投稿者 いがらし 日時 2001 年 11 月 06 日 23:04:08:
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ひとり歩き(1)
厳しい戒律のタリバン−その実相は…
米英軍の報復攻撃で、今や世界の注目を集めているアフガニスタンに入国したのは1998年4月末のことだった。
パキスタンのクエッタから乗り合いバスやタクシーを乗り継ぎ、ようやく入ったのだが、アフガンは北部を除く国土の大半をタリバン政権が実効支配。カンダハル、カブール、ジャララバードといった大都市や途中の村々は一応平和を保っているようにみえた。
だが、タリバンには以下のような厳しい戒律があることで知られている。
【偶像崇拝の禁止のため、テレビを破壊▽肖像画や写真の掲示を禁止▽音楽の禁止▽アゴヒゲの強制▽犯罪には厳罰を適用、街中を引きまわしたり、手首を切り落としたり…と公開処刑も復活▽女性には体中をすっぽり覆ってしまうブルカ着用を強要、教育や労働を禁止…】などだ。
そんな強権的で窮屈な生活を支配地域の一般市民に強いたタリバン。それでも、僕が一般の人々から直接、聞いた限りでは必ずしも評判は悪くなかった。
「タリバン以前は強盗団がのさばっていて、自由に移動することができなかったんだ。でも、今はそれができるからね。(タリバン)以前に比べると、マシだよ」(ジャララバードでお宅に招待していただいた中年男性)
「戦争はいいかげんにしてほしい。もう20年も戦争が続いているんだよ。平和が欲しいよ」(カブールの一般市民)
「タリバンになって窮屈にはなった。だけど、治安がずいぶんよくなった」(カブールの一般市民)
女性やハザラ人からの意見を聞く機会はなかった。しかし平和をもたらしてくれたタリバンを積極的ではないが、支持している話を一般市民からたくさん聞くことができた。
アフガン滞在中、タリバンに属する多くの男たちに会ったが、彼らは非常に信心深く、純粋かつ親切で、若くて血の気が多そうな人たちだった。タリバンだけではなくアフガン人全体がそうなのだが、読み書きのできない者が男女とも大多数を占め、日本はおろか、空爆を続けている米国の位置や実情を正確に把握している者はまれだった。
入国当日、テロの黒幕ウサマ・ビンラーディンが潜伏しているとみられている南部カンダハルで不法入国の疑いから拘束されたのだが、そのときに接したタリバン当局者で、23歳の青年、タスミン氏は現地語のパシュトゥン語はもちろん、英語の文章を読んだり、会話が可能でアフガン人にしては相当なインテリのようだった。
だが、そんな彼でさえわれわれ日本人の常識とはかけ離れていた。
「イスラム教はスイートな宗教だ」と、恍惚とした表情で魅力を語り、僕に改宗をすすめてきた後、「今度、最前線に連れてってやる」と戦場に誘い、「銃で女を脅し、連れてきてやる」とアフガン女性とのお見合いまでアレンジしようとしたのだ。
一方で、彼は訪れたことのない先進国には好奇心と憧れをむきだしにしてきた。僕が持っていた日本製の最新型オート一眼レフカメラには怒りの表情を浮かべながらも、目を輝かせて触っていたし、「ボクも日本で働けないかな。招待してくれよ」と意外にも懇願されてしまった。答えに窮してしまったのは言うまでもない。
彼らを、日本の戦国時代のサムライのような人たちだと考えるとわかりやすいかもしれない。戦争がなければ、人のいい田舎の兄ちゃんたちなのだから。
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ひとり歩き(2)
女性たちの置かれた悲惨な状況
タリバンがアフガニスタンの首都カブールを制圧した96年以前、都市に住む女性たちには、戦乱のさなかにもかかわらず、ささやかな自由があった。教職などで働くことができたし、洋服を着るオシャレを楽しんだり、医療や教育を受けるチャンスを持っていた。
だが、タリバンが実効支配して以来、情勢は一変してしまった。
学校や職場から女性たちが追い出され、頭の先からつま先までを覆う窮屈なブルカの着用を強制され、着飾った女性たちが街角から消えてしまったのだ。女学校は秘密裏での授業を余儀なくされ、家の外での労働はできず、収入の手段を絶たれてしまった。
