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禁断の近未来シュミレーション2002年『最悪から復興へ』株価8000円、地銀連続倒産、社員半減、銀行国有化、そして・・・宮尾攻(週刊文春12/27号)
外資の日本企業襲断、地方経済破綻、MMF元本割れ・・・宮尾攻氏はこれまで全てを言い当ててきた。メガバンク経営中枢に「一度会いたい」と思わせるほどの迫力とリアリティのある近未来シュミレーションを描いて来た筆者が予想する2002年、断末魔の日本経済。
すべては二〇〇一年暮れ、長らく問題企業と目されてきたゼネコンの一角、青木建設の破綻から始まった。
記者団からコメントを求められた首相は一言、「構造改革が順調に進捗している証拠です」と言い放った。この一言で、「過剰債務企業」と呼ばれていた企業群と銀行業界に衝撃が走った。
とくに大手銀行のショックは大きかった。首相発言に追随するような形で、金融庁幹部がオフレコ発言ながら、一部のマスコミ関係者に、「青木のようなケースがニケタ出ないと・・・」と語ったという情報が入っていたからだ。
当時、「銀行擁護派」と位置付けられていた別の金融庁幹部に不利な噂話が飛び交っていたのと対照的に、不良債権処理に厳格という定評があったこの幹部の評価は、急激に上がっていた。
その情報は市場にも到達していた。市場では、ゼネコン、不動産、流通、商社のいわゆる「危険四業種」と、一部金融機関の株式だけが大幅に下がったのだ。
「首相と監督官庁がGOサインを出した」
そう取った外資系証券会社は、株価の売り浴びせによって、企業の死を早めさせ、安く買い叩こうとした。かつての長銀やマイカル破綻と構図は一緒だったが、体力がなく、破綻が続くと自らも危ない邦銀は、死に体と化した企業でも存続のために支援せざるを得ない。しかし、そこをまた、外資が売り浴びせた。
ここまでくると銀行経営者も、もはや、残された道は問題企業の処理しかないと観念せざるを得なかった。銀行内では、特別検査で厳しい引当を要求された企業への処理決定宣告が秘密裏に行われ始めた。問題とされたのは、「破綻懸念先債権」だけでなく、今回の検査で「要管理先債権」に落とされた企業も入っていた。
金融当局と銀行を心理的に追い詰めたのは株式市場だけではなかった。債券市場の混乱のほうが、より強烈なインパクトとして襲いかかった。
債券市場の混乱は、二つの原因でもたらされた。一つは国内要因だ。
全米売り上げ七位のエネルギー企業・エンロン社の倒産によって、同社が発行していた社債を組み入れていた投信商品、MMF(マネー・マネジメント・ファンド)が元本割れしたのが契機だった。
金融関係者の間ではすでに、MMFなどの投信ファンドのなかに、きわめて流動性の乏しい債券が組み入れられており、「一旦、発行企業に問題が発生したら、処分ができずに損失が発生する」と不安視されていたことは前回に触れたが、その問題が現実化したのである。
ニュースが伝わると、あっという間にMMFには解約が殺到した。これは、ペイオフ解禁までわずか四カ月のタイミングで行われた、預金取り付けの予行演習のような出来事だった。
国際公約にこだわった政府は、それでもペイオフ解禁の旗を降ろさなかったが、企業の財務担当者は、わずか一日で一兆四千億円とも一兆八千億円とも言われる巨額資金が瞬く間に流出してしまう現実に震撼した。現代では、預金以外の金融商品に多く、企業の大口資金が預けられている。しかしネットワーク社会にあっては、大量の資金解約がいとも簡単に行われ、金融機関を一瞬にして失血死させかねない。これは銀行関係者もさることながら、巨額の手元流動性資金を運用している企業にとっては、サイバーテロ並みの恐怖だった。
要するに、現代社会においては、個人預金者が金融機関の店頭に殺到して解約の列を作る混乱風景は、化石化したことになる。
