※2=167年間 ※3=62年間 ※4=不明(仮に中間をとる
と)
500年間 ※5=500年間 ※6=95年間
●周期比率「12:1.7:0.6:50:50:10」
「科学編」では「現在、マグネチオがフィリピンに転生している」と書いてあります。
心霊手術で有名になった「トニーAntonio Tony Agpaoa」です。後年、インチキではない
かと騒がれました。彼の生年は「1932〜1982」です。
すると、マグネチオ自身の転生周期は約4000年間となり、バロインとの間隔は「約
530年」となります。
最終的にイエスの本体分身周期比率は●「20:20:2:2:11:5」ということです。
これらの間隔を「周期」と果たして呼べるのでしょうか。原子核のまわりの電子周期や
太陽をまわる惑星周期と同じだと、信次は「転生の法則」を説明していますが、そのよう
な整然たる比率配合は形成されていません。「マグネチオ=トニー」にいたっては、「転
生の順番」すら無視されています。
さらには、釈迦の分身については、史実にも登場する具体的人物名が並びます。6人の
うち5人です。ところが、キリストの分身に関しては、「トニー」「キリスト」を除けば
、史実に名前がなく、本当にいたかどうかわからない人物ばかりです。この差はいったい
なんなのでしょうか。
数字だけみても、「転生に規則性あり」とする信次の説は、自身の著作の内容を検討す
るかぎり、まったく証明されていないのです。おまけに釈迦の分身「空教」とキリストの
分身「マグネチオ」は、両人とも「科学編」に登場するのみで、「神理編」にも「現証編
」にも、記載がありません。最初からいない人間たちをでっちあげて、それから忘れてし
まったとしか思えません。明治の元勲・木戸についても同様です。
つまり、信次の「魂の周期的転生説」もでたらめならば、その「証拠」としてあげた「
実在、あるいは実在していたと主張する歴史的人物・無名人物」の存在自体もつくりごと
のようです。信次が、自説の「神理」の都合にあわせ、ほしいままに選択、捏造したと見
るほかはありません。
この錯雑たる転生例を見ていて、はたと思ったことがあります。なぜ「釈迦の生まれ変
わり」を自称した信次の娘の佳子が、「ミカエルの生まれ変わり」を演じねばならなかっ
たかです。
順当にゆくなら「イエス本体の生まれ変わり=佳子」で十分だったはずです。ところが
、「トニー」がいたので、それができなかったのでしょう。本当は、佳子を「イエスの転
生人格」にあてがいたかったのですが、「イエスの分身=トニー」が現世にいたので、さ
すがに「本体と分身が同時に転生してきた」とはいえなかった…。それでやむなく「ミカ
エル」の方に、選択枝を変えたのかもしれません。
こうして、信次は妹や妻、同級生などを、次々に「偉大な転生の記憶の持ち主」として
紹介していきました。そして、芋づる式に、さらに外部に広がってゆきます。
「神理編」でも「現証編」でも、「1968年の9月ごろ」から、外部での「過去世の弟
子」の「異言・過去世意識」の顕現劇がはじまります。
転機は「大島屋」という八丁堀の店のおかみと、その家族に会うことで起こります。
おかみの名は「五十嵐松子」さん(「現証編」ではIさん)、その妹の名は夏栗夫人「
現証編」ではN・T子さん)、二人とも信次の説法をきき、指導を受けるうちに、初対面
からたった一時間で霊道を開き、信次や一栄や星洋子の「金色のオーラにつつまれた姿」
を霊視できるようになったとあります。
「神理編」P83-84では、松子さんは一時間で霊道が開き、それまで曲がらなかった足が、
信次が「光を入れる」ことで治ったとあります。
「神理編」P85では、夏栗夫人は1969年5月に、1世紀にエジプトに生まれたキリス
ト教徒のひとり、指導霊「フリティー」に目覚めたそうです。
ところが「現証編」P107では同一の事柄について、日付が「1967年5月」になって
います。「またか」という歎息しかでません。
この夏栗徳子というご夫人は、信次兄妹・夫妻にも増して、強力な「前世記憶のライン
ナップ」を1969年5月以来、指導霊「フリティー」の協力で次々と展開してゆきます
。ざっと見て、下記の時代と国家・人名にまたがるのです。
* BC1万年 アトランティス
* BC7000年 アトランティス(ファウリヤリー)
* 4000年前 南米 「神理編」P93
現在のペルー。このとき仕えた王の名が、リエント・アル・クラウド。夏栗のこの時代
の名は「センツェラー・アル・カントーラー」。当時の言葉で、「カンターレー=太陽」
「ハーレ=心」だそうである。●備考:参照
* BC不明 エジプト(フェリカ)
* BC600 インド(ワイヤリス・スタティー。釈迦の弟子)
* AD1世紀 エジプト(セテリヤ。12使徒ペテロの弟子)
* 1450年前 チベット(AD519年・夏栗の本体・タタクリ)
● 備考:「幸福の科学」の大川隆法が、みずからの魂の名を「エル・カンターレー」と
したのは、この「神理編」P93の記述から思いついたのでしょう。また、信次が晩年の講
演会で、「太陽系霊団が最初にUFOで地球に降り立った土地は『エル・カンタラ』」と
語ったことからも、引用してきたものと思われます。
なぜか「現証編」では、上記の経歴が、本文にまったくといっていい程のっていません
。巻末資料に、N・T子の輪廻転生の証明として、「釈迦時代」「ペテロの弟子時代」「
タタクリ時代」「15世紀ベトナム女性」の記憶が、異言とともに記載されているだけで
す。
問題は、この「タタクリ」の「神理編」における「自己紹介発言」です。これによって
