若干補足

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投稿者 阿部政雄 日時 2001 年 10 月 08 日 09:42:33:

回答先: テロ?:日本人の急務は裸の止め男で落とし所は石油資源の平和的利用 投稿者 木村愛二 日時 2001 年 10 月 07 日 08:14:47:

昨日(10月7日)の中目黒での「アラブ中東問題研究会ーー米国の連続テロ事件と
パレスチナ問題」には、Chance事務局の小林さんを始め、日本が戦争の方向ヘ
引きずられることを憂慮する団体の代表や個人の方が集まって頂き、十分のPRではな
かったが、その多くの方がインターネットで案内でこられた方が多かったことは、電
脳通信の威力をタ感した。

ここで、もう10年振りぐらい御無沙汰していた、木村愛二氏にお会いできたのは、
嬉しかったけれど、早速この欄で木村氏から昨夜も模様を報告頂いたのは感モに絶え
ない。


>  阿部さんは、イラク大使館の顧問的な役割を買って出ているから、タ感に基づいて、
湾岸戦> ・ネ来の日本の対米従属の不様な振舞いによって、「イラクの対日感情が悪化している
」と言う
> 。その通りであろう。
>
>  しかし、阿部さんとも旧知の仲で同年代の中東史の大御所、板垣雄三さんは、さる9
月27日の集会で、「長らく欧米の植民地支配で苦しんだアラブ人は、日露戦争以来、
日本に片思い$BL"の恋心を抱いている」との主旨の歴史的関係を述べた。これまた私
が繰り返す必要のない国際的な認ッであろう。イラクの対日感情の悪化は、いわば裏
切られた恋の恨みである。

の項目については、若干補足させて頂きたい。

 一つは、小生がイラク大使館の顧問的役割云々については、面映いことですが、小
生は午後だけ大使館の仕事をしていることは事タであり、日本とアラブ諸国との関係
強化の仕事をもう45年位の続けている以上、小生の経験、知ッが役立っているので
はないかと思っている。
 
 さらに、付言すれば、イラク大使館を手伝うことを承諾した時も、小生が1966
年から1980年代末まで20年以上、アラブ連盟東京事務所に勤務していた関係上、
在日のアラブ大使館全体との関係を続けることを承認してもらっていることである。
従って、小生とアラブ諸国大使館との関係は今なお強固であり、サウジ、エジプト、
チュニジア等あるゆる大使と昵懇となっている。ただアラブ大使館の数が14ぐらい
あるため、中々連絡する時間的余裕がないこと、外交官は3年ぐらいで交替されてし
まうことなどが悩みである。

 木村さんとは、「湾岸戦争に税金を使わせない平和訴訟の会」と御一緒した経験が
ある。しかしこの訴訟の会の多く方とは親密な関係を保つことが出来たが、小生がイ
ラク大使館の仕事をしていることから、小生との協力$BpgS躇する、はっきりいえば”
招かざる客”扱いされ、ゥ然と足が遠のいた苦い思い出がある。


 今一つはイラクの対日感情は悪化しているというは、イラク政府が日本の余りにも
親米的な政策をとっていることに嫌悪感を抱いていることは事タではあるが、決して
日本国民に対して悪感情を頂いているわけではな区、何とか日本の関係は湾岸戦争前
の緊密な関係に戻したいと真剣にかんがえていること、さらに、8月下旬に衆議院予
算委員会の野呂田委員長を団長に10名の衆議院議員(ゥ民4名、民ミ3名、公明、
保守、共産、各一名)のエネルギー事情調査団がイラクに3泊4日訪問したばかりな
どで、この訪問が日本の政界にどんな影響を与えるか、じっと見守っているのも事タ
である。

 また、板垣氏の言葉の引用があったが、小生ゥ身がこれまでのアラブとの関係で最
も力を入れているのは、主として第2次大戦後の日本とアラブの交流の歴史である。
(戦前までの歴史については東大教養学部助教授の杉田英明氏の著書「中東と日本の
文化交流史」がある。)