「取り付け騒ぎはきわめて短時間で終わり、銀行は封鎖され、預金は凍結され、ペイオフを待つことになる・・・」
新しい取り付けの風景を想起した、大企業の財務担当者が集まる「ペイオフ対策研究会」では、コンティンジェンシー・プランを早急に作り直さざるをえなくなった。しかも、この貴重な「予行演習」は社債市場のマヒという副産物まで産み落とした。この混乱以後、よほどの優良企業でない限り、事実上、外債発行による資金調達の道は閉ざされてしまったのだ。
もうひとつは、より壮大なスケールの話だった。
米国債の金利上昇である。
同時多発テロ以後、景気の急速な冷え込みに見舞われていた米国では、連邦準備制度理事会(FRB)が公定歩合引き下げを相次いで実施し、景気の底支えに挑んでいた。
だが、それをあざ笑うかのように米国債金利、つまり長期金利が上昇傾向を強めた。
同時多発テロの発生以後、世界を駆け巡るマネーの流れが逆流現象を起こし、それまで米国市場に流れ込んでいた欧州の巨大資金が里帰りし始めたのだ。
米国政府は、テロ報復戦の勝利とは対照的に、国際資本移動の領域ではずっと苦戦続きだった。そのため米国は、強いドル政策によって、グローバルマネーの吸引力を復活させる必要に迫られていた。
そうした下地のうえで醸成されたのが、日銀に外国債を買わせようとする「米国債購入論」だった。米国債購入で円安を促進させるという、この議論は、実ほ資金還流を欲した米国の圧力で始まった。
財務省は猛反対した。外国債購入は円相場に影響力を持つ。その権限を日銀に与えてしまうと、財務省の独壇場である為替政策に日銀の介入余地が拡大しかねないからだ。
しかし日銀の外国債購入は一月末、「外国債の購入とそのタイミングについては、国際金融市場の安定を踏まえながら、為替当局との協議のうえで実施する」という文言で、外国債購入の決定権限を財務省に委ねることを明確化した上で決定した。
だがこの政策は、円安促進と同時に、日本の国債金利の上昇を誘発してしまった。
慌てた銀行は、三月決算を展望して、保有国債の実現益確保のための国債売却に動き出した。日銀は国債買い切りオペなどで金利の抑制に躍起になったが、金利水準はなかなか元に戻らなかった。
金利が上がれば、銀行の貸し出し金利も上昇する。そうでなくても大手銀行にはペイオフに備えた国民の預金が大量流入し、預金コストを貸し出し金利で賄わなければならなかった。
皮肉なことに、これまでの日本の企業貸出の金利体系は、財務内容が悪化している企業ほど金利水準が低いという非合理的な姿になっていた。問題企業には金融支援のための超低金利水準が設定され続けていたからである。
しかしもうそんなことは言ってられない。銀行は取引企業に対し、「世論が期待するように、リスクに見合った貸出金利にすることになりました」と通告し、中小企業への貸出金利を引き上げた。信用リスクの低い企業への貸し出しを回収する「貸し剥がし」も激しさを増した。要するに、日本全国で、信用逼迫が極まってきたのである。「十年待ってもらえば、どうにか回復する」という企業側の弁明に説得力はなかった。
こうして日銀の外債購入とほぼ同じ時期から、問題企業の処理がとうとう本格化した。
銀行も今度は本気だった。頭取自ら、対象企業の経営者を訪問して、「覚悟を決めて頂きたい」という説得工作が続いた。渋る経営者への最後通告はもちろん、「私も身の振り方は覚悟しています」という頭取の発言だった。
「危険四業種」企業が続々、市場から退出していった。民事再生法の適用申請に踏み切るゼネコンもあれば、銀行の債権放棄による私的整理が決定した大手流通グループもあった。
賃下げ、リストラの波はそれこそ全業種におよんだが、新たな雇用の創出の光はさっぱり見えてこなかった。失業率は二桁の大台に近づき、ハローワークには夥しい人の列が続いた。
