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(回答先: 招魂教(靖国)→特攻→自爆テロ 投稿者 たけ(tk) 日時 2003 年 4 月 06 日 20:16:26)
あえて類似の事例を探すとしたら、司馬遷の「史記」「春秋左氏伝」他にある古代中国の呉越の戦いの1つ「すいり(「すい」は椎の下に凹の下棒がない形、「り」は李)の合戦」が挙げられますかね。「最初から全く生還の望みのない決死隊の組織的運用」と言う意味では。
「臥薪嘗胆」の故事でおそらく皆さんも中学・高校の国語の「漢文」の授業や受験勉強で一度は触れているはずのあの「呉と越」の長きに渡る因縁の対決の発端となったとも言える合戦です。
越の国王「允常(いんじょう)」が死去し、その子「勾践(こうせん)」が即位したところ、楚をはじめ北方の中原諸国を圧し飛ぶ鳥を落とす勢いだった隣国呉の王「闔廬(こうりょ)」(ちなみにこの闔廬に仕え、楚を破り中原諸国を恐れさる上で功績があったのが、古今東西を通じ最高の兵法書とされる「孫子」の著者孫武である)は、その喪に付け込んで越に攻め込みました。
戦いは一進一退の膠着状態となり、両軍が上記「すいり」にてにらみ合っていた時のことです。ある日、越の陣中から死装束に身を固めた一隊の人々が現れ、呉の陣の前に並ぶと口々に
「両軍の戦いの邪魔をしようとして罪を着せられた者たちです。これより死してお詫び申し上げます」
と叫び、自ら首を切って(自分で自分の首を落とすなど、通常の兵に簡単に出来るとは思えないので、実際にはおそらく、頚動脈を切る程度だったと思われる)しまいました。
続いてやはり同様の装束に身を固めた一隊が現れ、やはり呉の陣前で侘びを述べて自ら首斬って果てました。
呉の軍勢がその姿を見て呆気に取られ、茫然自失となっているところに越軍の本体が襲い掛かり呉軍は壊走。呉王闔廬もこの戦いで足指に矢傷を負い、それが原因で陣没しました
(その死の直前に皇太子である夫差に対して、「越人が汝の父を殺したことを忘れず、必ず復讐せよ」と命じたことから、あの有名な「臥薪嘗胆」の一連のエピソードが始まります)。
呉軍の戦意をくじき、また本体の接近を悟らせないための陽動作戦の意味を込めて越の軍師「范蠡(はんれい)」が立てた作戦とされます。
この例では、自殺した兵らは、死後に遺族の面倒を見ることを条件にこの作戦に動員された死刑囚だったと言われます。「最初から死を前提とした作戦に組織的・計画的に動員」することを「特攻」の定義とするなら、記録に残る限り、これが最も古い例ではないかとおもわれます。もっとも、「敵への直接攻撃」を条件に加えれば話はまた別ですが。
http://lt.jpn.org/~gensan/chain/18shiryaku/29.htm
http://plaza26.mbn.or.jp/~pata/s18_011.html
http://homepage2.nifty.com/scope-history/singiryo/seigo/gasin.htm