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王政復古より政権奪取が新機軸となるか?欧州は「影の王族たち(ロイヤル・プリテンダース)」が脚光を浴びる“ロイヤル・リサイクリング”の時代に入った・国際政治評論家倉田保雄(サピオ1/9新年合併号)
世界には近代の民主化の中で王位を追われ、亡命先でかつての栄華からは程遠い生活を送る王族たちが数多く存在する。その中には王位への復帰を果たさんと執念を燃やす「王国なき国王」たちがいるが、英語では彼らのことを「ロイヤル・プリテンダー」と呼ぶ。
最近では、統合の進む欧州で経済再建の要として活躍する首相も登場。その活動に注目が集まり始めている。
彼らの実態を欧州王室に詳しい国際政治評論家・倉田保雄氏が解説する。
ヨーロッパの王族についてはよく知られているが、影の王族の存在は日本ではあまり知られていない。
いうまでもなく、ロイヤルティーは英国のエリザベス女王、スペインのカルロス1世のような現役の女王、国王のことだが、ロイヤル・プリテンダーズ(Royal pretenders)とは、外国に亡命している王族のことで、その多くがそのときが来たら王位に復帰する“出番”を待っているのである。
ヨーロッパでは、フランス王制が1789年の革命で崩壊、20世紀に入って第1次大戦後にドイツ帝国が崩壊して共和制に移行、ほぼ同時にロシア革命でロシア帝国が崩壊して共和制に移行、第2次大戦後はイタリアも共和制になるといった具合で、「共和制万能」の今日に至っていることは周知の通りである。
EU(欧州連合)を構成するメンバーを見ると、1958年の発足当初は3王国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)と3共和国(フランス、ドイツ、イタリア)の6か国で構成されていた(EEC=欧州経済共同体)。この王・共3対3のバランスはその後の拡大で5対5、6対6となり、現在では7王国(英国、スペイン、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スウェーデン、デンマーク)対8共
財産返還を求めたギリシア国王が勝訴
実際問題として、8共和国はかつては王国だったので、各国にプリテンダーがおりヨーロッパのどこかの王国・・・主として英国だが・・・で亡命生活を送っている。その中でも著名な人物は、オーストリア・ハンガリー帝国の亡命皇帝カール1世の皇太子オットー・フォン・ハプスブルク(85)で、オットーは現在のハンガリーでいまだに底固い人気を博しており、90年代後半には大統領に迎えようとする運動が展開された。しかし、オットー自身の判断で、表舞台よりもハンガリー再建と欧州統合推進のために2人の王子と共に裏方役に徹する道を選び、ハンガリーのEU加盟交渉で大きな成果を上げている。
1967年のクーデターで英国に亡命したギリシア国王コンスタンチノス2世は、ロンドンの金融街で実業家になり、鳴かず飛ばずの存在だったが、1994年にギリシア国内3か所にある王宮、離宮をギリシア政府が不法に占有しているとして、欧州人権裁判所に提訴したところ、2000年2月に同裁判所は国王の提訴を認め、ギリシア政府に王室物件を亡命国王に返還すべしとの判決を下した・・・ということで、人権というアングルから存在感を誇示した。
以上はEU内での話だが、実はヨーロッパには旧ソ連によって亡命を余儀なくされた複数のプリテンダーが存在するのだ。
その主な顔ぶれは次の通り。
●アレクサンダル皇太子(56)
ユーゴスラビア連邦の解体で内戦状態にある祖国ユーゴスラビアでの王政復古の必要性を首都ベオグラードに乗り込んで訴えるといった積極性がそれなりの人気を呼んだが、ミロシェビッチ政権が崩壊すると、ユーゴ国民の関心は“早急な民主化推進”に向かったため、アレクサンダル皇太子は独り世間から取り残されてしまうという結末となった。この皇太子については、亡命先のロンドンの「クラリッジ・ホテル」の一室で1945年に生まれたのだが、ユーゴ国内で生まれていることが国王になる条件とされているので、側近たちがホテルの部屋にユーゴの土を敷きつめてお産をさせたというエピソードが残っている。それだけに皇太子の祖国復帰の願望には並々ならぬものがあるのだが、現状では政治勢力に利用されることはあっても本格的な出番には程遠いようだ。