私的整理では、対象企業を存続企業と清算企業に分け、清算会社を処理する「グッドカンパニー・バッドカンパニー方式」がとられた。
バッドカンパニーには、不良債権買い取り業務を本格稼動させたRCC(整理回収機構)の機能を活用するが、単純に債権を持ち込むのではなくて、RCCと銀行団が合弁会社として「清算会社」を設立して対応した。
しかし銀行には、引当金でカバーできる範囲までしか処理できない、という限界があった。株価が暴落し、国債売却も不安定なマーケット情勢のなかでは、処理原資捻出の道は閉ざされていたからだ。
それを見透かしたように、三月に入って株価はさらに下落。日経平均一万円はとうに割っていた株価が九千円を割り込む気配になっていた。なかでも銀行株の下落ぶりは目を覆いたくなるほどだった。
前年後半に話題になっていた銀行の配当問題が再びマスコミで取り沙汰され出したからだ。保有株式の時価会計をすると、この水準でほ配当原資は完全に枯渇せざるをえなかった。
●富裕層が資金を海外へ出し始めた
金融持ち株会社へ移行したメガバンクの株価もマーケットで打たれ続けた。資本準備金の配当原資への切り替えを認めるという奇策は、日本国内では通用したものの、欧米諸国に対する説得力は持たなかったからである。
それが歴然としたのが、米国有力格付機関が三月初旬に発表したレポートだった。
「大手邦銀が行っている改正商法に基づく資本準備金取り崩しによる配当政策は、単独決算の観念が根強い日本国内では理解を示されているが、連結方式を重視する当社の見解としてはネガティブにならざるをえない。特に、BIS国際自己資本比率を適用されている国際的な活動を展開する銀行に対しては、BIS規制そのものが連結ベースである以上、銀行グループ全体の資本力としてとらえるべきである。その観点からみると、子会社銀行の資本を持ち株会社の資本準備金に移し替え、配当として外部に流出させるという方式は、銀行体力の脆弱化と考えざるを得ない。日本国内では、公的資金の配当問題としてだけ、銀行の配当が考えられがちだが、銀行の本来的な財務基盤を評価する立場としてはネガティブに評価するしかない」
このレポートをきっかけに、欧米投資家の邦銀株売りはさらに増大した。とうとう株価は九千円を割り、邦銀の体力はさらに脆弱化した。銀行経営者は、公的資金注入下で国有化を逃れるという命題と、資本の論理の板ばさみに遭って立ち尽くすしかなかった。
メガバンク以上に厳しいのは地銀だった。地域経済が完壁に冷え込み、信金、信組がバタバタと倒産した。
金融庁はとうとう三月初旬、地方中小金融機関のブリッジバンクを発表し、経営悪化金融機関を取りまとめて、なんとか信用を維持しようとしたが、これは逆の結果を生んだ。ブリッジバンク対象外の地銀の資金流出が頻出し、地銀破綻が続出したのだ。
三月中旬に入ると、「現状では、公的資金の再注入の必要はない」と言い続けてきた金融当局の立場を土台から瓦解させるようなことが、次々と起こった。
ある外資系投資銀行は、「邦銀の資本毀損度」というレポートを発表した。
そこには、「現状の株価で見る限り、公的資金注入の際に発行した政府向けの優先株が、普通株式への最低転換価格を相当下回っていることは、実質的には公的資金が毀損されていると考えないわけにはいかない」という結論が導き出されていた。
「再度の公的資金注入を断行せよ」「銀行国有化も視野に入れよ」マスコミ論調も過激になっていった。信用逼迫も激しさを増すなかで、「銀行の資本力強化で貸し渋りを是正せよいという論調も目立った。
しかし、少なくとも後者の「貸し渋り是正論」は空⊥かった。二〇〇一年にはペイオフ対応で預金が流入して困ったほどだった大銀行からも、安定的な預金がゴソッと抜け落ち始めたの、である。
庶民がペイオフを心配している間に、日本の富裕層は資金を海外に出していた。海外の安心できる金融資産へと資金が旅立つ「フライ・トウ・クオリティ」が始まっていたのである。