 戦後の日本とアラブの文化交流については、小生ゥ身が1965年の「ツタンカー
メン展」などに関与してきたが、詳しくは小生のホームページ「日本・アラブ通信」
(http://www.japan-arab.org)のプロフィールの中で紹介した「日本に恋したアラブ
に恋して」とか、その中に連載コラムアラブ千一夜」を参照して頂きたい。意づれ1
冊の本にまとめたいと思っている。

 小生のホームページはアラブに関する限り、もっとも内容の豊富なサイトとして
Yahoo JAPAN とか インフォーシークとかで、開始直後から、推薦を受け、1年8ヶ
月で、3万5000のアクセスをうることが出来た。大いに活用頂けば幸甚です。


このサイトを開かれるのは御面倒でしょうから、「日本に恋したアラブに恋して」を
意か紹介させて頂きます。

_______________________


月刊雑誌『黙』11月より転ハ  

「日本に恋した、アラブに恋して」
アジア解放に燃えた軍国少年  

アラブと出合い、関わりをもってから四十五年以上の歳月が流れた。平凡ミの創立メ、
下中弥三郎氏の主催する「世界宗教メ会議」の国際部書記として、オスマン・ エベ
イド駐日エジプト大使にお会いし、その高潔な人柄にエジプトへの開眼をさせら れ、
一九五オ年末、カイロの「アジア・アフリカ諸国民会議」に日本代表団の通 訳兼 事
務局員として参加して、アラブ諸国にみなぎる親日感情の熱気に感動したことがアラ
ブとの出合いであった。

この四十数年の間に、主要なアラブの国十三カ国を訪問すること約五十回に及び、
国内でも、在日エジプト大使館文化部、アラブ連盟東京事務所、イラク大使館その他
の大使館の文化・教育部の仕事を中心にアラブ関連の仕事に従事し続けてきた。

そうしたアラブ一辺倒の仕事に専心してきた私にいちばん多く寄せられるソ問は、
「あなたはなぜアラブ(発展途上国の意)に関わってきたのですか」という問いであ
る。

その答を端的に言えば、筆メが戦中派のしんがりに属する世代であったからである。
ご多分にもれず軍国少年だった私は、「大東亜共栄圏」建設のための「皇道宣撫 班」
に憧れていた。といっても皇道宣撫班がタ際に日本帝国主義の先兵としてアジア諸国
民に対してどんな役割を果 たしたかをまったく知らなかった。そのタ体を知った の
は戦後数年経過してからで、少年時代の私は、あの戦争が「五族共和」「東洋平和」
を築く「聖戦」であり、宣撫班とはそのための伝道メと信じていた。

当時の私には国家を疑う批判力などあろうはずがなかったし、「大東亜共栄圏」 の
タ態がその看板と似ても似つかぬものであったとしても、そこに民族の夢である
「アジア解放」の構想があったことは事タであり、それが正義感に燃える少年の心に
一つの夢として映っていたのである。

大東亜戦争の勃発は、中学一年生の年の暮、昭和十六年(一九四一)十二月八日のこ
とだった。その朝、勇ましい軍艦マーチのあと、「帝国陸海軍は、本八日未明、 西
太平洋において米英両国と戦闘状態に入れり」というラジオのアナウンスを「いよい
よ来るべきものがきた」という厳粛な気持ちで聞いた。

戦局も厳しくなった昭和十八年、当時、旧制私立名古屋中学校三年生の授業の三 分
の一は、高ヒ砲陣地や兵器産業への勤労動員になり、四年生になると学校の授業は全
面 的になくなった。  

食糧事情も悪化し、食堂の昼食が塩筌での満州大豆だけということがよくあった。
無性にわびしい気持ちに襲われた私は、ときおりその豆を数えながら食べた。一食分
が百三十五粒位だった。着るものもすぐ穴が開くスフ(人造絹糸)でできていて、お
まけに靴までスフという始末。雪中、工場の庭を軍事教練として三八銃を担ぎ、
日本男児と生まれきて
いくさの場に立つからは
名をこそ惜しめつわものよ
散るべき時に潔く散り
皇国にかおれ桜花
と「『戦陣訓」を歌いながら行進したが、破れ靴のため、雪が足に突さすように 痛
かったことを四十数年たったいまでも鮮明に覚えている。

