投稿者 sanetomi 日時 2001 年 10 月 13 日 21:57:36:
「日本の金融システムの長期ビジョンを描く」。こんなテーマのもと、柳沢伯夫金融相の強い希望で同相の「私的懇話会」が発足した。しかし、「こういう議論はないよりましだが、遅きに失した感がある」(座長の蝋山昌一・高岡短期大学長)と疑問の声も聞かれる。この時期に、わざわざ金融審議会とは別の器を造ってまで議論しようという金融相の真意は、一体何なのか。
懇話会設置の狙いについて、金融相は「足元の問題に対応するだけではなく、長期的なビジョンを持つことが大事。積極的に自由討議し激論をたたかわせてもらいたいから」と説明する。さらに、「英国も米国も、それぞれ、国としての金融システムの在り方を長期的に論じた研究書を、近年、まとめた。わが国にもそういうものが必要だ」と主張し、懇話会にその作業を委託した。
これを受けて、懇話会は今後、月1−2回会合を開き、来夏までに不良債権問題や日本の金融システムの展望などについて、何らかの方向性を打ち出した報告書をまとめることになった。しかし、蝋山座長は「何かはしないと税金の無駄遣いになる。しんどいことを引き受けた」と消極的だ。
古くて新しい命題
初会合では、金融相が30分以上にわたり、1)国際金融市場で日本のプレゼンスが低下し、市場原理が十分に機能していない、2)日本の金融機関は早急に体質改善し新しいビジネスモデルを構築すべき、3)金融行政や公的金融の在り方を見直すことが必要――などと、熱っぽく語ったという。
これらはいずれも古くて新しい命題だ。この10年間だけを振り返っても、繰り返し議論されてきた。行政は護送船団体質からの脱却を目指した。民間は市場原理に沿った金融システム確立を目指して、世界的な金融自由化の洗礼を受けながら、幾度となく、再編や破たんを経験してきている。
問題は、蝋山座長も「市場原理重視というが、行政も民間もまだそうなっていない」と指摘するように、市場原理が発揮されるための土壌がいまだに育っていないことだ。しかし、それ以前に、そもそも「市場原理とは何か」について突き詰めた議論が日本でなされたことはない。また、市場原理が万能なのかどうかも分からない。
苛立ちと自省
それでも、金融相がこの期に及んで「長期ビジョン」の必要性を説くのは、これまで金融問題が発生するたびに、官民とも「その場しのぎの対応」(金融相)に終始してきた、との反省があるからだろう。数々の破たん処理、銀行への公的資金注入、金融再編――。それらを、金融システム危機克服のため、本質的な議論をすることなく推し進めてしまった、という金融相の忸怩(じくじ)たる感情が浮かび上がって見える。
そして、現在の不良債権問題でも同じ現象が起こっている。年明け以降、政府・与党の経済対策では、この問題が毎回、筆頭項目にのぼった。日米首脳会談やG7などの国際会議でも採り上げられ、市場からは「処理しろ」と矢の催促。果ては、経済財政諮問会議も口を挟んできた。金融庁は関係方面との調整に追われ、周囲に振り回されっ放しだった金融相としては、苦虫を噛む思いだったわけだ。
実際、金融相は、公式、非公式いずれの場でも「事態が思うようにならない」と幾度かこぼしている。不良債権問題に関わる政策立案の過程で自らの意思をうまく反映させることができず、金融相の苛立ちは募るばかりだった。懇話会は、目前のことに追われる状況から一歩引いて、腰の据わった議論をしたい、という金融相の気持ちの表れと言える。
議論のための時間は少ない
金融に関わる諸問題について議論し、政策の方向性を提示する場としては、すでに金融審議会がある。それにも関わらず、金融相は「審議会は目の前の案件処理に手いっぱいだから」と、懇話会の設置にこだわった。ただ、自由に議論するのはいいが、生産性のない議論が延々と繰り返される恐れもある。メンバーも、堺屋太一・元経済企画庁長官を除けば、大半が審議会と重複しており、新味がない。
初会合で、メンバーの大半が「ビジョンを語るにしても、今の不良債権問題の深刻さをきちんと理解すべき」と強く主張したように、私的懇話会で空理空論に費やす時間は、もはや限られている。むしろ、みずからの哲学なりビジョンのたたき台を示すことから始めた方が、実りある議論への近道になるのではないだろうか。
東京 中島 三佳子 Mikako Nakajima JK