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(回答先: 小山常美著「日本国憲法無効論」(草思社、平成十四年十一月)を読む。 [週刊日本新聞] 投稿者 乃 日時 2003 年 7 月 06 日 00:42:37)
○中山会長 石毛えい子君。
○石毛委員 民主党の石毛えい子でございます。
本日は、大変お忙しいところをおいでいただきまして、ありがとうございま
した。
きょう、古関先生から、日本国憲法制定の経緯をめぐって、押しつけをどう
見るかということを中心にお話を伺わせていただきました。
御著書を読ませていただきまして、またきょうのお話も伺わせていただきま
して、一九五四年に自由党憲法調査会が設置されて、そこで松本烝治委員長が
憲法制定過程での体験を証言されたということから、恐らく押しつけというと
らえ方が一般化したといいますか、社会的になってきた。そして、もし当時の
松本国務相が押しつけと言うその事態をとらえたとすれば、それは一九四六年
の二月から三月四日にかけてという七年間の、もっとあるかもしれませんが、
タイムラグがあるということです。
まず、前半の、四六年三月四日の、押しつけと松本国務相自体が言いたいと
思ったそのことに関しまして、古関先生は、GHQの人権指令などを御紹介く
ださりながら、人権規定がない松本案に落胆というふうに御紹介くださいまし
た。
私も、後の質問で触れさせていただきますが、女性の人権等々をとらえます
とそういうふうに思うわけでございますけれども、もう少しこのあたりで確認
のための質問をさせていただきたいと思います。
毎日新聞がスクープをいたしました松本案、先生の御著書で紹介されており
ますけれども、整理されて紹介されている部分につきましては、主に天皇の位
置に関する部分が紹介されておりまして、人権の部分は、確かに二十八条のと
ころで、「信教ノ自由ヲ有ス 公安ヲ保持スル為必要ナル制限ハ法律ノ定ムル
所ニ依ル」ということで、他の法律に付託されているというようなつくり方に
なっております。
松本案につきまして、先ほど人権規定がないというふうに一点御紹介くださ
いましたけれども、もう少し総論としてといいましょうか、総体として、松本
案が持っていた問題点、論点というようなところを御指摘いただければと思い
ます。
○古関参考人 さっと答えるのは難しいのですけれども、それでは、今先生の
方が引用くださった、明治憲法の二十八条になりますか、信教の自由の部分で
すね。
明治憲法は、信教の自由を保障しつつ、限定を二つつけていたわけですね。
一つは臣民の義務に背かない、それから安寧秩序を妨げない、こうなっていた
と思うのです。つまりそれは、神聖不可侵な天皇家の宗教である神道に背くこ
とは臣民たるの義務に背くわけですから、それに背かないという限定を明治憲
法はつけております。
それについて、松本案はそこは削ったわけです。
それはどういうことかといいますと、そこの部分はやはり削ろう、しかしな
がら、安寧秩序部分は残したわけで、そういった意味では限定的なわけです。
つまり、法律の留保と一言で言いますけれども、表現の自由についても法律の
範囲内で保障をしているわけです。
しかしながら、先ほどの人権指令の関係等々で申せば、法律の留保を憲法上
認めていることによって治安維持法等々の法律はつくられてきたわけですね。
そういった意味で、法律の留保のある人権規定は、結果的には、また再び明治
憲法下の人権状況になると、GHQの側は、特にケーディスなんかは判断した。
ケーディスのようにアメリカで法学教育を受けた人間から見れば、特にアメ
リカの人権観はそうですが、人権というものは国家以前の権利である、前国家
的というか、国家ができる前の、国家によって与えられるものではない、人間
としてこの世に生まれてくれば、生まれながらの生来の権利としてあるものだ
というのがかのアメリカの独立宣言的な考え方ですから、そこから見ると、法
律で留保するということはおかしいではないかという考えになっていくわけで
す。
しかし、松本さんはそうではなくて、やはり明治憲法が大前提にありますか
ら、やはり国家によって与えられるものという観念になります。
ひとまずそういうお答えでいいでしょうか。
○石毛委員 日本国憲法制定の経緯を見る、先生が最後にお使いになっていら
っしゃる表現でもありますけれども、視座というときに、当然、国家としての
アメリカないしは極東委員会を構成するそれぞれの国々と、占領下で国家とし
ての主権があったかどうかということはおいておきまして、日本としての関係、
それから、それぞれの国に住み、さまざまな活動をされておられる、いろいろ
な考え方、運動、動き、そういう相対の関係でこの日本国の新憲法が誕生した
という、背景の相互関係もあったのだろうというふうに私は思います。
