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フォーブス日本版2002年2月号〜不良債権処理の奥の手?終戦直後の「新旧分離策」
金融機関の巨大“不良債権”の処理を巡って、終戦直後の「新旧分離策」が亡霊のように浮かび上がってきた。
「銀行株の時価総額(流通株数×時価)はついに01年11月26日現在で15兆円と過去最低を記録した。これまでの最低は金融危機で騒がれた98年9月の16・8兆円。この水準すら割り込んだ。もはや、危機ではなく破綻寸前のレベルと言える」(準大手証券のアナリスト)
銀行の不良債権額の処理について、柳沢金融担当相は2007年までに半減する、との強気見解を示しているが、マーケットは信じてはいない。第一に、不良債権額がいったいいくらなのか、それすらもつかみようがないのが市場をいらだたせている最大の要因なのだ。それに、不況が長引けばそれだけ再び不良債権を抱え込むことになるのだから」(欧州系銀行の為替ディーラー)
01年3月末の不良債権残高(破産更生等債権、危険債権、要管理債権の合計)は、全国銀行ベースで3・6兆円、大手16行ベースでは18兆円に上っている。だがこれらの不良債権に計上されない「要注意先扱い」の額は大手16行で42・6兆円も存在する。経営破綻前のマイカルは、実はこの部分に属していたのだ。しかもこの債権区分については「各銀行の判断に任せているのが実情だ。銀行は登録業種でなく免許業種。となれば金融庁が線引きをして国民に公表する必要がある。海外のヘッジファンドの連中が『実態は200兆円』とのうわさをバラまくのも故なしとしない」(前出のアナリスト)
日本の金融構造はイビツである。個人の金融資産1400兆円のうち700兆円が銀行預金として眠る一方で、国家財政は666兆円の赤字、加えて銀行および民間企業の不良債権額は前述のような不透明な数字を計上しているのである。
こんな背景もあってか、「この処理に悩む塩州財務相がこのほど配下の財務官僚に、1946年に戦後処理の一環としてマッカーサー元帥が断行した預金封鎖を含む不良債権の『新旧分離政策』の研究をひそかに指示した」(政界筋)という。
●戦後処理はどう行われたのか〜預金封鎖を含む不良債権の新旧分離を強行
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し太平洋戦争が終結した。日中戦争を始めて以来8年余、国力をはるかに超える戦争の強行が国富の25%を毀損させるなど、国民生活は直接・間接に大きな被害を受けるに至った。
「(昭和)20年8月の鉱工業生産水準は、昭和10〜12年の平均の10%にも満たず、農業の生産指数は8〜10年の60%にとどまった」(『日本銀行100年史』)。しかしながら、これら物的資産の荒廃や経済水準の低下に反して、金融資産は著しい膨張の度合いを示していた。『日銀100年史』によると、1945年8月末の金融機関の預貯金残高は1954億円(うち銀行預金は1119億円)、日銀券の発行残高は423億円(7月末285億円)で、両者合計では2377億円と、日中戦争前の1937年末に比べて約8倍という増大ぶりだった。ちなみに終戦当時の民間労働者の平均給与は123円86銭である。米の価格が10キロ5円だった時代だ。
一方、政府の国債発行残高は1175億円と、1937年末比で約13倍に膨らんでいた。政府にはこれに加えて戦時補償債務1500億円が存在した。前年の国民総生産が745億円である。
「物的資産の縮小に反し異常な金融資産の膨張ぶりである。放置するとインフレになることは必至の情勢だった」(『日銀100年史』)のである。インフレは現実に起きた。まさに日本全国を覆うハイパー・インフレの始まりである。敗戦とインフレとの2重苦に迫られた政府は、翌46年2月14〜16日の間に金融緊急措置を含む「経済危機緊急対策」に関する一切の手続きを終え、16日の夕刻、突然発表した。翌17日(日曜日)をもって金融緊急措置令(勅令第83号)、日本銀行券預入令(同84号)が実施となった。強烈なインフレを食い止め、経済再建の手がかりをつかもうとするための非常手段だった。
前者が世に言う「預金封鎖」(預金支払い停止)であり、後者は流通中の日銀券を強制的に預け入れさせる措置である。インフレの元凶は国民の購買意欲の高まりにある、との認識から購買力を抑制する挙に踏み切ったのだ。すべての預貯金を封鎖し、旧銀行券を新銀行券に引き換えるというこの非常手投は、日本の金融史上、前例がないことであった。だがこれには伏線があったのである。
とりあえずインフレ防止に手を打った政府(幣原喜重郎首相・当時)の次の難問は、政府・金融機関・民間企業の持つ巨大な不良債権の処理だった。このため、まず46年8月12日に戦時補償の打ち切りを断行、国の債務1500億円を強制的にカットしたのに続き、ダメージを受けた金融機関および企業の再建のため、金融機関にあっては「金融機関経理応急措置法」、一方の企業については「企業経理応急措置法」という2本立ての法制化(46年8月15日公布施行)をしたのだ。
「この経理応急措置法は、金融機関・民間企業の資産、負債をそれぞれ新勘定と旧勘定に区分し、新勘定で今後の業務を行い、旧勘定は凍結して資産、負債の最終処理を進める建て前をとった。旧勘定は棚上げ資産・負債の勘定にして、新勘定が儲けるに従って、或いは旧勘定の中の資産が充実するのを待って債務を支払っていこうという処置。大変な知恵を出したものだ。発案者は大蔵省の人物だと思われるが、あの整理方式はまさに新旧勘定分離方式であり、後の旧山一証券の善後策(昭和40年)にも応用された」(大月高監修『実録戦後金融行政史』)
いま金融界の水面下で話題に上っている『不良債権の新旧分離政策』の発想の原本である。その思想は膨大な戦時補償の打ち切りによって金融機関や民間企業が混乱に陥らないようにすること、今後の業務活動に支障を来さないように円滑に行うことのために編み出されたウルトラ策″だったのである。
●膨大な個人金融資産の存在という点では同じ
さて、現在のデフレ環境と、当時のハイパー・インフレ環境とではロケーションそのものが180度違うが、巨大な不良債権に対する膨大な個人金融資産(銀行預金を含む)の存在・・・という点では中身はなんら変わっていない。彼ら財務官僚たちがこの研究から何を吸収し、現実問題に対応し得るか、であろう。
「経済政策の変更ないし改革には大義名分がなければならない。戦後の不良債権の分離処理には敗戦という一つのショックが契機で国民も納得せざるを得なかった。だが、現時点では大義名分がない。あえて行うのならデノミネーションだろう」(大手経済研究所のアナリスト)
デノミは通貨の呼称単位の変更だが、戦後、各国は一斉にインフレ処理のためこれを断行した。世界で唯一これを実施していないのは日本だけである。
「歴代の内閣が実行しようとして果たせなかった。デフレとはいいながら、戦後のインフレ率は物価で比較しても約2000倍近い。政府が仮にこれを決断するとなれば、不良債権処理の分離政策も難しいことではない。『デノミ』は大義名分になりうる」(同)
12月の中旬を期してIMF(国際通貨基金)から10数名の銀行検査官が来日し、不良債権の実態調査に入る予定になっている。「金融庁はこれを機に、なんらかの『外圧』を期待しているのでは…」(金融筋)との声も出始めている。(篠田 達)