投稿者 私はない 日時 2001 年 11 月 10 日 07:42:00:
「必要戦争」の覚悟はあるのか
<10/30/2001>毎日インターナショナル
★自衛隊「戦時」派遣の無意味さ★
市民権運動のリーダーや宗教関係者を中心に、米国内で「アフガン戦争」に対する批判の声が少しづつ高まっている。暴力(武力)による問題解決の手法に疑義を唱えているのだ(10月29日「武力解決の風潮を非難力」の記事参照)。その一方で、空爆を含めた強硬な解決手段を求める声もいまだに根強い。
そんな中、日本の国会は10月29日、テロ対策支援関連法案を成立させた。これについて、「10年前の湾岸危機・戦争当時やPKO(平和維持活動)法成立時と比べ、あまりの迅速さに時代の差を感じる」などという、寝とぼけた紙面を展開した一部マスコミには唖然とするしかない。
タイム誌11月5日号のエッセイ(チャールス・クラウトハマー氏)を引用しながら、「日本の戦後の安全保障政策の大転換」ともされるこの時限立法の無意味さを指摘したい。
戦争には、ベトナムやコソボや湾岸のように(理由は多々あれ)「戦う必要がない、選択の余地がある戦争」と、せねばならない「必要戦争」があり、必要戦争とは「祖国の安全保障がかかった、生きるか死ぬかの戦いである」とク氏は言う。
その戦争分類はさておき、ク氏によれば現在進行形のアフガン戦争は、多数の米国人を虐殺したうえ、米国への全面テロ戦争を公に表明したビンラディン容疑者らとその支援組織であるタリバンとの戦いであり、これは「必要戦争」だと言う。
日本は、彼が言うところの「必要戦争」を支援すべく新法を成立させ、自衛隊の「戦時派遣」が可能になった。もちろん、条件がついている。「……戦闘行為が行われないと認める地域……」。
「そんな規定は何の意味もない」と、ク氏だったら失笑するだろうと思う。「敵は、(化学兵器・核兵器などを含む)あらゆる手段での全面戦争を宣言した。それに対しこちら側が、民間人はできうる限り殺傷しないなどと、限定的戦争に終始すれば、それは自殺行為でしかない」とク氏は指摘している。
少し見方を変えれば、敵はあらゆる手段で、あらゆる場所を攻撃対象とするのだから「戦闘行為がないと認められる地域」など、参戦・支援した瞬間に存在しえないということである。日本国内の自衛隊・防衛庁施設や新宿の繁華街も、今回の相手にとってはすでに戦場だということだ。現実として米政府は10月29日、米国内での新たなテロ攻撃に備えるよう警告を発している。
ク氏が、今回のアフガン戦争を国家安全保障の命運のかった必要な戦いだという根拠もここにある。そうした認識で、現在の米軍の作戦やワシントンDCの政治動向を分析し、「生きるか死ぬかの戦争に、何を躊躇する感性が必要なのか」と、米政府や軍の「感性」に疑義を唱えている。
例えば、誤爆やアフガン市民の犠牲問題だ。「ナチス・ドイツだって国民すべてがナチスではなかった。だが、チャーチルは爆撃で区別はしなかった。ドイツの民間人は犠牲にしないなどと。必要戦争にはそんな区別をする贅沢はない」と言い切る。恐らく、戦場の軍人たちの本音も同じだろう。
政府も国会も、米国には反戦の声と同時に、ク氏のようなメンタリティーが世論の一部を形成していることを充分に認識して、今回の新法成立に踏み切ったのだろうが、ク氏的にいえば「不要な選択」だったと言わざるを得ない。
どこが戦場になるかも特定できない全面(テロリスト・タリバン側)的な「必要戦争」のさだ中に、憲法9条をひっさげて、自衛隊と呼ばれる戦闘不能な部隊がうろちょろすること自体、滑稽でしかない。支援される米英軍もさぞかし迷惑だろう。しかも、敵側から見れば、それは立派な「軍事参加」である。
テロ対策への支援なら他にいくらでも手段や方法がある。ポスト・アフガン戦争に備え、パキスタンやインドやイランなどの周辺諸国と、核兵器廃棄・経済援助をセットにした交渉を始めるなど、いわゆる非軍事的な行動はいくらでも考えつくはずだし、実行できる。
何を焦って、初めから油のないブリキの兵隊を派遣しなければならないのか、その感性がどうにも分からない。国際社会から自衛隊派遣の強い依頼があったとは聞いていない。何より、ク氏が指摘する必要戦争への関与は、自らの国民と国土の安全保障を踏まえれば、よほどの覚悟が必要だ。
成田発ハワイ行き航空機がハイジャックされ、走行する新幹線を狙って自爆することを、政府・捜査当局が直前に察知したとき、日本のシステム(個人的には内閣総理大臣)は、自爆寸前の民間ジェット機を乗客もろとも撃墜する命令を航空自衛隊に出せるのかどうか。
東京の中心部で化学兵器や細菌兵器が使用されたら、政府はどう対処し、海外にいる非日本国籍の首謀者や国外逃亡した犯人・犯人グループを、どのような具体的な手段で追いつめ、どうやって補足し、どこでどう裁きにかけるのか。
自衛隊派遣の結果として起こるかもしれない、こうした事態に対するシミュレーションすら描けていない(と思われる)現状では、安易な派遣自体が、国民と国土に対して無責任な行動だと言わざるを得ない。
国民総意の大勢も不明だ。今回のテロ事件の首謀者(とされる人物)らを放置すれば、再び同じ悲劇が繰り返される恐れがあるから、「やむをえざる緊急の措置としての武力行使」と受け止め、その代償として、場合によっては日本国内が新たなテロの標的になっても「やむをえない」という覚悟を共有しているのか。少なくとも、現状の米国民の総意の大勢は「新たなテロにさらされてもやむをえない」との覚悟を共有している。
恐らく、日本の国民の大半はそんな覚悟はないだろうし、むしろ関わりたくないというのが本音だと推測している。だとすれば、国民の大方の感性とは違う方向の行動を取ろうとしている政府と国会は、一体、どこを見て、何を考えて、無意味な新法を成立させたのか?
断固たる決意と姿勢をもって、今回のテロ行為に対処すべきという基本的な考え方に反対する人はいないだろう。だが、そのための具体的な方法論については、それぞれの地域や国に、それぞれの現実的な選択肢があるはずだ。
テロの直接攻撃を受けた米国は軍事行動を選択した。その是非は米国民が問い、その因果もまた米国民が背負うと、政府も議会も世論も表明している。日本は日本で、地球規模にテロが拡散しないことを目指して行動し、その是非は日本国民が問い、その因果を「背負う覚悟が出来ている範囲」で政府は行動すべきだと考える。(田原護立)
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