事実、先生のこの御著作でも、例えば高野岩三郎さんが大変民主的な中身の
憲法を考えておられたとか、それから個別の課題に関しまして、例えば教育を
めぐって、児童ではなくて子女にするとか、初等教育を普通教育にするとか、
さまざまな動きがあった。その相互関係のある結節点で、そのとりわけ大きな
結節点というのはGHQと日本政府との関係だと思いますけれども、そのバッ
クグラウンドにはさまざまな関係があったんだというふうに思います。
そこで、私は、松本案をどうしても受け入れることができないというのは、
GHQが人権指令を出していたというそちらの動きと、それから、日本の国内
にもさまざまな民主的な考え方や動きが出てきていて、その相関関係の中でG
HQの案をきちっと政府案として展開しながら整序していく、こういう関係が
あったんだと思います。
憲法制定過程を見る視座としまして、押しつけがあったのかなかったのかと
いう局所の部分部分を見るだけではなくて、相対の関係から判断していくこと
が必要なのではないか。ちょっと抽象的な表現になりますけれども、GHQは
日本国内のさまざまな動きも見ていたのではないかというようなことを直観的
に思った部分もありますから、そういう質問をさせていただきたいと思います
が、いかがでしょうか。
○古関参考人 おっしゃるとおり、日本の国内のことはよく調べていますね。
大体アメリカというのは、そういう世論調査とかいろいろなことが好きですね。
占領下で検閲が行われていたということはよく知られていることであります。
検閲をされた私たちから見れば、決していい気持ちではございません。したが
って、否定面が非常に強いのです。日本国憲法は二十一条二項で検閲を禁止し
ておりますから、私もそれはいいことだと思っておりますけれども、皮肉っぽ
く言えば、そういう検閲はしてはならないという憲法案をつくりながら、GH
Qは検閲をしていたわけです。
その否定面だけが言われますが、今の御質問との関係でいえば、実はGHQ
は、検閲をしながら、それを結構世論調査に使っています。例えば手紙は全部
当時見られていたわけですが、それで細かくリストをつくって、最近マッカー
サーは評判悪いとか、全部つくっていた。そういう意味では、非常に世論をよ
く見ています。
これは既によく知られたことだと思いますけれども、憲法研究会という学者
を中心とした知識人の組織が、かなり早い段階で案をつくります。それを全部、
わざわざ英訳して持っていったのですね。それが残っているのです。
だけれども、自分たちで別の英訳をつくっています。そして、一条一条全部
コメントをラウエルはつけております。
ただ、そこで、ちょっとお答えをしておきたいのですが、私などが思います
ことは、そういうふうに非常にそれを研究して、いざGHQ案をつくるときに
それも使っていますね。非常によく日本人の動向を見ております。
それから、せっかくの機会ですから、余り言われていないのではっきり申し
上げておきますと、GHQ案を、確かにああいう形で日本の政府に押しつけと
言われるようなことをしていますが、当時の日本のオピニオンリーダーといい
ますか、そういう方たちに実はそっと見せていますね。
既に私の本でもちょっと紹介した方で言えば、例えば労働法学者で東大教授
の当時法制審委員をしていた末弘厳太郎氏、彼に見せていますね。それから宮
沢俊義氏、東大の憲法の教授ですが、これも事前に見せています。僕も、いろ
いろなところに行って調べて、コピーをとると何か安心して、中を見ていない
ということが最近わかったのです。最近というか、しょっちゅう反省していま
すが、手書きだったので、僕も英語なんてよく読めませんからぶん投げておい
たのですが、改めてよく見たら、何と南原繁氏にも見せています。当時、東大
総長ですね。そういう方々に事前に見せて、これでいくけれども、どうかとや
っているわけですね。南原さんは、天皇条項については、これは日本にはうま
くいかないという言い方をしています。しかしながら、ほかの面では非常に歓
迎しています。
かなりいろいろな人に事前に見せていて、その点について私たちはまだきち
っと全部研究していませんからわかりませんけれども、やはり世論を形成する
人というのですか、オピニオンリーダーというのですか、そういった人たちに
は事前に見せていて、政府には押しつけるというかなり強い形になったわけで
すね。
もう一点だけ済みません、時間がないのに。もう一点だけ申し上げておきま
すと、例えば憲法研究会案を大変高く評価しているにもかかわらず、GHQは
憲法研究会の人と接触をしていないですね。この意味を僕はずっと考えたんで
すが、結論は簡単だと思いました。
間接統治なわけですから、日本政府を通じてやるわけですから、直接的にマ
ッカーサーが、おまえのところの憲法はなかなかいいぞ、政府案よりいいなん