これは、前述した二つの事象で拍車が掛かったといっていい。ひとつは、元本割れを来たしたMMF安全神話の崩壊であり、もうひとつは米国への資本流入のための円安誘導である。
前者で国内での行き場を失い、さらに後者で為替差益の香りに誘われた国内の余裕資金が、銀行どころか、日本を離れ始めていた。
いっぽう国内に留められた資金に関しても、ペイオフ解禁の暫定措置として一年間の全額保護が認められた流動性預金分野では、法人預金や個人預金が銀行の風聞が流れるたびに他の銀行へと預け替えられる現象が激化していた。
かつて、イギリスが預金金利を自由化した際に発生した預金資金の激しい移動、「メリーゴーラウンド現象」に類似していたが、日本はより深刻だった。
流動性預金が激しく移動することによって、銀行ではALM(資産・負債の総合的管理)担当者たちが音を上げていた。貯蓄性預金の激減によって安定的な資金基盤が脆弱化したことに加え、低コスト資金の見込みを分析できなくなってしまったため、手持ち資金の予測がつかなくなったからだ。
●変動制住宅ローン金利が上昇
銀行は日銀に頼ろうとしたが、日銀はおいそれと資金を出そうとしなかった。こうして、インターバンク市場でのコール資金の取り入れ依存度が急激に増し、毎日がタイトロープのような資金調達状況が続いた。海外の資金には、高い金利差の「ジャパンプレミアム」がついていた。
それを緩和するには、貯蓄性預金の金利水準を引き上げ、預金を獲得するしかない。
数年ぶりに銀行預金の金利が上がり始め、それに連動して、変動制住宅ローンの金利も上がった。
「今がローン金利の最安値。当分はデフレで金利は上がりません。今買えば、家賃以下の支払いでオーケーです」という甘い誘いで住宅を買ったサラリーマンは、年収ダウンと金利上昇、物件価値ダウンという三重苦を実感し、「自己破産」という不吉な文字がちらつき始めた。
いっぼう、「キャピタル・フライト」(資本流出)は長期金利の上昇ももたらし始めていた。国債マーケットでは国債金利がジリジリと上がり始め、銀行の保有国債に含み損を拡大させた。新規国債の発行条件も悪化し始めた。
日本経済にとって、最悪の事態が接近してきた。
ペイオフが近づいた三月下旬になると、「もう預金の預入れは完全にピークアウトした」という当局コメントを一蹴するように、預金者の動きが活発化した。解約を防ぐために預金の店頭表示金利をやや高めに設定すると、かえって「あそこは危ない」という噂が流れ、預金解約が増えた。
預金預入れの老人を狙った引ったくりが横行し、警察は銀行の支店の前に警察官を派遣する物々しい光景となった。DIYショップでは、「家庭用金庫、在庫わずか」という看板が立ち、タンス預金客たちはわれ先に買い込んだ。テレビ局のクルーたちは、「絵になる光景」を求めて走り回った。まさに三文オペラをみるような社会情勢だった。
ところが三月二十八日になって、政府は突然、ペイオフの延期を発表したのだ。
「ペイオフ解禁のためのシステム対応に」もうしばらく時間がかかるため、対応が整い次第、解禁する」という内容だった。経済記者たちは最後になってのドンデン返しとなった理由を求めたが、政府発表の意図はまったくつかめなかった。
最終的に彼らは、「ペイオフ再延長を図るための時間稼ぎに違いない」と判断し、「首相、ついにペイオフ延長を決断。公約違反は責任問題に発展する」という論陣を張った。
四月七日。経済記者たちは、ペイオフ解禁問題と銀行の三月決算期末の報道合戦が終わり、ひさかたぶりの休日に疲れを癒していた。
ところがそのとき、都内のホテルには首相、金融担当大臣、財務大臣、日銀総裁などがカジュアルな姿で密かに集まっていた。マスコミの尾行をまくために、ゴルフを装った完全な秘密行動だった。
「これから金融危機対応会議を開きます」メンバーが揃ったのを見届けた首相がひとこと発した。