●ミハイルー世(81)。
ルーマニア国王で1947年、共産政権と決別してスイスに亡命したのだが、ミハイル1世は他のプリテンダーと違い、1927年に6歳で即位したものの、3年後に実父カロル2世が王位に復帰したために退位し、第2次世界大戦中の1940年に再び即位したという変わった体験の持ち主。1992年の復活祭に亡命後初めて首都ブカレストを訪問したときは、約20万人の市民がくり出し、西側のマスコミが「ミハイル・フィーバーだ」と書き立てたことで、本人はかなりその気になったようだったが、訪問後の全国世論調査では王制復帰希望は20%以下という有り様。つまり、フィーバーはブカレストを舞台に王党派が派手にくり広げた演出に過ぎなかったのである。
●マリア・ロマノフ皇女(50)
1992年ロシア帝国ロマノア王朝の末裔で、フランスに亡命していたウラジーミル・ロマノフ大公が死去したため、大公の皇女マリアが王位継承者となったが、亡くなった大公の7人のいとこたちがマリアの継承権に異議を唱え、紛争状態に入り今日に至っている。
現在ではあまり注目されていないが、エリツィン大統領時代に、同大統領が安定勢力としてのロマノフの利用価値に目をつけて、生前のウラジーミル大公と接触していたことが記録されている。
●レカー世(61)
アルバニア国王。東欧民主化が始まると同時に西欧諸国を行脚して、アルバニアの民主化推進に協力・援助を求め、西欧マスコミの注目を集めた。コソボ紛争の際も亡命先の南アフリカからヨーロッパに飛んで、王政復古による紛争収束をアピールしたが、「箇吹けど踊らず」に終わってしまった。
ポスト・タリバンを睨むアフガン元国王の野望
こう見てくると、東欧のプリテンダーズは既存政治勢力によって利用される、さらには使い捨てにされるのが関の山という印象を免れないが、1人だけ例外がある。それがブルガリアの亡命国王シメオン2世(64)だ。
シメオン2世は1943年に6歳で王位についたが、46年に共産党政権に追放され、エジプト経由でスペインに亡命。そのスペインでは1957年にフランコ総統の死により王政復古が実現し、シメオン2世とほぼ同年齢のファン・カルロス1世が即位した。
この奇跡に近い復古を目の当たりに体験したシメオン2世は自分にもチャンスはあると勇気づけられたに違いない。しかし、国王は王政復古にこだわることなく、ブルガリア政治への参加に照準を定めたのである。
というのもシメオン2世はロンドンでビジネスコンサルタントとして活躍、その間に西欧経済界に有力な人脈を作ったことで、危機状態にあるブルガリア経済の再建計画に必要な人材であるという認識がブルガリア政界、一般国民の間で広まり、支持率も73%という現実から、王政復古よりも政治参加が得策と判断したからだ。
ロンドン金融街にあるパブ『カウンティング・ハウス』にはシメオン2世を支持する亡命ブルガリア・ビジネスマンたちが「ブルガリア・シティー・クラブ」を結成。2001年6月に行なわれたブルガリア総選挙では同クラブの支援を受けた政党「シメオン2世国民運動」が大勝利を収めた。その結果、シメオン2世は首相に就任し、プリテンダーに新機軸を確立した。西欧のマスコミはこれを、「ロイヤル・リサイクリング」と評し、成り行きを注目している。
しかし、本箱執筆の段階で世界の注目を浴びているプリテンダーはアフガニスタンのザヒル・シャー元国王で、同国王はタリバン政権以後のアフガニスタン政治への参加に亡命先のローマから手をあげているが、果たしてどんな形の“リサイクリング”が可能なのか。少なくとも、王政復古は問題外というのが大方の観測である。