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(回答先: Re: 何となくですが。 投稿者 死して無名の鬼 日時 2003 年 4 月 03 日 02:15:44)
大サービスです。後は自分らで考えてください。
−−あるんだけどね。可能性と対処法。日本人ならできそうなこと。
荒唐無稽っぽく思われそうだし、時間もかかるけど。
だから時間の概念を超えて、って言ったわけです。
現実的と思ってもらえないかもしれませんけど、ぼくが考えるに最も現実的な方法です。
タイトルは「希望」です。
ぼくの言うようなことは間違っているという前提で−−
ケンカをふっかけた方の「尋常でない反省」とふっかけられた方の「尋常でない許し」−−そこに到達することができれば「分かり合い、相手を認める」ための最後のケンカであったという風に、何とかならんでもないです。
「希望」に届くために、今からすぐにでも一人一人がやらなくてはならないこと。
「利他的に生きる」ことを始める。
「自分のまわりの小さな社会での、自分の役割を自覚し、それをよろこびをもって果たしてゆく」
資本主義社会(自由経済)は奪い合いのゲームです。
飢えるのがイヤなら、必要以上に勝ち続けなくてはなりません。
つまんないゲームだね。底が浅い。
だから参加したくなかったの。
つまんないのキラい。
それにね、「利己」で動くのがルールのゲームにおいて、あえて「利他」で動けばおもしろそうなものが待っているというのにも気づかない人が多そうなのが−−。
利他で動けば、想像力も働くし、やさしくあれるし、質量はないけど「しあわせ」という得もいっぱいするし、おまけにうまいことすればちょっとだけ「徳」までついちゃうかもしれないんだよね。
今回ケンカを売られた側にはさあ、「喜捨」みたいのもあるわけでしょ?
そっちの方がやさしくないですか?
「はかり」と「懐の深さ」が違うんですよ。元々。
だってさあ、たとえばぼくだったら、ある仕事が与えられたとして−−とにかく精一杯やるんですよ。
値段とかはあんまり重要じゃない。
100円しかもらえないから「こんなもんだろ」って手を抜く、1万円ならおべんちゃらまで使う−−、そんなもんじゃないんですよ。
何でもこころを尽くして自分にできることは精一杯やるんです。
まあ、おかげさまで今でもビンボーですけど。
ケチが多かったから。
でもね、ケチを相手にする時には燃えるものがありましたね。
普段よりがんばったかもしれない。
「絶対にその値段には釣り合わないようなものをあげるよーっ」ってね。
当然そういう人は気づきませんけどね。
自分がどんなラッキーしたかもさえ。
まあ、権威が好きなんでしょうねえ。
値段が高ければいいものだと思いこみやすい。
ぼくはずっと「トリック・スター」がかっちょいいと思ってきたもんで−−。
まあ、お互いに自分の気もちに見合うものを差し出し合えばそれでいいんです。
もっているものの中から。
あとは、コミュニケーションについてですけど−−。
「先生!ことばはデジタルな信号ではないと思います」
やっぱりですね、伝える側に「伝わってほしい」という想いがあって、受ける側に「受け取りたい」って想いがあれば、けっこう伝わるんですよね。
言葉じゃないものが。
だから片言同志でもいい感じのコミュニケーションはできます。
想像し合えば。
「自分に都合のいいように想像」してはダメですけど。
いわゆる「語学バカ」の人に、しゃべれるけど話の内容がつまらない人が多いってのも、道具の使い方わかってないからだと思うんですよ。
それとね、外国語を学ぶというのは、その言語を使えるようになるためだけじゃなくて、普通、人間の思考様式ってのはその人の使う言語に左右されるはずなんです。
日本語は、すばらしく曖昧で、高度な言語ですよ。
ヨーロッパ言語とかだと、曖昧さを許さないところありますからね。
「私は・いつ・何を・誰に・いくつ・あげた」とか、いっつも言ってるわけで。
そういう人たちの頭はやっぱり「曖昧さを理解」するのが難しいんですよ。
「言わずに伝える」とかそういうのね。
辞書になんか、大事なこと何にも書いてないのに。
本屋にはほしい本がないのと一緒です。
で、今回ケンカふっかけた人たちがいる国って、ほとんど「英語」だけしかわからない人たちの国なわけでしょ?
英語の仕組みでだけものごとを考え、想像してる。
「価値観の多様性を認め合う」の正反対に位置しますわなあ。一元。
日本語における、標準語の普及にも問題ありますよね。
東北の方言のどこが悪い!ばかたれ。
文化とは言語のことをいうのだ。あと、多分「食」。
日本語だけだって、せめて二種類ぐらいは使えるようにしたいものです。
関東圏とかは、だから非常にアメリカ的ですな。
だから誰の胸にもあるんですよ。
そういう自分の外部にあるものを、相手の立場に立ってわかろうとしない気もちが。
ちょっと飛躍してますけどね。
99%はいいけど、1%を否定してはいけない。
「わかるように言ってくれ」っていうのは甘えですわな。開き直りともいえる。
「話せばわかる」も、気もちが入ってなかったらたわごとですな。
えー、ここで科学さんの力をちょっと借ります。
上に書いてきたようなことを基にですね、
「やさしさの『フラクタル(←こんな名前だったような気が)』」、
あの、全部一緒ってやつです。小さな無数のバカボンの顔で大きなバカボンの顔を描く、で、その小さなバカボンも虫眼鏡で見るともっと小さなバカボンで描かれている、というような、アレです。
そういう感じで世界を構成できるように励めば、何とかなるんではないかと。
もちろん一人一人は小さいから、だからこそ隣人や村社会の中で、精一杯それをする、と。
世界を続けたいならまず隣の人からという発想です。
もちろんやさしい爆弾みたいなものだから、怒って「反戦」とか訴えたらダメです。
これ、ギリギリまだ可能性あるよ。
※昨日タクシーに乗りまして、運転手がパキスタンの人だったんですね。
一応、勝手に代表して謝っておきました。
まあ、相手にも勝手に代表になってもらって。
「ばか過ぎてごめんなさい。許してもらえないかもしれないけど」って。
ちょっとだけウソをつきました。
「日本は、市民レベルではほとんど反対してるから」って。
やさしくて強いよ。あの人ら。
「わかってる」って。
難民の人たち、受け入れることから始めたら?
何でもあげればいいじゃん。
何もかも奪ったんだから。