「金融危機対応会議」とは、首相の決定で開かれる、金融問題に関する最も重要な会議である。テーマは、銀行への公的資金注入しかない。
「会議の開催=公的資金注入=銀行の国有化」である。それだけに、マスコミには絶対に察知されないよう、極秘行動がとられたのである。
首相は金融担当大臣に声を掛けた。
「ここまでよく踏ん張って頂いた。今回の措置は、あなたの政治責任を問うものではない。日本経済のステージが変わってしまったのです。もはや、改革断行のためには、一刻の猶予もできません。どうか公的資金の再注入、そして、実質的な銀行国有化に同調していただきたい」
金融担当大臣は即座に答えた。
「私としても、やむをえないと思っております。とにかく、企業処理はようやく緒に就きました。同調致します」
全会一致だった。
翌月曜日の官邸では、早朝の緊急会見が開かれた。もちろん前日に決定した内容の発表にほかならない。首相は、「一気に経済問題の解決に持ち込みます。一部大手銀行に対する公的資金の再注入を実施し、経済基盤の安定化を図るとともに、金融問題処理を一気呵成に仕上げます。再注入は実質的な意味での公的管理ととらえて頂いて結構です」と言い切った。
ペイオフを実施してからでは、国有化は出来ない。なぜなら、国有化したとたんに、破綻銀行の認定を受け、ペイオフ対象となるからだ。記者たちは「三・二八宣言」の意味を、ようやく理解した。
その後の展開は怒涛のようだった。国有化された銀行は容赦ないリストラが行われ、多数の銀行員が職を失った。
その一部は債権回収などの新ビジネスに再就職したり、RCCの下部機関として設置された資産管理会社に職場を移した。地方に帰った行員も少なくなかった。彼らは、地方の銀行や中小金融機関などに第二の職場を求めた。
公的管理下でも通常の銀行業務は続けられた。だが、貸出資産の債務者区分については、政府が依頼した外部監査が常時行われた。
問題案件については容赦なく、私的整理を基本にした債権放棄手続きが取られ、RCCの活用も本格化していった。
●八月下旬、首相の緊急記者会見
企業は生体解剖され、非採算部門の社員の大部分には、大幅貸金カットか、失業という事態が待ち構えていた。
監査報告は定期的に行われ、首相直轄の金融資産健全化委員会に属する資産査定の専門家たちのチェックが行われた。
その結果、導き出された結論は、「不良債権の本質的問題は、銀行経営というより、日本企業、なかでも中堅以下の非製造業の生産性の低さにある。借用リスクに見合わないような低金利の貸出を銀行が続けてきたことで、当該企業は生き長らえてきたに過ぎない」というものだった。
不必要な企業の容赦ない淘汰が、公的に認められた瞬間だった。
公的管理下でも預金は全額保護された。しかし、それでも大口預金は解約され、外貨建ての金融商品へと逃避していった。貸出資産、預金の両面でより抜本的な政策対応が必要になっていた。
そして八月下旬。またも、首相の緊急記者会見が開かれた。新円切り替えと、それに伴う「預金封鎖・預金切り捨て」の発表だった。
これはシリーズ第一回に示したシミュレーションだが、これによって国民一律の預金切り捨てと、それを原資とする銀行の不良債権処理と企業の債務処理を一挙に片付けるという国家プロジェクトが始動した。首相は、国民と企業の両方に、直接痛みを共有することを求めたのだ。
秋から冬に入るにつれ、プロジェクトは本格化した。
首相の不退転の決意の下、銀行の資産・負債、さらに企業の資産・負債は二つの勘定に分離されて、一方は企業再生へ、もう一方は清算へと振り分けられた。対象外となったのは、生産性の高い輸出型産業や内需型産業でも競争力があって、有利子負債などの債務が軽い企業など。裏返せば、債務水準が高い内需型製造業、非製造業などは再生プロジェクトの対象となった。
