これを読まれた方は、これからくるであろう社会を思い、思わず背筋が寒くなることでしょう。悪いことに、世界同時的に進行しているので絶対逃げることが出来ません。戦うか、沈黙して奴隷になるかの道を選択する時がくることでしょう。しかし大多数の人々は、そのニュースが、「黙っていろ、お前達は奴隷なんだ」ということもわからないで、納得してしまうでしょう。
アメリカ社会でテストされた新しい「労働システム」が日本いや世界中の社会に刷り込まれていきます。政治家を通じて、TVや新聞などのマスコミを通じて、「便利になる」という「輝かしい未来」という見せかけの未来をみせながら、また映画というマインドコントロール幕も一役かいます。
少なくとも、阿修羅を読まれている方は、その真実を読み取り、それに備えることが出来ると信じています。沈黙して、奴隷になったかのように見せかけることもできます。ただし、コンピューターは通信手段としては最悪の手段ですので、すべて情報伝達は「口」か「紙」に頼らざるを得ませんが・・・
月刊「現代」2002年4月号
緊急提言 内橋克人
到来した「高度失業化社会」とは何か
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人間までカンバン方式を導入する雇用形態激変の時代
●「失業防波堤」の決壊
「失業は、その日がくるまで他人事」と不本意に職を失った人々が口をそろえる。我が身が「失業」の現実に襲われる「その日」まで、高い失業率になれっこになっている社会の異常さにも、また非自発的失業の悲惨さにも、ほとんど関心がなかったというのだ。職を失って初めて、いま日本社会で何が進んでいるのか、ただごとでない日常に眼を開かされた、との述懐を何度、私は耳にしたことだろう。「明日は我が身」の危機感を欠いた一般サラリーマン、労働組合のこの鈍感な社会意識を追い風として、「働く自由」の召し上げ、代わって、それと裏腹に「働かせる自由」の無際限な拡大が進んだ。それがさらに失業者の増大をもたらしている。
私達の社会は、過去、営々と築き上げてきた「失業防波堤」の決壊へなだれ込んでいるのではないだろうか。最新の失業率5.6%(2001年12月)は「高度失業化社会」への入り口に過ぎず、間近いのは完全失業者500万人(失業率8%超)時代への道だと私はいいつづけている。
過去、政権に奉仕した学者らがはやしたてた「ITが雇用を生み出す」説も、また「介護保険制度が失業をなくす」論も、ともに幻想に過ぎなかった事は、その後の現実が証明する。それでも、なお飽くこともなく竹中平蔵経済財政担当相らは、「新規サービス分野(*)で500万人雇用創出」などと平然と叫んでいる。何の科学的・現実的根拠も見ることはできない。驚くべき事に、彼らのいう500万人のなかには大量の「家事サービス」という新分野?なる珍語まで架空計上されているのだ。
*新規サービス分野
竹中平蔵が、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどのファーストフード業界や、 アマゾン・コムのような I T産業がトラック配送などの新しいサービスをもたらしたという幻想を、ローレンス・サマーズのようなハーバード系の新古典学派に、洗脳された大馬鹿者であるという証明でしょう。ファーストフード業界が、いかにアメリカの中産階級をなくさせしめたかは現実が示すとおりです。厨房での機械的自動化がすすみ、次から次へと労働者を交代させ(熟練労働者から低年齢アルバイトへシフトさせ、労働人種が白人・黒人からヒスパニック系に代わった)、そのうえ組合を作らせなかった。その変化のなかで低賃金化が進んだ。これを「新規サービス分野」と彼らはいうのです。
●「高度失業化社会」の五つの特徴
景気循環に起因する失業だけでなく、社会構造の変質が根本原因の「ジョブレス・マジョリティ(職なき多数派)」の時代が始まる。いよいよ「相対的過剰人口」が大量に吐き出される、そのような社会が到来する。相対的過剰人口とは、いままさに日本企業を直撃しているような、資本利益率の慢性的な低下をを回避するために、企業は合理化、イノベーション、さらに新たな生産手段への資本投下に狂奔する。結果、追加的余剰労働の増大のテンポが加速し、産業予備軍、失業者が爆発的に膨張する、というメカニズムが動き出す。相対的過剰人口はやがて絶対的過剰人口へと固定化されていくのだ。
要するに、社会の安定化にとってもっとも大切な雇用・労働の領域において、「政府」が機能しなくなり始めているのであり、
「人間はもはや搾取の対象でなくなった、いまや人間は排除の対象になった」
(仏の作家、ヴィヴィアンヌ・フォレステル著「経済の恐怖」)
ことを示す。
「高度失業化社会」とは何か?