2年前、僕が行ったカブールでは、こんなことがあった。
ジャララバードへ向かうワゴンに乗ろうとすると、あちこちが破れ、汚れでくすんだブルカで全身を覆った女たちが悲壮な声を出しながら僕の前に立ちふさがった。働くことを禁じられ、困窮してしまった戦争未亡人たちなのか。その死にもの狂いの気迫に圧倒されそうになったが、なんとか突破し、乗り込んだ。
それでも、彼女たちはあきらめず、コンコンと窓を叩いたり、窓をこじ開けて手まで入れてくる。そして、口々にこう叫んだ。
「バクシーシ(お恵みを)」「バクシーシ」…。
その執拗さに怖くなった僕は、なかの1人に、お札を渡してしまった。すると、お札の壮絶な争奪戦が始まり、収拾がつかなくなってしまった。「申し訳ない」。ガラス越しに彼女たちを見ながら後悔した…。
一方、地方の女性たちは非舗装の道路で電気すら通っていない土地で、現代社会とかけ離れた生活を送っていた。学校がまったくない町や村がアフガン全土に存在。都市に比べると、まともな教育や医療を受ける機会が少なく、非識字率は女子の場合、タリバンの登場前でも実に90%に及んでいた。また、外出の際は、もともとブルカ着用が当たり前のところが多い。
タリバンの最高指導者ムハマド・オマル師の地元・南部カンダハルは保守的だから、その地方の女性の中にはタリバンの“圧政”(特に都会人にはそうみえるだろう)をなんの抵抗もなく受け入れた者もたぶんいるのだろう。
もっとも、例外的な女性たちもいる。カンダハルからカブールまでの道中、偶然、見かけた遊牧民たちだ。タリバンの支配地域だというのに、女性は頭に赤いベールを付けただけで、堂々と顔を出していた。
彼女たちはタリバンによる圧政も内戦もどこ吹く風といった様子で、家族や家畜とともに参勤交代のような長大な隊列をつくり、自由奔放に移動していた。
もしかすると彼女たちは今、行われている米軍の攻撃など、「自分たちには関係ないこと」と思っているかもしれないし、攻撃の事実すら知らない可能性だってあるかもしれない。
都会、地方、遊牧民とそれぞれの立場の女性たち…。彼女たちから、いろいろな意見を聞いて、国の実情をもっと知りたかった。
でも、10日間のアフガン滞在中、女性と会話する機会は結局、一度もなく願いはかなわなかった。
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ひとり歩き(3)
移動中もドキドキの連続
98年4月末、パキスタン西南部チャマンからバルダクを通ってアフガニスタン入国を果たした。今は難民との押し問答が続き、注目を集める国境だ。パキスタン側の峠を越えたところの荒野にあり、当時はトラックやコンボイが数多く行きかっていた。
「国際的に無視されている最貧国だし、内戦が続いていた。車両や人々もいないんだろう」。僕は、こう予想していたから、その賑わいが意外にみえた。
国境では出・入国検査をするのがルール。だが、パキスタン人同様の民族衣装シャルワルカミーズで変装していたため、国境を越えてしまっていた。
パキスタン側は舗装されていたが、アフガンに入ると急に道が悪くなった。轍の深い砂嵐の舞う悪路で、地雷を避けているのだろうか、ワゴンは時々道を外れて走った。パキスタン内は派手派手のトラックやバスが主流だったが、アフガンでは廃車寸前の日本製ワゴンやマイクロバスが目につくようになっていた。
カンダハル→カブール→ジャララバードというルートをとった。ジャララバード郊外にさしかかると、驚くべきものが目の前にあらわれた。
「ククナル(アヘン)なんだ」。同じワゴンに乗っていたパキスタンの通信社記者が僕にこっそりと教えてくれた。沿道を見ると、そこは驚くことに一面のケシ畑が広がっていた。
5月初旬は狩り入れの真っ最中で、刈り取られたケシが沿道に積まれていた。ケシ坊主に傷をつけ、にじみ出てくる汁がアヘンとなり、それを精製したものがヘロインとなる。
タリバンは認めたがらないが、アフガンは世界最大のアヘン生産国。アフガンから、世界中に麻薬がばらまかれていくのだ。
カンダハルからジャララバード→トルハムに到る国境までの道中はテロ組織の訓練施設や、ケシ畑が付近にある事情からか、とにかく検問が多かった。検問にさしかかるたび、銃をかついだ兵隊に車をとめられ、ボディーチェックや荷物検査をされた。
