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最近は、「ド腐れ人間」なぞといった汚い言葉を使ってひとを挑発して醜態を曝している。
あまり好ましい用語法ではないと自覚しているので、そろそろそういう言葉遣いを終わりにしたい。
「悪魔崇拝」や「ド腐れ人間」という言葉に嫌気を催した方や“隷属論”に何をそこまで・・・と考えられた方もいるのではないかと推察している。
「悪魔崇拝」や“隷属論”は今後もまだ使用していくつもりだが、「ド腐れ人間」を廃棄するにあたって、「価値観や論理への隷属」を再考したい。
「価値観や論理への隷属」は、一言で言えば、「得心がいかないことを正しいと信じてしまう意識情況」だと考えている。
近代学校教育は、「得心がいかないことを正しいと信じてしまう意識情況」を醸成する最高の装置である。
教科書や採点者が正しいと主張していることが正しいと考えなければ高く評価されない仕組みだからである。
このような意味で、大学そして大学院さらには学者や統治者(官僚)になればなるほど、「得心がいかないことを正しいと信じてしまう意識情況」が“濃密”になる。
「得心する」ということは、事象に関するある説明が“実感としてわかるということ”である。
俗にいう受験戦争やキャリア志向に投げ込まれた人々は、「得心する」までの思考ではなく、与えられた知識や説明体系(論理)を自己のものにすることに忙殺されがちである。
(上級職ひと桁合格を自認されていた財務省キャリア官僚の「匿名希望」氏は、東大法学部に合格するのにそれほどガリ勉したわけではないと語っていた。推察するに、彼は「勉強ができる」というレベルではなく「頭がいい」という人なんだろう。だから、受験も要領よくこなせる。そういう人は、知識や説明体系(論理)を手段として考えるから、それらにそれほど縛られはしない。それが、価値観や立場が違う彼との議論がスムーズであった基礎だったと思っている)
余裕がない人が学歴やキャリアを志向すれば、与えられた知識や説明体系(論理)を信じるしかない。
一つ一つのことに疑念を覚えるような時間を過ごせば、目指すものをとうてい手に入れることができないだろう。
学校を卒業した後の“社会”でも、「客観的な能力評価」という聞こえのいいことが語られているが、それを評価する手段を決めたり判定する主体は、全知全能の神ではなく、ただの人である。
これは、企業だけではなく、国家機構や大学そして政党にまで通底している現実である。
すなわち、職制的上位者(たち)が下位者の能力を判定する仕組みである。
職制的上位者が、必ずしも下位者よりも論理思考力が優れているというわけではない。
不遜な言い方になるが、経験的に言えば、論理思考力に優れている人は、論理思考力が劣っている人の論理を理解できるが、論理思考力が劣っている人は、勝っている人の論理をなかなか理解できないようである。
しかし、これは、論理思考力というより、想像力の差異に基づくものだと考えている。
想像力に勝っている人は、劣っている人の思考産物(言葉・文章・製品や芸術的表現物)を受け止めて、その人が想像したこと以上のことを想像する。
劣っている人は、勝っている人の思考産物を受け止めても、発した人が想像したことよりも少ないものしか想像できないようである。
想像力とは何かといえば、それは、感性(感受性やイメージ)と理性(論理思考)を結合させながら思考する力である。
(概念(イメージ)化して保持している知識と知識を連関的に結びつける力だとも表現できる)
言葉や文章であれば、それらを受け止めることで概念的に思考し、いわんとする“現実”を頭の中に組み立てる力である。
製品・絵画・映画・音楽・料理などであれば、それらを受け止めることで、表現者が内的思考として想像したことをたどる力であり、喜びや心地よさを感じる力である。(製品はファッション商品や工業製品にそれが顕著に現れる)
阿修羅サイトのように文章表現物を主たる媒体としている世界では、書かれたものを受け止めて、それがいわんとする“現実”をイメージする(組み立てる)力が問われる。