(1)「恒常的リストラ」の進行である。
決算期に示される経常利益の多寡のかかわらず、企業は「絶えざるリストラ」を競いあう。企業間のコストダウン競争はいっそう熾烈なものになり、利益が上がっている企業はその利益を上がっている間にリストラを進めようと懸命になり、また一方、業績悪化・赤字企業はなおのこと、人減らしに狂奔する。
こうして企業社会は労働の「吸収圧力」ではなく、「排出圧力」一色に染め上げられるようになり、ごく一部のテクノクラート(MBA取得者や高度なシステムエンジニア)を除けば、すべての被雇用者が日常的に「解雇予備軍」として位置づけられる。
●「人間をムダにする」社会
(2)「働く自由」ではなく「働かせ方の自由」が拡大することである。
雇用形態は「多様化」する。パート・派遣社員・フリーターなどの名称はもはや聞き慣れた。いまや時代の主流になり始めたのが■オンコール・ワーカー■なのである。働かせる側にとってもっとも都合のいい労働形態が考案される。オンコール・ワーカーとは、人間のカンバン方式(余計な在庫を持たないシステム)である、すなわち「呼び出しあり次第、直ちにご用に応じます」と電話の前で待ち続ける労働者の事だ。発祥地はアメリカで、オンコール・ワーカーのなかにも様々な労働形態があみ出され、一般化している。このような人間労働の究極の合理化策が「一日契約社員」である。まったく日雇い労働者と同じになってしまった社会が目の前に迫っている。労働の中身は「日替わりメニュー」で毎日変わる。
事もあろうに、このような意味での多様化を指して「選職の時代」の到来とはやした経済企画庁長官(**)がいたが、高度失業化社会において「職を選ぶ時代の到来」とは、よくもいったり、と私は考える。よほど恵まれた、現実知らずのエリートなのであろう。
**堺屋太一元経済企画庁長官のことです。
(3)「社会的コスト」の増大。
失業者の数が一定の社会的許容量を超えて排出されることで、社会全体が負担しなければならない社会的コストは一気に増大する。当事者への失業給付はもちろん、職業訓練などに要する公的サービスなどの負担は確実に増える。また十分な職業的能力を備えているにもかかわらず、たとえ有能とされる者まで職を失う危険に満ちているということである。勤務先職場の思わぬ倒産、合併、統合による人員削減・整理、さらに恒常的リストラが襲うからだ。有能な職能人がもっとも能力を発揮できる職場から締め出されると言うことは、彼が発揮できたであろう知的能力、開発力、高度な技術力など、社会にとって貴重な資源があたら廃棄物にされてしまうということである。
「モノとカネのムダを最小化」するため「人間をムダにする」社会・・・こうしたあり方によって失われる「社会全体としての潜在力」がいかに巨大なものになるか。高い失業率に喘ぐ日本社会にあって政策形成者は一顧だにしたことがあるだろうか。
閉塞社会とはモノとカネを尊重し、人間はムダにしてもよい、という市場原理至上主義の価値観が生み出したモノであり、その信奉者らの本質を見事にあぶり出している。
●社会の分裂が進む
(4)「職能」の崩壊。
高度失業化社会では専門的技術・技能・知識を生かして働く人々が、ただ一つの専門的職能によってだけでは生活を維持することが難しくなることだ。今始まろうとしているのは、一つの専門的職業では飯が食えない、という日常なのである。今年の春闘では社員のアルバイトを認めよ、と要求をだす労働組合もでてきた。
「職能の崩壊」はサラリーマン個人を打ちのめす。専門の職能以外での仕事で手にすることの出来る報酬は、専門職で得られる報酬に比べて単位労働当たりの見返りは極端に低い。かつて高い失業率の続いたアメリカでは「ムーンライター」と呼ばれる必要最低限の生活費を確保する、副業持ちがごく普通だった。日本でもすでに二つ、三つのパートを掛け持ちして家計を助け,かろうじてマイホームのローン返済を支えている主婦が激増しているのだ。
労働時間の短縮、真のワークシェアリングなどの「働き方の改革」もかけ声だけに終わるり、結果、人々の間で進む「職能倫理の崩壊」が社会に何をもたらすのか・・・それを恐れねばならなくなったようだ。
(5)「社会の分裂」が進むことである。
「経済は栄え、社会は衰退する」と「ターボ主義者」の著者エドワード・ルトワク(米戦略国際問題研究センター上級研究員)は書いている。
経済・企業が繁栄すれば社会も豊になる、景気が良くなれば人も幸せになる・・・そう信じられた「ハッピーバランス(幸せな予定調和)」の時代はとっくに過去のものだ。
グローバライゼイションが進み、企業の多国籍化、コングロマリット化がほとんど極限まで磨き上げられ、マネー資本主義が世界を被う現代の社会では、個々の企業にとっての合理的な利益追求の選択が、逆に人々の生きる社会を新しいタイプの貧窮へと追い込む。中国や東南アジアへの進出が国内雇用の空洞化をもたらす、などは、現実のほんのわずかな側面を示しているにすぎない。
拡大する所得格差も重要なテーマに違いないが、その側面だけに眼を奪われていてはこの新しい貧窮を見透すことができない。「経済益」と「社会益」との背反という、21世紀の新たな「社会の分裂」を掘り下げる必要がある。