ということを言ったら、間接統治じゃなくなってしまうわけですね。だから、
日本政府をできるだけ自分の方に近づけようと必死にする。その必死にする過
程で押しつけであるとか強引だとかということは出てくるんだと思いますけれ
ども、それは逆の言い方をすれば、野党に、あるいは反政府的な人にイニシア
チブを与えさせないという点にもなっているわけですね。
その辺をやはり両方見た上であの押しつけが何であったのかと考えることが、
私は思慮深い判断だと思いますけれども、いかがでしょうか。
○石毛委員 残された時間がほんの数分しかございませんので、ぜひこの質問
の機会に、女性の人権という点について触れさせていただきたいと思います。
私は、日本国憲法に男女平等を書いた女性の自伝「一九四五年のクリスマス」
という文章の中で、いろいろと考えさせられ、思いを深くする本だと思います
が、松本案に関連しまして、その中に女性、母親、家庭、児童という言葉は全
く発見できなかったと書かれております。そして、このベアテ・シロタ・ゴー
ドンさんは、女性の仕事を持つ権利ですとか、母性保護の問題ですとか、非嫡
出子に対する差別の禁止、今私たち女性が大いに課題としているような点を、
既に四五年の時点で非常に綿密に書いておられます。
それから、憲法制定議会でも、加藤シヅエ議員が、寡婦の生活権というよう
な、さまざまな女性の人権、権利について大きな内容と広さの展開をされてお
ります。
ところが、制定された憲法では、性別による差別の禁止、それから両性の平
等というのはありますけれども、具体的な展開はちょっと落ちている。このあ
たりのいきさつについて、お考えになられているところがございましたら承り
まして、質問を終わりたいと思います。
○古関参考人 私のお話で時間をとってしまいまして、申しわけございません。
今のことで申しますと、ベアテ・シロタさんというのは、GHQの中で人権
条項をつくった三人のうちの一人で、当時二十一、二歳の若い女性であります。
一つは、彼女は日本の女性の人権状況を何によって知ったのかということで
すが、多分その御本の中にも、いろいろなところに最近お書きですが、彼女は
小さいころ、お父様が東京芸大の教授であったということもあって、日本にい
らっしゃいます。お手伝いさんがいらっしゃいまして、女性なんですが、その
方を通じて日本の女性の置かれている大変低い地位というものを知るわけです
ね。
そして、本国で、アメリカで大学教育を受けます。大学教育を受けて雑誌社
に勤めますが、当時のアメリカでは、雑誌社に勤めても、そこでも女性はリサ
ーチャーというか下働きで、いろいろ調査をして調べてきても、実際それを書
くのはみんな男の名前になるということで、彼女は、そういう若い情熱を傾け
て、この機会にこそ女性の人権を細かく書きたいというふうに思って素案をつ
くったということですね。
ところが、素案がイコールGHQ案になったわけではなく、その後で、先ほ
どのケーディス、それからラウエル、ハッシーというこの三人が運営委員会を
構成して、この三人の許可がなければだめなわけですね。最終的にはホイット
ニーが、民政局長がうんと言わなきゃだめだ。一番若かったのがハッシーでし
ょうけれども、とにかく四十代、五十代の男性たちが、こんな細かいのはもう
いいよということで切っちゃうわけですね。たしか、その本に彼女は、泣いた
というふうに書いてあると思います。
そんなGHQ案の裏側はちっとも知らずに、GHQ案をかなり参考にした政
府案が出てきますが、それは、先ほど先生のおっしゃられたように、非常に抽
象的なものになっております。
そこで、加藤シヅエさんが、加藤勘十の奥さんだということもありますが、
戦前から労働運動をされたり、あるいは産児制限運動などにかかわってきたと
いう自分の経験から、特に働く女性とか、あるいは当時、寡婦の人権という言
い方をしておったと思いますけれども、そういうことを強く主張されるわけで
す。
当時の男性たちは、ここの衆議院でも、加藤さんの所属政党である社会党で
も、鈴木義男さんなんかは、いや、そんなのは要らないと言って切ってしまう
わけです。
ただ、その結果、先ほどの二十五条一項の生存権規定が保守党との妥協の産
物として生まれたということも、一方では考えなければいけないと思います。
確かにそれは、そういった方々から見れば、歴史に生かされていない教訓とい
いますか、これから生かしたい教訓なのだろうとは思います。
○石毛委員 現代から見ますと、まだ人権の問題では、例えば障害を持つ方の
人権の問題ですとか、昨今大変大きな問題になっております子供の人権等々、
議論しなければならない課題というのはたくさんあると思います。そういう意
味では、それぞれ関係する法律の中で人権がどういうふうに位置づけられてい
るかという審議とともに、憲法の人権条項についても大いなる議論を尽くして
