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本書を読んで思い起こすのは、こういう笑い話である:夜道で落し物をした人が、電柱の灯りの下を探している。「そこに落としたんですか」と聞かれると、「いや、落としたのはあっちなんですが、ここが明るいので探してるんです」。
著者の議論は「辛口批評」とかで人気らしいが、自分でもいやになるといっているぐらい、同じ話の繰り返しである。有名なエコノミストを実名で罵倒するのが売り物だが、その根拠は、もっぱら「そういう話は経済学の教科書に出ていない」ということだ。まるで教科書の外に経済はないかのようである。私は著者と研究会で一緒になったことがあるが、彼の専門は経済学史である。「経済学史学会」などという学会があるのは、日本ぐらいのものだ。日本の大学の哲学科でやっているのは「哲学学」だといわれるが、日本で「経済学学」が栄えているのも、経済学ではオリジナルな仕事のできない(マル経崩れの)学者が多いからだろう。小説家になれなかった文学青年が文芸評論家になるようなものだ。経済学評論家にとっては教科書に合っているかどうかが重要なのだろうが、国民にとってはそんなことはどうでもよい。知らなければならないのは、経済学ではなく経済である。
「インフレ目標」を推奨し、「構造改革」を否定する議論が本書の大部分を占めているが、まあインフレ目標でデフレが克服できたとしよう。So what? それで日本経済の本質的な問題が解決するのだろうか?老朽化した製造業は、中国と競争できるようになるのか?流通機構や金融システムは効率的になるのか?著者は「インフレ目標では生産性は向上しない」と正直に認める。だとすれば向上させるにはどうすればいいかを論じるのが当然だろうが、そこで著者は「生産性が向上しても、デフレ・ギャップがあってはGDPは上がらない」と話をすり替える。これでは堂々めぐりである。問題が単にGDPを上げることなら、インフレ目標などという危険な手段よりも公共事業のほうが手っ取り早い。そんな目先の対策ではどうにもならないから、構造改革が論じられているのだ。たしかに「構造問題」というのは曖昧だし、人によって意味がまちまちだから、経済分析には乗りにくい。しかし、それは構造問題が重要でないことをいささかも意味しないのである。
著者の語り口は、研究者というよりも予備校の教師である。学説史なら、他人の議論を教科書に照らして○×をつけていればいいが、経済問題は大学入試とは違って、教科書に書いてあるような解きやすい問題だけを解いてもしょうがないのだ。「経済学の初歩も理解していない」というのが口癖だが、著者のように経済学の初歩しか理解していないのも困ったものである。「構造」という言葉がお気に召さないなら、「制度」といえばわかるだろうか。いま日本が直面しているのは、在来の経済学の枠を超えた「制度変化」であり、それを考える「制度の経済学」は、世界中で多くの経済学者の取り組んでいる最先端のテーマである。その成果は、まだ著者のような初歩的な経済学者にもわかるような教科書にはなっていないが、現実が教科書に合わないときは、教科書がまちがっているのだ。明るい所を探すよりも、どこに落としたかを考えるのが先である。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/noguchi.html