、夏栗夫人の過去世記憶のすべてに「信憑性」がおけなくなるのです。
「神理編」P96で、夏栗夫人の過去世チベット人男性の意識「タタクリ」は、「発音の正
しい流暢なチベット語」でこう語ります。
「私は、今から1450年前、チベットの貧農に生まれた夏栗徳子の本体タタクリでござ
います。子供の頃から仏教に興味を持ち、ヒマラヤで肉体行をしたラマ僧でございます」
毎度のことながら、信次は何を証拠に、「発音の正しい流暢な」と断じたのでしょうか
。説明は一片もありません。
それはさておき、この発言があった1969年から1450年をさかのぼると、西暦5
19年にタタクリは生まれたことになります。ところが、「現証編」P316には、こうあ
る
ので、まためまいがしてきます。
「5世紀にチベットにおいて男性として肉体を持ち、名前をタタクリと申し」
519年は「6世紀」のはずです。もうすでにお気づきになられた方もいらっしゃると
思いますが、信次は「世紀」の数え方を、よくまちがえています。
つまり「500年代=5世紀」というまちがった数え方です。先にもあげた日蓮や空海
の生年をはじめ、同様のまちがいを、繰り返し書いています。「世紀」の数え方も知らな
い人間に「神理」「法則」など語れるのでしょうか?
それでは、タタクリが「519年」に生まれたとして、それから「ラマ僧」になったと
いう記述の真偽を確認しましょう。タタクリの寿命が、長くて100歳くらいだったと仮
定すると、西暦620年ごろには、確実に「ラマ僧」として亡くなったのだと推定できま
す。
ところが、このタタクリの「ラマ僧だった」発言は、下記の史実から「まったくのウソ
」なのが判明してしまうのです。これは信次がいう「霊道」「現証」、守護霊や分身など
の「過去世記憶」の信頼性を、木っ端微塵にするほどの決定的な一撃です。
以下はラマ教に関する書物や、関連方面のホームページなどでも、すぐに確認できる「
史実」です。そのことを強調しておきます。
チベット(吐蕃)に、『ラマ教(チベット仏教のニンマ派)』を創始したのは、インド
の僧『パドマ=サンバヴァ』で、それは紀元770年頃のことです。タタクリが存命した
と思われる510年から600年ごろには『ラマ教』は存在しませんでした。
したがって『ラマ僧』も、当時、この地上には一人もいません。タタクリが西暦500
〜600年代に『ラマ僧』だったというのは、ありえない話なのです。
さらに、この「タタクリ」は、ご丁寧に中国にいって天台智ギの教えを学び、当時、遣
隋使できていた「小野妹子」に心服し、日本に渡って帰化したとあります。(「神理編」
P96-97)
小野妹子が、隋におもむいたのは、史実では西暦607年のこと。本当に妹子と出会っ
たのなら、タタクリは88歳の高齢者で、危険な日本への渡航を決意した事になります。
これまた、真実味のない話です。
このあとも、「神理編」では、タタクリは8世紀中国に「トワンテン・フォワンテン」
という名前で転生。このときも、やはり天台山で密教を学び、当時、伝教大師最澄が、日
本から留学してきたので、やはり彼についてゆき、日本の比叡山で法華経の講義をしたの
だとあります。「タタクリ---妹子の出会い」と、あまりにも同様のパターンすぎます。
信者をなめているとしか思えません。しかも、最澄については、すでに「大黒天」の件で
、信憑性ゼロが証明されていますので、目も当てられません。
このように「夏栗夫人」の「過去世」がでたらめであることが、証明されてしまいまし
た。他の人の「転生記憶」も、事実ではないあてずっぽうの「思いつき」に過ぎないこと
が大半でしょう。まったく、あきれるより他にすべがありません。
「GLA高橋信次の著書(『心の発見』など)は虚偽とまちがいだらけ4」に続きます。
<関連掲示板>
宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧(15年6/13版)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/358.html
宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧2(15年7/1版)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/530.html
GLA(高橋信次と高橋佳子)の異言等に関する『文芸春秋』特集記事(1977年)
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/228.html
GLA・高橋信次関連〜「異言」に関するアメリカ・カナダの専門学者の研究資料
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/233.html
GLA(高橋信次・高橋佳子)の「異言」は「演技性の伝染心理現象」の可能性有。
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/247.html
GLA(パナウェーブ成立に影響あった教団)高橋信次の著作を疑う
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/532.html
GLA高橋信次の著書『心の発見・現証編』にみる異言の虚妄
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/533.html