また、何十回となく「海征かば」を歌わされた。
海征かば、水ずく屍
山征かば、草むす屍
大君の辺にこそ死なめ、 還り見はせず。
当時、「現人神(あらひとがみ)天皇」のために立派に死ぬ ことが個人にも家族に
も名誉とされていた。戦局の急迫につれ、私の周辺から軍隊に応召するものが出はじ
めた。特別 幹部候補生や予科練への入隊を祝う壮行会が月に一回、二回と、工場の
片隅で行なわれ、われわれは二、三十人で円陣を組み、戦闘帽を握りしめて、声も枯
れよと軍歌を歌った。

「艶歌より軍歌に悲し戦中派」とも言うべきか、親しかった友も雲流れる果 てに散
り、あるいは軍需工場でアメリカの爆撃機の犠牲となって還らぬ 人となり、いまの
高校生の年令であった私も、死との対決を迫られていた。しかし、いかに徹底した軍
国 教育を受けても、夢大きな少年にとって「身を鴻毛の軽きに比す」とか「不惜身
命」の覚悟を抱くのは生やさしいことではなかった。

必至になって「武士道とは死ぬことと見付けたり」と書かれている『葉隠』を読 ん
でも、その内容は索漠としたもので「安心立命」どころか、心はいっそう虚ろになる
ばかりであった。

「狼火(のろし)は上海に上る」と『米英東亜侵略史』

そんな軍国少年だった私がアジアに大きく目を開かせたものに、一本の映画と一 冊
の本がある。映画は、日本の敗色が濃くなった昭和十九年に名古屋の映画館で見た日
活の「狼火は上海に上る」であった。  

ストーリーは、高杉晋作が長州藩の命を受け、武器購入のために上海に渡航した 事
タを柱としたものであったように思う。この映画のストーリーは記憶にほとんど残っ
ていず、主役が阪東妻三郎で、物語の背景に中国の太平天国の乱があったことも、二
十年ほど前に『日本映画史』(田中純一郎著)の中からつきとめたにすぎない。  

ただ、私にあの戦争は“正義の戦争”であると思いこませ、大袈裟に言えばその後の
私の進路に大きな影響を与えたシーンがある。それはイギリスの艦船の中で牛馬 の
ように働かされていた中国人苦力の姿であった。「大英帝国とは、白人とはなんて
非道な仕打ちをアジア人にしているのか」という義憤が軍国少年だった私の血を熱く
したのであった。  

アジアへの開眼を促した本は、大川周明の『米英東亜侵略史』である。A級戦犯の
一人として、軍事法廷で東条英機の頭を打つという奇行で知られる右翼のイデオロー
グ大川周明はまたイスラムの研究メで、『コーラン』を完訳した学メでもあった。こ
の本を夢中になって読み、心に強く残ったのは、イギリスやアメリカがアジアの民衆
をどんなに痛みつけたかということ、とくにイギリスのインド民衆への過酷な圧迫・
収奪ぶりである。    

あんなに感激して読んだこの本の内容をすっかり忘れてしまっていたが、十年ほど前、
偶然に神田の青空古本市で見つけ、昔の恋人にあったように嬉しかった。再び読んで
みると、漢語の多い難解な本であった。「こんなに難しい本を中学三年のころに 読
んだのか」と思ったが、やはり私も中学生なりに、あの戦争の意味を必至になって知
ろうとしていたのではないかと思う。    

当時の中学生の夢と言えば陸士(陸軍士官学校)や海兵(海軍兵学校)に入ること
だった。勉強こそゥ信があった私も、身体にゥ信がなく、猛訓練で名高い陸士・海兵
は高嶺の花。予科練や特別幹部候補生まで体力の面で門前払いを食らうのが関の山で
あった。ある日、「あの旗を撃て」という軍国主義映画で、軍属となった中学校の英
語教師がマレー半島で捕虜となったイギリス軍将校を英語で尋問するシーンを見たと
き、私は「これだ」と心で叫んだ。身体が頑健でなくても国家に尽す道はある。「英
語の通訳になろう。そうすれば皇道宣撫斑員として立派に国家に奉公できる」と小躍
りした。それから小野圭の『英単語集』をポケットに忍ばせ、工場の休憩時間に単語
を記憶した。学校がプロテスタント系のキリスト教学校であったことも大きな助けで
あった。  

