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■■■田口ランディのコラムマガジン■■■ 2003.4.17
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「映像が伝えないもの」
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「イラク戦争が始まった直後からの写真映像です」
http://pws.prserv.net/umigame/
ある方のホームページを読んでいたらこのような記述があり、上記のサイトを知っ
た。
クリックしてみたら、そこには戦争で傷ついたイラクの方たちの写真が並べられて
いた。
最近、さまざまな戦争写真、特に戦禍で傷ついた人間を撮影した写真サイトをたく
さん紹介される。
写真を見て、私はどうするかというと、私は心のどこかで必死で踏ん張っていた。
戦争の悲惨な写真を見たときはいつもこの「踏ん張る」感じになる。ぐっと力を入れ
て、心を揺るがさないように踏みとどまる感じ。
いったい、私は、なにに踏ん張っているんだろう。
自分でもよくわからない。でも心情的には「踏ん張る」という感じが一番しっくり
くるのだ。非合理な暴力によって打ちのめされた人間の姿を見るとき、私はいつも、
身体のどこかにぐっと力を入れて踏ん張る。
どうやら私は、感受性が傷つかないように自分で自分をかばっているようだ。私の
感受性がこの写真によって痛めつけられないように、自分の弱い部分を露出しないよ
うに、ぐっと踏ん張る。この踏ん張りは、ちょっとしんどいのだ。なにか自分の感情
に無理をかけている。
この無理のある踏ん張りのために、私のなかにはいくつかの歪んだ感情が生じる。
たとえば、この写真、このような写真を私に見させようとした相手への理不尽な怒り。
もちろんこの怒りはとても微弱な感情なのだけれど、でも私のなかに小さく発火す
るのだった。まったく理不尽だ。この場合なら、この写真サイトを紹介していた人へ
の小さな怒りだ。逆恨みもはなはだしく理不尽である。そんなことは自分でもわかっ
ている。写真を見たのは私なのだ。私が私の意志で好きで見た。
それなのに、ポッと一瞬の怒りが走るのだ。私は見てしまったし、見てしまった私
はどこかで傷ついている。傷ついている自分を保護するために、私は怒るのだった。
怒りとは傷のバンドエイドのようなもので、心が傷ついたとき、私は怒りのバンドエ
イドを貼っておくことがよくある。
本当なら、その怒りは暴力を行使した人間、つまりアメリカ軍やブッシュ大統領に
向くべきなのだ。なのに、私はブッシュ大統領ではなく、この悲惨な戦争写真を紹介
した人に対して、とても微弱な怒りのようなものを感じている。そういう自分にがく
然とするのだった。
私は相当に歪んでいるなあと思う。それでも、歪んでいるのならなぜ歪んでいるの
かについて、私自身に問うしかない。
悲惨な戦争写真を見たときに、私のなかにはいくつかの感情が同時に起こる。
写真を見てみたい……という好奇心。見てしまったあと、見てしまったことへの罪
悪感。罪悪感と同時に、その写真で傷ついている自分へのとまどい。ある種の恐れ。
そして、その悲惨な出来事が自分に起こったことではないという安心感と、さらなる
大きな罪悪感。そのような罪悪感を私に与えた介在者への理不尽な怒り。
まず、こうした感情の渦が瞬時に起こる。
その感情の渦が平定するのを待って、さらに自分の内面へと踏み込んで行こうとす
るとき、私の中に沸き上がるのは猛烈な抵抗感だ。
私には子供がいる。その自分の子供と写真の中でケガをしている子供の姿がダブっ
てしまう。そのとき私は自分の子供が爆撃を受けてケガをしたら……という、ある妄
想にとらわれる。否応もなくとらわれる。妄想はリアリティをもって迫ってきて、私
はそのリアリティを受け入れがたい。怖いのだ。ものすごく怖い。子供のことを考え
ると怖くてたまらない。
それで、恐怖のために、もうそれ以上、写真の中のイラクの子供たちにシンクロす
ることを避けてしまう。避けようとする自己防衛の気持ちが働いて、写真に対してい
われなき嫌悪感を感じてしまうのだ。
私はなんて弱い人間なんだろうと思う。このようなことが自分の子供に起こったら……
という恐怖感のために、慈悲までたどり着けない。
そして、慈悲の気持ちをもてない自分をまた責めるのだった。責めたところでしょ
うがないのだが、戦争写真を見て慈悲の心よりも、拒絶感を感じてしまうような自分
に、また堪え難く、なんとかうわべだけでも取り繕おうとする。
そのため、ステレオタイプの社会通念を選択して、その「社会正義」に自分を寄り
添わせることで少しだけ安心するのだった。でも、その安心がうそっぱちであること
を私は知っている。自分で自分を騙すことはできない。
