現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ26 > 302.html ★阿修羅♪ |
|
米国ネオコン派とホッブスを直結させることはおかしい。
そんな水準では、ネオコンの正体を知ることは出来ない。
http://www.pavc.ne.jp/~ryu/
投稿 平成15年05月25日22時04分
太田龍の時事寸評
平成十五年(二〇〇三年)五月二十五日(日)
(第五百八十八回)
○ロバート・ケイガンの「ネオコンの論理」(光文社)の巻末解説の
中で、福田和也、と言う人は、米国ネオコン派の代表格としての
ケイガンの論理を、ホッブスのリバイアサン(怪物)と殆どひとし
いもの、と解釈する。
○これはおかしい。
○「リバイアサン」とは、新約聖書、巻末ヨハネの黙示録に出て来る。
○ケイガンのこの本(「ネオコンの論理(英文原題は、楽園と権力)」)
は、ネオコンの論理を全面展開したものではない。それは、米国と
ヨーロッパの位置関係に限定した論文である。
○ケイガンはたしかにそこで、ホッブスを引き合いにだす。しかし、
米国のネオコン派が、ホッブス説をそのまま受け入れてしまって
居るかと言えば、それは違う。
○シァディア・ドルーリー女史の著作「レオ・シュトラウスとアメリカ
の右翼」(一九九七年)、九十二、三頁。
○ここに、ホッブスについてのレオ・シュトラウスとカール・シュミット
の意見の相違が説明されて居る。
以下に、要約して置く。
(1)シュミットはホッブスを賞賛したが、それはシュミットの誤り
である。
(2)シュミットは、ホッブスが、政治の輝かしさ(栄誉)を理解して
居た、と見たが、シュトラウスはそのシュトラウスの説に全く
反対。
(3)ホッブスはむしろ、リベラリズムの伝統の基礎をを作った人
である。
(4)ホッブスは、自然状態では万人は万人を敵として戦う、とした
が、それは、政治の始まりではない。
(5)シュトラウスは、政治を再宗教化することを提起した。
以下略。
○政治の究極のかたちは戦争である。
○政治は、市民、人民、国民、民衆....に対し、戦争のために、
死ぬことを要求しなければならない。
○しかし、ホッブス的リベラリズムでは、それは出来ない。
○かくして、「政治の再宗教化」が必要となる、
と、シュトラウスは言う。
○このシュトラウス学派の理論から、今の米国のネオコン派が出て
来る。
○ロバート・ケイガンの前記の小著には、そんなことは書いてない。
○しかし、ネオコン派が、米国のいわゆるキリスト教原理主義、より
正確に表記すれば、
シオニスト・キリスト教、
キリスト教シオニスト、
タルムード、カバラ主義化されたキリスト教、
と言った勢力と、緊密に同盟して居ることは多言を要しないで
あろう。
○シュトラウスがユダヤ人、ユダヤ教徒であること、カバラ学に深く
通じて居たこと、そんなことは、今更、言うだけ野暮と言うもので
あろう。
○以下省略する。
(了)