投稿者 skk 日時 2001 年 10 月 14 日 17:31:40:
The Times - London タイムズ紙 (英 ロンドン)
"The man to really fear(真に恐るべき男)"
by リチャード・オーウェン、ダニエル・マックグローリー
10/11/01
sorry for シロウト訳, 原文はこちら:
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/1184/nikki/1001.html
西側の諜報機関は長年にわたって アルカイダを操っているのは ビンラディンではなくアイマン ・ザワヒリであることを突き止めている。
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9月11日以来 あの痩せて不気味な目のサウジ出身の億万長者、ビンラディンの名が知れわたり、アメリカの“対テロ戦争”の主要ターゲットにされている。
しかし NYおよびワシントンにおけるテロを背後から操るブレイン、大いなる悪魔(アメリカ)に対する全イスラムのテロ活動のマスターマインド(指導者)はラディンではなく、しばしばNo2として登場するエジプト出身の内科医、アイマン・モハメッド・R・ザワヒリである。
さらに このことはエジプト諜報機関ではかなり以前から知られており、米、英においてもまたマークされていた。
エジプトは 人々がビン・ラディンやアルカイダを知る以前から長年にわたって 米・英西側の安全にとって真に危険な人物はこの穏やかな風貌の中年小児科医であると警告してきた。
ザワヒリは国内の重要指名手配リストのトップに挙げられており、 ロンドンやワシントンへ伝えられてファイルされながらも 当局の目にはとまらなかった。
白いヒゲを剃り落とし、髪を染め、黒縁のメガネをかけて、 アフガニスタンの子供たちや未亡人たちのための多額の寄付金を集めと称してテキサスやカリフォルニアそしてニューヨークのイスラム寺院やコミュニティーセンターをまわっている。
デイナーパーティーの席で喜んで小切手帳を開いたアラブの億万長者らと握手してはぺシャワ-ルの事務所にひそかに戻り、着々と全面的な聖戦開始のために必要な人員を蓄積していたのであった。
VTR放送では常にビン・ラディンに並んで 少し背の丸い医者が出ている。
いつも最初に しかも最も雄弁に話すのでCIAは彼のことを" warm-up マン"とよんでいる。
最近のVTRでは はじめにマイクを差し出しているのが彼だ。
爆撃が開始されれば それを世界中へ放送するようにとの指示付きでテープをカタールの衛星TV局(al-Jazeera)へ送ったのもザワヒリである。
彼らの組織は一人だけに頼らない。“ビンラディンを殺すか捕まえても第2の人物あるいはさらなる同調者が戦闘を続行するであろう”と米の国防上級士官が昨日語った。
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ただ一人ビン・ラディンの顔写真だけを アメリカ人は射撃練習場で的の上に貼り付けているのだが、エジプト人は何年にもわたり ラディンの主治医であり腹心の友こそが間違いなく 最も隠れた残虐行為の首謀者であると信じている。
ザワヒリは 西側の標的を攻撃すれば--ナイル河クルーズの観光客を爆破するような--世界中が直ちに注目するということを以前から知っていたのである。
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カイロの情報筋では ザワヒリの“卓越しているが屈折した頭脳”が米における自爆攻撃 の背後にあると確信している。 これはアメリカを“対イスラム戦争”へ誘い込む3年計画のうちの一つであり、イスラエルの崩壊と米の中東からの撤退を目的としたものである。テロリスト網のルーツはアフガンの山中やサウジアラビアではなくエジプトに存在する。
エジプトは穏健派イスラム教国で ベリーダンスやツタンカーメンの財宝、ピラミッドやナイル河クルーズなどの観光地である。
そしてここは歴史と親切なもてなしを誇りにする8700万人の礼儀と教養のあるアラビア人の故郷でもある。一時 パレスチナやヨルダンと同じく英領であったが、いまなおコスモポリタンを誇っている。
その政治的な安定は 1981年にサダト大統領の暗殺以来エジプトを支配してきた元空軍パイロットであるホスニ・ムバラク大統領によってもたらされている。
ヨルダンのアブドラ国王とならんで 混乱した中東世界における秩序と理性のシンボルといえる。
しかしこの表面の渦の下に、イスラム原理主義の奔流はal-Gamaa アル-ガマーやal-Islamiyaアル-イスラミヤおよびエジプト・イスラム・ジハードらのグループによる西側の観光客に対する攻撃というかたちで時に現れる。
ムバラクは寛容と非情でこれらを抑えこんで生き残ってきた。
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軍事パレードにエジプト軍隊の服を着た殺人者が紛れこみ、ちょうど大統領の指揮壇へさしかかったとき、1979年イスラエル和平を強行した“イスラムの裏切り者”へその銃口が向けられた。これがエジプトのイスラム・ジハード であった。
このときはだれも気づかずなかったが、そのとき暗殺 の背後にいた人物、エジプトのイスラム・ジハードの影の人物 がザワヒリであったということがいまようやく明らかになった。
“ザワヒリはイスラムテロのイデオローグかつ遂行者である”とカイロの外交官は語る。
仮にラディンの米に対する生理的嫌悪の根が米軍の湾岸撤退への渇望からきているとするならば、ザワヒリの妄執の根源はエジプトにある。
ムバラクの不安は続くが、’97のルクソールの観光客襲撃以来 エジプト国内でのテロの兆候はほとんどない。エジプトのイスラムテロがザワヒリによって上手く輸出された場合、“再輸入”される可能性があると反テロ専門家はいう。
もしエジプトで 米・英のアフガン進入攻撃反対の路上集会などがあれば、イスラム・ジハードは休止していたとしても 大きな危険性を含んでいる。
9月11日の攻撃での自爆パイロットのす少なくとも一人がリクルートされたのはカイロ市内にあるザワヒリの母校の大学であった。鋭い目をしたハイジャックのリーダー、モハメット・アタはこのエジプト・イスラム・ジハードに所属するザワヒリ手摘みのメンバーの一人であった。
現代の多くテロリストと同じく、ザワヒリは貧しい家庭の出身ではなく、反対に豊かで信仰的な中流家庭に51年 に生まれた。彼の祖父はアル・アザール大学のスンニ派の大司僧であった。
大おじはアラブ連盟の最初の事務局長を勤め、父親は薬物学の教授で6年前に他界している。
1974年父親が教壇に立ったカイロ大学医学部を卒業、小児科医としての>快適な経歴が約束されていたが急進的政治が彼を魅了した。
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(つかれたので中断、あとの1/3は 自分でよんでください。筆者より)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/1184/nikki/1001.html
The Zawahiri dossier 経歴
1951
エジプトの裕福な家庭に生まれる。祖父も父も有名な宗教者や学者。
1960s
闘争的排他(排英)的イスラム派グループMuslim Brotherhood, に所属し 15才の
とき逮捕される。
1970s
1974 に大学を卒業し小児科医となる。
1978
エジプト国内イスラム聖戦運動のリーダーとしてサダト大統領暗殺計画に関与。
1981
サダト大統領暗殺後、小銃所持で3年服役。
1984
エジプトを出て対ロシア闘争 ムジャヒディンに参加。
このときはじめてビンラディンに出会う。
1998
東アフリカの米大使館爆破をビンラディンと共謀
2001
ザワヒリの娘とラディンの息子が結婚。いまやラディンの親友であり 主治医であり
(おまけにミウチ)である。