しかしそのころ、中国大陸から一時帰還した人の土産話として、日本将兵の中国 民
衆への蛮行・暴虐の限りを聞いた。そのとき、美しい青空が一度に暗黒の黒雲に空に
変わり、奈落の底に突き落とされた気持ちに襲われ、前のようなひたむきの軍国少
年でなくなっていた。これは私の心の中での日本の敗戦を知らせるものだった。  

昭和二十年の春、三河湾に来たアメリカの空母から発進した艦載機が、いまの豊田市
の山の手に疎開していた工場を空襲し、松林めがけ一目散に逃込むわれわれを追っ
かけるように機銃掃ヒをしてきた。  

私は松の根元にしがみつき、「バリバリ」という樹に弾の当る音を聞き「お母さん、
僕は死にたくない!」と震えた。たった一発の弾で人の運命を狂わせてしまう戦争の
非情さをいやというほど痛感した。この体験はまさに戦争中に受けた最大の恐怖であ
り、このごろふと、私はあのとき死んでしまい、いまのゥ分はその亡霊ではないかと
思うことまである。  

広島に新型爆弾が落ちたニュースが伝わってきた蝉時雨のかまびすしい八月の半ば、
日本の全面降伏を告げる天皇の詔勅がラジオから流れてきた。  

終戦後の一、二年は、だれもが一日を生きることに精一杯だった。おそらく、$B"bIの
山に立ったほとんどの日本人は、「こんな悲惨な戦争は二度と繰り返すまい。日本が
例え、三等国、四等国でもいい。世界の平和や幸福に奉仕する平和国家、文化国家と
して再出発しよう」という新たな決意を抱いたと思う。

私がいま生きていることは、あの戦争で散った人々が私に「生きろ」と言ってい て
くれているような気がしてならない。生き残ったゥ分は、友の霊を慰めるためにも、
二度とこのような悲惨な戦争を起してはならないと心に強く誓った。 (次回に続く)

バンドン会議の衝撃とアラブへの目覚め  

戦争体験とともに、私の生き方に大きな影響を与えたのは、一九五五年にインド ネ
シアのバンドンで開かれ、「国際正義と世界の平和、繁栄に参画しよう」と新興諸
国の声を高らかに宣言したアジア・アフリカ会議であった。この歴史的会議を通 じ
て、 戦時中私の胸を焦がしていた“昔の恋人”アジアは、国際政。の舞台に大きく
登場したのだ。  

二十九カ国の独立国家が参加したこの会議に、日本からは高碕達之助国務相が出 席
し、ネール、スカルノ、ナセル、周恩来らアジア・アフリカの指導メと懇談した。
このバンドン会議の原則は「主権尊重」「内政不干渉」「平和共存」「互恵平等」で
あり、その宣言は、人類のあるべき指針を表明した格調高いものであった。私はこれ
こそ戦時中に憧れた「大東亜共栄圏」の本来あるべき精神だと思った。戦時中日本は
「アジアの解放に貢献する」と言ったが、このバンドン精神を学ぶのはむしろ日本の
ほうだと思った。「アジア・アフリカのために働くことこそ、新生日本のために不可
欠」という信念が、私の中で不動の確信へと変わっていった。戦時中に信じていた
「大東亜共栄圏」が虚像に過ぎず、終戦で崩れ去ったのが無念で腹立たしかった。あ
の戦争を聖戦と信じて死んだ多くの先輩や級友たちやアジアで死んでいった多くの罪
のない民衆の霊を慰めたいという気持ちが芽生え、生き残ったメだからこそ、アジア
との真の提携の在り方を追求して行動しようと思い、今日に至ったと言ってもいい。
 