再生勘定に組み入れられた企業の設備などの資産は、業務性格などの基準で大企業であれば、百ほどの企業に解体されて再生された。
これは第二次大戦後の戦時補償債務処理、財閥解体に類似した政策だった。解体されて小規模化された多数の企業群では、それまで代表権のない役員や、部長クラス以下の社員たちが経営者となった。
製造業では、地方に点在する工場がひとつの企業として生まれ変わった。また、非製造業では、コスト削減のために地方へと本拠地を移すことも優遇された。
銀行でも同じように事業再構築がなされた。その過程で、優秀な人材が地方の金融機関へと転職するようなルートも作られた。これは、各地に企業が点在することによって、地方経済が競い合って生産性を高めていくことを狙った国家戦略の一環だった。
そうした企業再生が果たせたのは、預金切り捨てに伴い、政府が切り捨て額に応じて優先株を国民に付与していたからだった。これは会計上、地域ごとに振り分けられた地元企業が発行したことになっているものだった。
この優先株は、企業の再生・成長に伴って配当が得られるようになっており、その優先株に限って相続税なども完全に免除されるように制度化された。預金切り捨てが預金額の多い高齢者に相対的に不利に働いたことに対する穴埋め策でもあった。
優先株は企業が上場すれば普通株式に転換できたし、切り捨てられた預金の代替資産にもなる。元預金者たちは資産を取り返すためにも厳格なガバナンスの目を企業経営者に向け、企業の生産性の向上への圧力となった。
証券市場は一時、打撃を受けたが、政策の対象となった企業のなかに上場企業がそれほど多くはなかったことに加え、優先株の裏づけとなる非上場株式の市場が各地に新設され、意外にも活気がよみがえった。証券会社は競って、マーケットメイカーとなり、値付けビジネスを行った。
●自民党解体が地方から起こった
続いて政府が着手したのが行政改革だった。抵抗勢力は手強かったが、血を流すほどの試練の下で企業再生に動き出していた勤労者層は、行政改革に絶大な支持を示した。
巨大な利権組織である「省庁制」は解体され、優秀な中央官僚の半分が地方自治体へ散った。彼らは、地方に分散化した企業が激しく競い合う競争社会に入り、地方自治の確立、地方分権の下地となり、最終的には地方の政治構造をも変質させた。これは後年、自民党解体が、自民党の地盤であった地方から現実化した原動力となった。
これからのドラマは、二〇〇三年になってからの話だ。
もちろん、景気は未だ回復の気配を見せていない。倒産は頻出していたし、失業者は町に盗れていた。
しかし日本各地に、わずかながら雇用を吸収する新しい産業が創出された。一〇パーセント台まで達した失業率も低下傾向を見せた。
解体措置の対象外となった生産性の高い輸出型企業群は円安下で輸出を伸ばすことができ、政府肝煎りの失業対策雇用制度で、契約社員の雇用に動きだした。
そうした新規雇用者のなかに優秀な人材が少なくなかったため、正社員たちはますます懸命に働いた。
街では、二年ほど前まで金髪、茶髪にして夜遊びしていた高校生たちが早朝の新聞配達をし始め、遊ぷカネほしさでアルバイトしていた大学生が、今度は学費を支払うためにバイト先を探しだした。
働くことに手応えが増し、勤労者は働くことに対する衿持を回復し始めた。
そして迎えた、二〇〇三年の年の瀬。
道を行き交う人びとには、昭和六十年代以降の日本に失われていた、独特の活気が芽生え始めてきた。
日本再生に向けた辛苦と苦難の道は、まだ数年続くと思われる。しかし経済は、人間の志気に基づく生き物だ。
この国の人間に復興の意志が見え始めれば、その数年後には、必ずや復興の息吹が湧き上がってくるのではないか・・・。
二〇〇二年が、忍耐と苦難の道の始まりとなることは間違いない。しかし、それを乗り越えればこの国は、まだまだ興隆することができると、私は信じる。