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(回答先: 【米軍による文化財略奪の歴史】米軍は、沖縄でも略奪していた!! 投稿者 磯中源太郎 日時 2003 年 4 月 14 日 19:47:17)
琉球文化財:沖縄県が流出美術品探しを開始 FBIに捜査要請
(毎日新聞)
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200108/17/20010817k0000m040146000c.html
沖縄県は、56年前の沖縄戦で米軍などに持ち去られたとみられる琉球王朝の美術品105点のリストを初めて作成し、返還に向けて本格的な流出文化財探しに乗り出した。うち、琉球王の玉冠(ぎょくかん)など主な13点については、FBI(米連邦捜査局)に捜査を要請、FBIの盗難美術品ファイルに登録された。リストの文化財には玉冠のほか歴代王の肖像画などの国宝・重文級が多く含まれており、県文化課は「日米政府の協力を得て、一つでも多く文化財を探し出したい」と話している。 【野沢俊司】
沖縄戦で、米軍は沖縄本島上陸(45年4月)後、文化研究の資料として手当たり次第に文化財を本国に送った。米兵が個人的に持ち帰ったケースも多い。リストは、こうした流出文化財の実情や返還を米議会などに説明するため県文化課が昨秋から今春にかけて作成した。
主な13点については、今年4月にFBIに捜査を要請。7月にFBIから国際盗難美術品ファイルと、インターポール(国際刑事警察機構)の盗難美術品名簿に登録されたとの連絡が入った。
リストの文化財は、国王の皇子の住宅だった中城御殿(なかぐすくうどぅん)(現在の那覇市首里)に収められていたものが中心。米軍の上陸直前、御殿の管理を手伝っていた那覇市文化財審議委員の真栄平(まえひら)房敬さん(80)らが御殿敷地の洞穴などに隠したが、後で調べてみると、ほとんどが消えていた。
リストは隠した時の記憶を頼りに作成。文化財を装飾品や衣装、絵画、調度品に分け、名称や大きさ、素材、制作年などを記した。玉冠は18〜19世紀製で、高さ18・3センチ、冠幅20・7センチ。国王皮弁服(儀式用装束)一式や、国王の肖像画「御後絵(おごえ)」20点、「龍彫花簪」(純金製の国王のかんざし)などが含まれている。
“鉄の暴風”と呼ばれた激しい砲撃で破損した可能性もあるが、簪(かんざし)などがアメリカで見つかり、沖縄に返されたケースもある。県文化課は「多くが米軍によって戦利品として持ち去られた可能性が高い」とみている。
真栄平さんは「御殿敷地のどこに、どのように隠したか今でもよく覚えている。県も経済発展重視で文化面はいつも後回しだった。ようやく流出文化財のリストができ、取り戻したいとの気持ちが一層強くなった」と話している。
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●流出文化財の返還
沖縄から失われた美術品の返還作業は50年代から始まった。53年、米海軍高官が持ち帰っていた黄金簪(かんざし)など53点が返還されたのをはじめ、県が把握しているだけで約80点が返還された。今年4月にも、返還活動をしている琉米歴史研究会が4年かけて王朝時代の古地図の米国人所有者を割り出し、沖縄に里帰りさせた。
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高良倉吉・琉球大学法文学部教授(琉球史)の話 FBIの盗難美術品ファイルへの登録は、沖縄の文化回復にとって大きな前進となる一歩だ。琉球王朝の文化財は公式な目録がなく、全体像が分からないという非常に不幸な状態にある。明治期の廃藩置県に伴い、文化財は中城御殿と東京の王家住宅に分散されたが、中には困窮した王族が売却したため外国の博物館が所蔵する物もある。こうした経緯から、中城御殿には特に貴重な物が残っていたと考えられる。具体的には、儀式に使う道具や衣服などで琉球王朝文化の最高水準を示すものばかりだ。沖縄戦直後、県民は収容所に押し込められていたから、持ち去ったとすれば米軍関係者しかない。FBIの捜査で所在が確認されれば、文化財の調査はできる訳で、1点でも沖縄に返還されればさらに画期的だ。
[毎日新聞8月17日] ( 2001-08-17-03:01 )