一九五四年に上京した私は、下中弥三郎氏のもとで、「インド友の会」の事務局を
担当していた。そして下中氏がその年の秋、安藤正純国務大臣と共に発起人となった
「世界宗教メ会議」の国際部員として東京の麻布にあった駐日エジプト大使館を訪れ、
オスマン・エベイド初代大使に同会議の招待状を持参したのがエジプトとの最初の出
合いであった。これはタに幸運な出合いで、ユーモアに富んだ詩人で革命家で外交官
である大使に接し、アラブ人とはこんな立派なのかと、魅了されてしまったのである。
 

そのころ、東大イラン・イラク発掘隊のメンバーとして参加し、その後エジプト を
訪問して帰国した当時の東大助教授、小掘巌氏から、「アラブ諸国にみなぎる明。
維新以後の日本への憧れは『まだ見ぬフィアンセ』の思慕にも似た感情だった」と聞
き、とても強いインパクトを受けた。  

日本人がアラブ諸国で憧れの対象になっているのが新鮮な驚きであった。が、現地
に足を運ぶにつれてこの親日感情を確信し、エジプトの高官から「われわれアラブ人
は日本に長い間プラトニック・ラブを感じている」という言葉を聞いた。  

西欧の植民地主義の下に呻吟していたアラブが抱いた親日感情の沿源は、極東の 小
国日本が西欧の大国ロシアを打負かした日露戦争であり、第二次大戦で日本が英・
米・仏など西洋の植民地国家と勇敢に戦い、アジアでこれらの軍隊を駆逐したこと。
また大戦後、原爆で壊滅したと思っていた日本が、一九六〇年代から世界の工業大国
として不死鳥のように再登場してきたことに対する賞賛の賜物である。  

日本の軍靴で踏み付けられた経験のないアラブ諸国では、「夜目、遠目、傘の内」の
たとえのように、日本のいい面 のみが大ハしになったためであろう。いわば、日本
への一種の「英雄待望論」と言ってもいい。  

下中氏のもとで「インド友の会」事務局員としての仕事を続けていた私の関心は、
次第にアラブとの連帯運動に引かれ、その運動に参加するようになった。  そして
冒頭に書いたように、一九五オ年末カイロで開かれた「アジア・アフリカ 諸国民会
議」に日本代表団の事務局員兼通訳として加わることができ、この会議で私 は、そ
れまで世界の片隅に追いやられていたアジア、アフリカの民衆の躍動溢れる姿 であ
り、植民地主義$BLgbの下に喘ぐアフリカの民衆の燃える独立への叫びと、イスラ エ
ル建設によって郷土を奪われたパレスチナ人民の戦いなどを目撃した。  

会議の二年後、私は駐日エジプト大使館文化部への勤務を要請され、その後の五年
間、エジプトと日本の文化交流の仕事を手掛けた。一九六三年に朝日新聞主催で開か
れた「エジプト美術5000展」や、一九六五年の「ツタンカーメン秘宝展」等を含
む文化交流を担当し、カイロ国際民俗芸能フェスティバルに参加したり、その他、意
義ある文化交流のいくつかに携わった。  

また、アラブ連盟東京事務所が開設され、誘いを受けた私は連盟内部にオ年勤務 し、
外部から十三年助力することとなり、仕事の領域もエジプト一国から、アラブ全 域
へと拡がった。  

連盟に働いていた折、「アラブは親日感情のしみ通った大地だ。ここに種を撒き育
てることは、われわれの義務だ」というアラブ連盟駐日代表部副所長で、スーダンの
外交官、アブデル・ラーマン・マーリ氏の言葉に共感を覚えたものである。  

カイロでアラブの人々の親日感情を体験してきた私は、日本とアラブとの親善の
「種撒く人」、「友情の懸け橋」という役割を果たすことに私なりのロマンを感じ、
やり甲斐のある仕事だとゥ覚するようになった。アジア、アフリカは戦時中の旧制中
学校時代の恋人だったし、戦時中に勉強した英語が役にたったことも嬉しかった。
 

そして、アラブ側からサデーク(心の友)という称号を得て、「アベは“ハート”
でわれわれのために働いてくれる」と評価してくれた。しかし、私はアラブのために
働いたという意ッより、日本の将来のため、アラブ諸国のために働こうと決意した。
「アラブのために働くのは日本の国益」という私の主張は、アラブ側から信頼をうる
所以となった。  