いく必要があると私は考えているということを申し上げさせていただきまして、
質問を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
○中山会長 倉田栄喜君。
○倉田委員 公明党の倉田でございます。
古関先生、きょうは大変ありがとうございます。
私は、お話を聞きながら、二つのことを思いました。
一つは、こうして憲法調査会で我が国憲法の成立過程についてのお話を聞か
せていただいているわけでありますけれども、私どもは、この成立過程の中か
ら何を学ばなければならないのかということについて、できるだけ共通の認識
を得られるように努力しなければならないということ。
そしてもう一つは、私は、この制定過程の検証とともに、憲法が成立をして
からおよそ半世紀、この半世紀の経過、戦後、現行憲法がどのような役割を果
たしたのかという検証も欠かしてはならないのではないのか、こう思っており
ます。
この二つの視点から、先ほどの先生のお話とともにお伺いをさせていただき
たいと思います。四項目七点ぐらいになると思いますので、全部お聞きできる
ようにお願いをできればと思います。
まず、制定過程から何を学ぶべきかということについて、一つは、先生のレ
ジュメの中にありました押しつけ論と戦後観の相関について何を学ぶべきかと
いうことでございますが、最後の方に「明治憲法体制との関連で見る視点」等
々、三つの視点がございます。この視点は、なるほど、そのとおりだと思いな
がら聞いたわけでありますけれども、これらの視点から何をどう学ぶかという
ことについて、先生の御意見があればお伺いしたいということが一つ。
それから、押しつけという、私はこれはいわゆる政治的論だとも思いますけ
れども、この論と、一方で次第に人々に定着し、進歩をしてきたという論、こ
れをどう考えるか。
まず、この二点について、先生からお伺いできればと思います。
○古関参考人 憲法制定から五十年以上たった時点で、私たちは憲法の制定過
程をどう見るのかということを問われているということは確かだと思います。
そこから何を現在の時点で学ぶのかということですけれども、大変大きな御
質問で、とても御質問のお答えにはならないのではないかと思いますが、私が
若者と接しながら、そういうことが職業なので多いわけですけれども、やはり
改めて思うことは、国際社会の中で主権国家がこれからどういう生き方をする
のかということを検証していくことが、今の時代に問われているのだろうとい
うふうに思います。
そのことは、最初の中川先生の御質問にもありましたように、国家というも
のがと、日本は当時国家であったのかとかということをおっしゃられましたが、
そのことは言い方をかえれば、私は、自分の民族であるとかそういったものに
対する誇りを失うことなく、しかし、それが自国のことのみに専念して他国を
無視するということにもならず、他文化を尊重し他国を尊重する、そういう関
係の中でどう生きていくのかということを私たちは学ぶ必要があるだろうと思
います。
確かに、私たちが占領を受けたということはある意味では不幸だと言っても
いいと思います。しかし、戦後を考えてみるときに、他民族の考え方を知ると
いうことなしに戦後は生きられなかった、この五十年間を考えると。それはも
うはっきりしていることですから、ある意味では、占領というのはその最大の
一つのきっかけだったわけですね。ついこの間まで米英鬼畜と言っていた人た
ちと、それこそ道路でも会わなければいけない。警察官も両方がやっていたわ
けですから、やらなければいけない。カムカム英語なんといって、英会話の本
が物すごく売れるという時代でございます。
そして、その後、こう言ってよろしいと思うんですが、日本は、アメリカな
しには日本の政治はあり得ないということですね。反対する人も賛成する人も
いろいろいらっしゃると思いますが、アメリカなしにはあり得なくなってしま
ったわけです。その出発点は占領にあったわけですね。いいか悪いかはともか
くとして、冷厳なる事実であります。
そういう意味で、占領下でアメリカとどういうつき合いとか、どういう関係
性をつくってきたのかという検証をすることは、同時に、戦後の検証をするこ
とにもなるのではないかというふうに思います。
そして、それが定着してきた、進歩してきたということをどう見るかという
ことです。
時間も限られていますが、僕は、あえて私だけの体験で言うとすれば、残念
ながらと申し上げてもいいのかもしれませんが、戦後というものは日本国憲法
を学ぶ過程であったという日本人が大変多いのではないかと思うんです。自治
体とかいろいろなところに呼ばれますけれども、私と同じくらいの世代、ある
いはその上の世代は、憲法に人権を発見してきたわけであります。そういう人
はかなり多いです。そのことは、ある意味では残念なことだと思います。