写真撮影に極めて敏感なタリバン。「カメラを発見されれば没収、最悪、収監されてしまうかもしれない」と、僕は道中、ずっとビクビクしていた。
なんとかカメラを守り切って、バスは国境のトルハムにたどり着いた。何百メートルも続く緩衝地帯を歩き、ようやくパキスタン入国を果たした。だが、ペシャワル行きの乗り合いタクシーに、自動小銃を肩にかついだ警官がいきなり乗りこんできやがった。
警官は「危険だから、同行が必要」という。銃をそばで見せられたわけだが、驚くことはなかった。アフガンのように検問を気にすることがなくなったからだ。
僕が通ったアフガンルートは、パキスタン→アフガンの関税がかからないヤミ貿易ルートそのままだということを帰国後、知った。ペシャワルまでのカイバル峠沿いの集落には、日本の電化製品などの市が立っていたが、きっとアフガンから運び込まれたものだったのだろう。
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ひとり歩き(4)
どこに行っても廃墟…
マイクロバスでアフガニスタンの首都カブールに到着する直前、峠からカブールを見下ろすことができたが、とても“都市の夜景”とはいえない風景に驚いた。当時(2年前)、クリスマスツリーのイルミネーション1本ほどの光量しかない貧弱さだったのだ。
街に入ると、核戦争で人類が滅亡してしまったような“廃虚のビル街”が暗闇にかすかに浮かんでいただけだった。中心部にあったマイワンドホテルは4−5階建て。1泊10万アフガニ(約360円)。電気や照明はなく、ガスランプだけ。窓にはガラスが一切なく、天井は焦げていた。
こうしたホテルは、アフガンでは特に珍しいわけではない。長い戦争で、インフラがメチャメチャに破壊されているのだ。ジャララバードこそ電気が通り、中心部は舗装されていたが、カンダハルとカブールでは見る影もなかった。
外務省や警察署などタリバンが接収している建物などを除き、ほとんど電気や窓ガラス、電話も水道もななかった。電柱の表面はヒョウ柄状に弾痕が残り、電線は垂れ下がったまま。トイレは野外。空き地に、こんもりと盛りあがった“物体”は悪臭を放ち、今にも伝染病が発生しそうだった。
最近、「米軍の攻撃により市内が停電した」という記事を読んだが、本当なら、タリバン時代にようやく復興してきたのに米国がまた破壊してしまったことになる。もし、そうなら許せないことだ。
ところで、食事は、特に困ることはなかった。大きな都市には、ホテルの中の食堂や屋台、チャイハネ(喫茶店)がある。食堂には緑茶(カワッ)があった。日本のよりは薄いが、十分おいしかった(2500アフガニ程度=約9円)。干しぶどう入りピラフのビリヤーニが2万アフガニ(=約72円)。
またアイスクリーム屋やアフガン風お好み焼の屋台もあり、好き嫌いを言わなければ食事に困らなかった。1日1000円もあれば、十分だった。
物価は安いが、アフガン人は生活が苦しい。外科医のようなエリートでさえ月5ドルの低収入。仕事があるのはまだいい。戦争ばかりで、麻薬とヤミ貿易以外、これといった産業がないからだ。
最高学府のカブール大学を卒業したというインテリ青年も家で暇をもてあましているありさまだった。
暇といえば印象的だったのがカブールのチキンストリートの人たちだ。戦争以前、ヒッピーたちが集まった通りで、沢木耕太郎氏の「深夜特急」にも様子が書かれている。
アンティーク土産を扱っている店が並んでいるが、旅行者は皆無。客らしい客もおらず、どの店も閑古鳥が鳴いていた。そのひとつに50歳ほどの店主が何をするでもなく、入り口に絨毯を敷いて座っていた。
僕が英語で「1日、お客はどれくらいくるの」と聞くと、おじさんは「1人か2人くれば、いいほうだ」と寂しそうだった。
その視線には空虚さがあり、かつての繁栄を懐かしんでいるようだった。アフガンに平和が訪れ、旅行者が戻るのは、いつの日だろうか。
(旅行作家・西牟田靖)
【にしむた・やすし】1970年、大阪生まれの31歳。旅行作家。神戸学院大学在学中から世界を放浪。アフガンや空爆下のユーゴなど危険地帯を貧乏旅行し、これまでに世界44カ国を訪問。近著に「世界殴られ紀行」(ワニマガジン社)など。