アラブ諸国を訪問するにつれ、人類文明の搖藍地であるこの地域の歴史の奥深さ を
痛感し、同時にヨーロッパ、アジア、アフリカの結節点という戦略地位 と、豊富な
石油資源に恵まれたことが仇となって、大国の干渉により動乱果 てしない「世界の
火 薬庫」になっていることも理解した。  

イランイラク戦争が始まって間もない一九八二年初頭、バグダードの公園に十五、
六才のイランの少年捕虜を見た。イラクとの戦争を“聖戦”と信じて「アラー、アク
バル(神は偉大なり)」と唱える青年の姿に私は戦時中の軍国少年の姿を見る思いが
して愕然とした。戦争の最大の悲劇は、「ゥ分の運命が他人の力で簡単に決められて
しまう」ことと、互いに罪のないメ同士が戦わされることである。(次回完了)
相互理解のためのダイレクトな交流を
 
一九オ三年のオイルショックの後、中東地域のへ関心も高まり、東海大学から 「中
東研究」という講座をもって欲しいという要請を受けた。東海大学での講師は、 昨
年退職するまで二十五年続いたが、若い学生と接するこの仕事は私にとってメッセ
ンジャーとして成長する貴重な経験となった。もちろんこれからもメッセンジャーと
して、一般の人々に中東、アラブのさまざまな問題を伝えていきたい。  

不幸にして、世界には戦争とか、民族的抗争があまりに頻繁に起こっている。しかし
その多く$BLga轢は、戦う相手の国民に対する貧弱な認ッと誤解から起きる。ときに
は敵愾心をあおるマスメディアの情報操作すら感じることさえある。  

もちろん、アラブが恋人といっても「あばたもエクボ」ョにほれているのではない。
極端な貧富の差、高級官僚の腐敗など、胸の痛くなるような現タもある。しかし、欧
米諸国はそれを是正しているのかという、むしろアラブの民主的発展、経済的ゥ立を
妨げているのは、これら旧植民地国家なのである。  

国際ミ会に対処する定見もなく、次世代の国民の幸福までを犠牲にしている政。指
導メの数では日本こそ世界有数の大国である。  

中東アラブ地域は重要地域と言われるのとは反比例して、最も知られていない地域で
もある。それは、この地域が長い間西欧植民地国家が囲み込んだ縄張りで、また 潜
在的に親日的な土壌をもつため、日本の進出を好まない勢力が存在するからである。
西欧のマスメディアは、この地域のごたごたや後進性に力を入れて報道しても、その
タ情を正しく知らせる努力を払ってこなかった。そういう意味では日本のマスコミの
方が比較的客観的と言える。しかし、まだまだその情報量は圧倒的に少ない。  

正直言って私はアラブに限らず、諸外国の後進性や、陰の部分に光を当てるジャー
ナリズムに否定的である。そんな記事を読むほど閑人ではないし、新渡戸稲造博士の
言うように、「外国を知ることの究極の目的は日本を良くすること」だからだ。  

幸い、アラブ諸国の国民の間で、日本人に対する信頼は今もなお健在である。筆メ
は弧の9月下旬にイラクで行われた「バビロン国際音楽祭」に参加した。バグダード
を走るゥ動ヤの8割は日本製である。何十年走っても、修理さえすれば立派に走る精
巧なゥ動ヤを製造する日本人への敬愛をいまでも強めている。逆に、そんな優秀な国
民と長い歴史と文化を持つ日本が、何故アメリカの腰巾着のように従属しているのか、
という日本政府へのク望はイラクばかりか、アラブ全体にみなぎっている。  

中東アラブ地域のなにを知るべきか。なによりもまず、この地域に住む人々の暖かい
人情である。もちろん、商取り引きでの交渉がタフであることは事タだが、中東 地
域特有のホスピタリティは、せちがらい都会の砂漠に住むわれわれにとって心の休ま
るオアシスなのだ。野心的な為政メを別 にすれば一般庶民は素朴な人情の持ち主な
のである。  

