投稿者 dembo 日時 2001 年 11 月 20 日 00:00:57:
回答先: サウジ王子:毎日新聞インタビューでアフガン秘話を語る〔毎日新聞〕 投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2001 年 11 月 19 日 22:22:24:
タリバンは3年前に引渡しに合意
http://www.guardian.co.uk/Archive/Article/0,4273,4292042,00.html
タリバンは'98年にビンラディン引渡しで合意
ブライアン・ウィテカー
2001年11月5日
The Guardian(ザ・ガーディアン)
タリバン指導者であるムラー・ムハンマド・オマル氏は、3年前にオサマ・ビンラディンの身柄引き渡しに同意していたが、合衆国の巡航ミサイル攻撃を受けて気が変わった。サウジ・アラビアの元情報局長は先日こう語った。
タルキ・アル・ファイサル王子の主張は、現在の空爆作戦開始前に、ビンラディン氏の引渡しについてもっと交渉努力を重ねることができたのではないかという疑問を呼ぶ。
ジェッダに本拠を置くアラブ・ニュースおよびサウジ所有のMBCテレビのインタビューで、タルキ王子はカンダハルへの2度に渡る極秘ミッションについて説明した。最初のミッションは1998年6月に実行された。
「ファイード王とアブドラ皇太子は、ビンラディンを王国に引き渡すようムラー・オマルを説得するために私を遣わした」と王子は語った。
「ムラー・オマルは私に対し、引渡しについての共同委員会の設置について提案したい旨を王および皇太子に伝えるよう要請した」
タリバンがここでビンラディンの引渡しに応じた理由の1つは、まずはじめからラディンが滞在していることにあまり感心していなかったからだろう。
「タリバンが1996年に東部の街ジャララバードを占領したとき、ビンラディンはそこにいた。元ムジャハディン指導者であるシーク・ユーヌス・カーレスの保護の元で」と王子は説明した。
同地域の制圧後、タリバンはビンラディンを影響下に置くことを約束したが、実行はできなかった。1998年8月にはビンラディンの支持者によりナイロビとダルエス・サラームの米国大使館が爆破され、数百人が死亡した。米国はその直後にアフガニスタンおよびスーダンに対して報復攻撃を加えた。このことで、身柄引き渡し計画は水泡に帰してしまったといえる。
タルキ王子は翌9月にカンダハルに戻ったが、インタビューでは、「行かなければよかった」と漏らした。
ムラー・オマルは完全に決定を覆し、サウジ・アラビアを侮辱した、と王子は語る。
「交渉は断念するしかなかった」
タルキ王子は今年の8月31日付で情報部のポストを降ろされたが、1979年のソ連軍侵攻以来、アフガン事情に深く関わっている。
王子の辞任が決まったときには、王子とタリバンの関係、そしてビンラディンの身柄引き渡しが失敗したことに対する米側の不満が考慮されたのではないかという説がささやかれた。