言うまでもなく、人権というものは、みずからの生き方に合わせてつくって
いくものである、それを自分たちみずからがつくる、あるいは代議員にそれを
つくってくれと要求していくものだと私は思います、基本的に。だけれども、
残念ながら私たちは、日本国憲法という、何か上の方にあるありがたいものか
らいただいてきた、学んできたと思います。
こういう言い方をすることは、おまえは日本人としてけしからぬとおっしゃ
られる方もいらっしゃろうかと思いますが、しかし、私たちはそこから戦後を
出発したと判断していいと私は思います。そういう中で人権意識というものを
獲得したり、あるいは人権の尊重される社会を目指してきた、それが私たちの
戦後の五十年であった、そこに日本国憲法があったと言い得るのではないかと
思っております。
以上でございます。
○倉田委員 なかなかお答えいただくのは大変だなと思いながら、残された時
間の中で少しお聞きをいたしますけれども、先生の「憲法制定過程へのこだわ
り」という論文の中で読ませていただいたのですが、「日本の政治文化、法文
化の底に流れる天皇制の強さと深さ」ということを言っておられます。これは
どういうことを言っておられるのかということが一つ。
それからもう一つ、これは新聞の記事だったと思うんですが、憲法の戦争放
棄条項というのは天皇の戦争責任免罪と沖縄の要塞化がねらいとの御主張があ
ります。この先生の御主張は、制定過程検証の結論なのか、あるいは憲法が戦
後制定をされて半世紀たった、その戦後体制そのものの検証による結論なのか。
時間がないものですから、あわせてもう一点。
戦後における現行憲法の役割等々のことについては今先生のお話の中で少し
お触れいただいたと思いますので、そのことをまた勉強させていただきながら、
最後に、これも今先生がどうお考えになっているかわかりませんけれども、前
の話の中で、「現憲法に改正すべき点があっても、いま改正する必然性はどこ
にもない」というふうな御主張もあったように思います。これは、ある意味で
は論憲という立場に通じるのかなと思いますけれども、しかし、その論憲した
後はどうなるの、こういう問題にもつながっていくと思いますので、残された
時間の中で三つ、大変申しわけありませんが簡潔にお答えいただければと思い
ます。
○古関参考人 大変大きな御質問で、三十七分までということでございますが
……。
私は、戦争放棄条項というものは、やはり当時、マッカーサー三原則にも入
っているものであり、マッカーサーの考えたものだというふうに、私はその立
場をとっております。しかし、それは単なる理想ということではなく、マッカ
ーサーの極めて現実的な政治判断というものが含まれているというふうに最近
思っております。
実は、先ほど来先生方がおっしゃられる私の本は、一九八九年、平成元年に
書いた本でございます。もう十年も前で、その段階では、実はそう考えており
ませんでした、正確に申しますと。その後、いろいろな資料を読む中で、だん
だんいろいろなことがわかってきて、先ほど御紹介いただいたような結論に今
のところなっております。また変わるのかもしれませんが。そう考える以外に
ないのではないかというのが私の現時点での結論でございます。
それで、そういうふうにいろいろ調べてみますと、私は、ある意味では戦後
教育を受けてきた人間ですから、象徴天皇制という選択が日本国憲法の背骨を
流れる、それほど重いものだと思っていなかったのですが、日本国憲法ができ
てくる過程では、その背骨を流れる極めて重い位置を持ったものだということ
を改めて知ったという感じでおります。その政策決定に当たって、マッカーサ
ーから見れば、あるいは日本政府にとっても、当時の幣原内閣にとっても、物
すごく重い意味を持っていたということを私は改めて思い知らされたという感
じがいたします。
それから、先生が引用されたもの、ちょっと正確に記憶がなくて申しわけな
いのですが、決して無責任なことを書いているわけではございませんが、文春
でしたか、今改正する必要がない、たしか私はそういうふうなことを言ってお
ると思います。
ただ、きょうは、改正する必要があるのかないのかの前に、きょうのテーマ
が憲法制定の経緯であるというふうに伺っておりましたので、私はできるだけ、
先生方が御議論になるに際して資料といいますか、肥やしになるようなことを
お話しすればいいのだというふうに思ってここに参っておりますので、この辺
で御勘弁いただけたらと思いますが、よろしゅうございましょうか。
○倉田委員 最後の点は、「日本の論点」というところに見出しとしてついて
いたものですから、あるいは先生のそのままの御意見ではなかったのかも……
(古関参考人「いえ、私の意見です」と呼ぶ)そうですか。そういうことでお
聞きをしたわけであります。ありがとうございました。