文化交流を推進するときに留意すべきは色メガネをつけた欧米のマスメディアだ。
彼らを通さない、アラブ諸国との直接的な文化交流が重要であり、さらに各国が古典
や現代ものを問わず、それぞれの国が誇る文化を見せ合うこと。素晴らしい外国の文
化と出会い、学び合い、できれば共同して新文化の創造を成し遂げたい。  

第一級の文明と言えば、ピラミッドの古代エジプト文明、世界最古の文学と言われ
る古代イラクの英雄叙事詩『ギルガメシュ』、『シヌエの物語』や、『千一夜物語』
……。さらにアラブ初のノーベル文学賞作家、エジプトのナギーブ・マハフーズ。ま
た、最近東京で行われた「地中海映画祭」でヲされたアラブ映画の名作の数々は数え
きれない。知られていないのは日本だけである。  

国際交流である以上、一方通行では意味がなく、日本からの発信が大事になる。 よ
く「日本はその経済プレゼンスは活発であっても、文化は殆ど紹介されていない」
という批判がある。では、アラブに日本はなにを紹介すべきなのか。1965年、エ
ジプトのジャーナリストのアニース・マンスール氏は私に、「小さな一個のトランジ
スター・ラジオの中に日本文化が炊きこめられている」と言ってくれたが、言外に日
本はこうした素晴らしい製品を造り出す文化やその担い手の日本人ゥ身を紹介しない
と不満を述べていた。     

潜在力を再認ッし、未来像を構築する  

筆メは一九八六年、「朝日新聞」の論壇で「日本版『知恵の館』というべき世界 的
翻訳ソフトの一大センターを建設しよう」と提唱し、多くの賛同メを得ることが出来
た。この事業を日本の新たな文化産業に発展させることで、「世界に役立つ」とい
う日本の使命とともに、日本の潜在能力の発見につながっていくのではないだろうか。
 

現在、発展途上国の最大のニーズは、どこの国にとっても人材の養成である。これは
アラブ諸国にとっても同様で、そのための教材を必要としている。明。維新以来築い
てきた日本のさまざまな教育、例えば専修学校や各種学校のノウハウを組織的に紹介
できたら素晴らしいことだろう。アラブ各国がとりわけ求めるものは技術移転だが、
これも日本の中小企業の経験をまとめ、持ち込むことで、共存共栄できるのではない
かと思う。  

イラン・イラク戦争、湾岸戦争など、幾多の動乱が続いた。また、最近でもパレス
チナの争乱があるように、中東地域の平和は常に脅かされている。だが、端的に言え
ば、こうした紛争の源のほとんどは中東の豊富な石油資源を支配しようとする超大国
が、綿密に練り上げた戦略ーーー地域内の民族や宗教対立をあおり、殺しあわせる
「分割支配」(divide and rule)という常套手段ーーー他ならない。「死の商人」で
ある兵器産業の暗躍もあろう。それを防具為に、相互理解を促進する文化の交流が何
より大切なのである。  

私がこれまでアラブとの提携の問題を追求してきたが、すでに書いたように、そ れ
は「アラブに役立つのは日本のため」であり、二十一世紀の日本の果 たす役割を見
定めるためである。  

一九八三年のバグダードで文化人のパーティがあり、イラクの代表的彫刻家、モハ
メド・アル・ガーニ氏から「あなたがアラブと付き合う目的は」と聞かれた。「アラ
ブを再発見する中で、世界に貢献できる日本のもつ潜在力を発見したい」と言うと、
彼は即座に「あなたは船乗りシンドバットだ」と言ってくれた。この言葉により、大
いにわが意を得た思いがした。  

しかし、いくらいい政策を立案しても、タ行しなければ「絵に描いた餅」に過ぎない。
アラブに「言葉は雲、行動は雨」という諺があるように、待たれるのはタ行で ある。
「学問はタ行なり」と強調し、ゥらもタ践躬行型の新渡戸博士は「首一つ振れ ば角
兵衛、獅子となり」と言われた。思想信条を越え、派閥や党派を超越して、明日 の
未来を見据えた「国家百年の大計」が必要とされる。

、完了


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