だから私は、悲惨な戦争の写真を見たいのに、見た後で後悔し、落ち込み、傷つく。
カンボジアの地雷原のある村に行ったとき、地雷で足を失った子供たちと出会った。
あのとき、子供たちは私の目の前にいて、私と同じように生きて呼吸していて、触る
ことができた。子供たちに起こったことはあまりにも不条理でひどいことだったけれ
ど、それでも子供たちは私と同じように笑ってもいた、遊んでもいた。
あのとき、私は拒絶感も嫌悪感も感じなかった。あのときはとても素直に一人の母
親になって子供たちといっしょにいることができた。リアルの力ってそういうことだ。
悲惨を訴える目的の写真を大量に見ることは、私の感受性を傷つける。写真にはと
ても大切な情報が抜け落ちている。人間は何があっても悲しいだけの存在ではない。
もっと強く、もっと多様なのだ。そのことの本質的な意味、命の本質的な力を、写真
はやはり伝えることは難しい。
テレビで、そして写真で、戦争の状況を知ることができるようになったいま、実は
その映像で私は毎日、ものすごく傷ついてる。気がつかなかったけれど、とてもとて
も傷ついている。写真もテレビ映像も誰かに編集されたもので、その編集したひとが、
社会正義にのっとって、悲惨を伝えようとすればするほど、悲惨だけが切り取られ、
その映像は潜在的な部分で私の感受性をめった切りしているのだ。
現実は、もっともっと人を傷つけるけれども、救済もする。人間存在は複雑で、と
てつもない力をもっている。悲惨であるという客観的な現実と、それでも生きようと
する主観的な現実が同時に存在している。なにがあっても生きようとしてしまう、人
間の力の、命の本質を写真は伝えることができない。
爆撃で両腕を失ったイラクの少年の映像を、今朝も見た。その後で、これを書いて
いる。私はあの映像を受け入れがたい。あの少年を受け入れられないのではなく、一
方的な情報と映像に傷ついてしまっている。
あの子は日本の私など知らない。私が一方的に毎日あの子をみているだけだ。私は
別世界からあの少年を見た。私は私の生きている範囲のなかで近所の子供たちと関わっ
ているけれど、その範囲を越えて、私のなかにあの少年が入ってくる。映像の力で。
それを映像の力と人は呼んでいる。
それは科学技術が成し遂げたことだけれど、私の古い感受性はその現実に着いてい
けない。世界はあまりにも広大で私のちっぽけな感受性が網羅するには無理がある。
私の感受性は世界に向かって引っ張られ押し広げられ、ぺらぺらになって引きつって
破れそうだ。
社会的な影響力、役目とは別の次元で、映像は個人の心に精神的な介入をしている。
現実での人間との交流では回復不可能なほどに、映像は私の感受性を引きちぎってい
る。流される悲惨な映像に、私はとても臆病になっている。ひどく苦しくなって、疲
れている。
いろんな人からメールが届く。「自分はなにもできない」「戦争は私たちみんなの
責任」「人間は地球を破壊する」「いま私たちに何ができるだろう」そんな言葉が綴
られている。
この日本に住んでいても、生きているのはたいへんだ。お金という価値に縛られた
国で、生きているだけでお金のかかるこの国で、生きていくのはたいへんだ。もっと
もっと優しい言葉をかけあえたらと思う。
みんな、自分の辛さを抱きしめて生きている。誰だって。どんなに裕福で幸福そう
に見えたって悩みはある。苦痛はある。そして人はいつか死ぬ。
今日一日、生きた。そのことを褒めてくれる人がいない。それは悲しいことだ。こ
の国で生きることのしんどさもある。私が体験しているのはまさにそのしんどさだ。
よくがんばったね。そう友達みんなに言いたい。今日も一日、よくがんばって生きた
よね。
私は私の生を生きている限り私の悩みで苦しむし、その苦しみを受け止めてもらえ
たときに、他者への慈悲が生まれてくる。殴られ続けたら、責められ続けたら、傷つ
いて心を閉ざしてしまうだろう。
抱きしめて伝わってくる生きた人間のぬくもりのなかから、見知らぬ誰かへの慈悲
は芽吹く。世界へのゲートは、触れることのできる命、私たちの「生死」のなかにあ
るはずだ。
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■現在に蘇った声の芸術
アルタイの英雄叙事詩「カイ」
ボロット・バイルシェフのコンサート
http://www.makigami.com/bolot/
たくさんの申し込み、お問い合わせありがとうございました。
久しぶりにアルタイで撮った写真を見直しましたが、私はやはり写真は下手だ。あ
たりまえだけど、川内倫子さんの写真は素晴しい。いつもさりげなくなにげなく撮影
しているのに、偶然を引き込んでしまう力が才能なんだろうなあ。
倫ちゃんのアルタイの写真、コンサートで紹介できるのがとても楽しみです。
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