最近、“空虚な言葉”という表現をしているが、それは、その文章から書き手が想像したであろう“現実”が見えないときに使用している。
自分の想像力が不足しているために“現実”が見えないと感じたときは、不足している知識を補ったり、レスで説明を求めたりする。
“空虚な言葉”と感じる文章は、ある主張をするために、「市場原理」・「構造改革」・「平和ぼけ」・「国益」・「安全保障」・「北朝鮮脅威」などの言葉をつなぎ合わせ、“常識”・“そういうものだ”・“それを知らないのは愚か”などといった形容句を付加してこと足りるとしているものである。
自分で書きながら感じることだが、自分が想像した“現実”を言葉で表現するのは難しい。自分の頭の中であれば、自分で納得すれば済むことだが、他者に考えてもらう媒介として書いたものは、書き込みした瞬間から、あの説明が抜けていた、あれはわかりにくい表現だったと反省させられる。
自分が想像した“現実”でさえきちんと表現できないのだから、現実を掴み切り体系的に説明することなぞ夢のまた夢である。
阿修羅サイトに集っているほとんどの人は、主要メディアを通じて増幅されている“空虚な言葉”を知っているとお見受けする。そして、それに「得心できない」から、別の情報や別の論理を求めに阿修羅サイトに訪れているはずである。
「価値観や論理への隷属」から抜け出す簡単な方法は、“わからないこと”はわからないと保留して信じないことである。
そして、学校教育などを通じて醸成されてきた、言葉で言葉を理解する“習性”を捨て去ることである。
(頭の中である種の具体性をもってイメージできない言葉はまだ言葉でしかない。イメージできて概念となる)
受け止めた言葉は、自分の頭の中で“現実”化してみて、得心できる、共感できる、好ましいと思う限りにおいて“信じ”ればいいし、そうでない言葉は、それを発した人により詳細な説明を求めるべきである。
小泉首相などの説明も、それが意味している“現実”が何かをそれぞれが想像して理非を決めることであり、その結果が非であれば、より詳細の説明を求めるか、異を唱えることになる。
真理が存在するかどうかは別として、人(個及び類)が真理を認識することはできないと考えている。
なぜなら、人は、自分(たち)が何であるかさえ認識できない存在だからである。
真理が存在しているとしても、人は、それを自分が想像した“現実”のなかから見出さなければならない。
想像した“現実”は現実の限られた範囲であり、現実は不断に変化している。
現実世界は、50億を超える人を含み全体が不断に変化している。
そのような変化を人が認識できるかどうかは、二つ三つのことを同時に考えることを試してみればすぐにわかることである。その間でさえ、世界全体が動いているのである。
自分が何者か自分が何かさえわからないのに、宇宙の真理がわかるわけがない。
宇宙(現実)を認識するということは、自己を認識するということなのである。
人は、それを真理だと信じることはできても、真理という大それたものを認識することはできない存在である。
人は、自分たちにとって必要なことや望ましいことを実現するために、限られた想像力と限られた活動力を駆使して現実に働きかけられるだけの存在なのである。
そして、人が生きていく目的は、想像力を高めることにあるわけではない。
人は、感性的にもしくは価値観的に心地よい日々を過ごすために生きていると思っている。
高い想像力も、それを実現するための手段でしかない。
自分の興味から外れることは知らなくても恥じる必要はないし、ノーベル賞や各種の芸術賞を授与された人を「得心しない」まま敬ったり畏れたりする必要もない。
どんなにすばらしいものと他者(学校やメディア)が言おうとも、つまらないものはつまらないと言い切ればいいのである。
「知性は快楽の下僕である」と表明する。
根源的にたかが知れたものでしかない知性の産物(論理)でもって、人々の快楽を抑え込んだり歪めようとしている“知的エリート自認者”たちを嘲笑しよう。
彼らこそが、無自覚な「知の奴隷」なのである。
これをもって「ド腐れ人間」という言葉を廃棄する。