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(回答先: 【田口ランディ】「映像が伝えないもの」 投稿者 愚民党 日時 2003 年 4 月 18 日 08:50:48)
私もランディのメルマガをとっておりますが、盗作作家として見るのではなく、ランディが何を言おうとしているのか、検証したく、また現代の「新世代」的な感覚で物をいうランディについて関心があったからです。
しかし、ランディのメルマガでの「エッセイ」風なものの書き方は、常に有名人をまず引き出し、それと対等にものをいう自分を押し出すだけで、それ自体私は拒否反応を覚えるのですが、よく「対談」なり、旅先での訪問者との「イデオロギー」的な内容に迫るものは皆無でした。思想そのものの本質に迫るものがないのです。これが従来のパターンです。
イデオロギーの周辺の話題について語ることさえなく、有名人病とでも思えるほどの、己の無内容さをさらけ出しているのが実情でしょう。そこには己の「新世代」的な感性を対置しているだけで、よりどころは「イエスでもないノーでもない」存在感の薄い観念論だと思います。
このメルマガは従来とは異なり、映像に反発するランディの居直りすら私は特に反発を覚えます。
今回は有名人もでておらず、他人のHPの紹介と感想を述べる形式をとっていますが、戦争そのものに対する直接的な言及はあえて避けて居ること。
戦争の悲惨さに対して非常に回りくどい反応をしたように書いていますが、実際は戦争についてひとつも述べられない哀れな文学者の姿しか見て取れません。
「わけがわからないが踏ん張る」私、「写真を見せてくれた人への怒り」を感じる私、「ゆがんでいる私」がアリ君をわが子に投影したときに、ようやく「私」は「怖さ」を覚えるのだ。
カンボジアの子らは「リアルに」触れることのできた対象だったから「拒絶感も嫌悪感も感じなかった」。
アリ君のすがたは「悲惨を訴える目的の写真を大量に見ることは、私の感受性を傷つける。写真にはとても大切な情報が抜け落ちている。−−−中略---そのことの本質的な意味、命の本質的な力を、写真はやはり伝えることは難しい。」
ランディが百万遍駄弁を弄しようとも、一枚の写真が何を語るか、その意味さえつかめないほど感性が麻痺している。怒りは通り越すというよりも、「母としての感性」だけが今の彼女の戦争観でしかない。
したがってランディにとっては、目の前で多くの人たちが殺戮されてゆく現実は、彼女にとってはまさしく対岸の火事でしかない。「両腕をなくした少年」イコール「モノ」という対象でしかない。戦争に無縁の地平の生活に没入し、著作にふける田口にとっては、アリ君の姿が邪魔でさえあるように映っているようです。
社会的現実を無視した観念の世界でものを書くことの限界がしっかりと見えて居ます。
ランディ独特の反応として捕らえてよいのでしょうが、それでもパトスのなさにはあきれる。「戦争反対」を間接的に述べているようにこのメルマガで意味付与しようとしているのだろう。むしろ目の前の「テレビ」の映像に対して拒否反応を示して居る。作家としての感受性は一片も見て取れないのは私一人だろうか。
最後に「なにもできないで日々生きる苦労をしている私」は文学者ではないただの人として免罪しているように見える。
彼女には有名人が出てこないと自分を押し出すことができないのだろう。
これが、現実の「無思想な有名人病文化人」の姿かも知れない。