●サラリーマンが「請負業」に
NHKテレビの「クローズアップ現代」では何度にもわたって、雇用・労働の最先端現場で今何が起きているか・・・鋭い問題提起を続けている。働く現場を具体的に掘り下げ、そうしたあり方がいったいこれからの社会に何をもたらすのか、生々しい事実を提供してきた。同番組が取り上げた最近のケースは次のようであった。
派遣業者のもとに企業から注文が届く。すると、派遣業者は予め登録してある若い「失業予備軍」の貯水池」から適者を選んで呼び出し、行き先を指示する。いわば企業と求職者を媒介するセンターの役割だ。指示された労働者は求人先に出向き、仕事が終わればセンターに戻ってその日限りの一日分の賃金を貰う。社会給付はゼロである。今日はA社の倉庫で荷物を運び、明日はB社のレストランでウエイター、その翌日はまた別のコンビニで深夜労働・・・といった具合に、すべては企業から吹く「ご用の風任せ労働」。即ち職能の「日替わりメニュー」に身を任せるほかにない。指示した働き手がこない場合に備えて、別の複数予備軍がわずかな日当と引き替えにセンターでじっと待機している。その一日契約社員にも企業はロイヤルティを要求する。働き手を監視していてランキングし、手当に格差をつける。働く側はたとえ一日といえども手を抜くわけにはいかないのである。
これでは若いうちに会得すべき職能が身に付かない。しかるべき「年季」をいれてこその職能人なのであり、それをベースにした想像力も開発力も,育まれる余地がない。人を育てる努力も意志も失ってしまった社会などにどうして「輝かしい未来」などありえるだるか。
●「合理化」の究極の姿
「働かせる自由」についてはさらに進んだ。一例がインデペンデント・コントラクターである。アメリカではこの「疑似・自営業」が900万人に達しているという。このインデペンデント・コントラクターを直訳すれば、企業と対等の立場で契約を交わす「独立自営業者」の意である。もともとは高い専門能力を生かしていろいろな企業から仕事を請け負う自営業ないし自由業(SOHO=Small Office Home Officeや狭い意味でのアウトソーシングの流行がこれにあたる)を差していた。ところが、このような企業と個人の契約関係が広くサラリーマン、即ち被雇用者に適用され始めたのだ。会社勤めのサラリーマンに「今日からあなたは独立自営業者だ。ケガと弁当は手前持ち」と宣言する。その一方で、勤務に伴う義務や責任、ノルマ、時間の拘束などは被雇用者のそれと何ら変わらない。
磨き上げられた「働かせ方の合理化」・・・その究極の姿と言うべきである。
日本でもこれを真似して、人材派遣業の「パソナ」が、東京の飯田橋の公共職業安定所から、パソナとその元子会社に対して、実態は派遣労働であるにもかかわらず、同社が契約者との間で、「業務委託契約」を結んで個人事業主扱いすることで雇用保険の負担を免れていたとみなし、契約内容を見直すように警告している。早速、アメリカに学んで実践したものであろう。
労働時間の規制緩和が進むとともに、「働かせる自由」がどのように拡大していくモノなのか、「規制緩和の優等生」と日本のマスコミがもてはやしたニュージーランドがモデルを示してくれる。
「疑似・自営業」の先駆例はそのニュージーランドで端緒が開かれた。
1991年、同国では「同一産業で働く労働者は前項どこでも同率の賃金システムでなければならない。」と定めていた全国協定が突如!破棄された。代わってすべての労働者は使用者との間で、一人一人、個別に「個人契約」を結ばなくてはならなくなった。その定められたのが「雇用契約法」(同年2月より施行)である。
これによって「雇用契約とは労働者と使用人との個人的なもの」とされ、他の労働者には仲間の額を知る権利さえないと定められた。(労働者を団結させないマクドナルドでの経験が生きていますね)労働組合などによる「集団的契約」は使用者が同意した時のみ認められる。だいいち、「労働組合」という言葉そのものが法律では死滅した。いま同国では、サラリーマンは、個人で一人一人、会社相手に自分の賃金交渉を行わねばならない。(金持ちで代理弁護士を雇える地位や役職にいる人々には有利にはたらくということかな)
はたらく者の「団結権」は有名無実どころか、もはや存在しない。そもそもサラリーマンと言う言葉そのものが死語になる日が近づいているのだ。
●新しい日本型貧窮
失業率の地域間格差が拡大している。近畿、九州、北海道、北陸、中国地方で軒並み完全失業率が悪化の一途を辿っているのだ。去年一年の全国平均5.1%に対して、、近畿地方は6.3%、なぜなのか?
地方が「モノづくり」を担ってきたからである。地方の高い失業率はすなわち「モノづくり日本」の衰退を証明している。近畿地方で構成費の高い繊維産業は、中国製品に追いつめられ、鉄鋼は韓国に押される。流通、電気、地域金融機関で激しいリストラが続く。何よりも中国、アジアに進出した日本資本の行動が他の欧米諸国のそれにくらべ突出して「日本への逆輸入」に傾斜していることだ。日本資本のアジア進出が日本への低コスト品の逆輸入に主眼をおいてのものであることがよく分かる。
すなわち「日本製アジア製品」の猛烈な攻勢が「高度失業化社会」への引き金を地方で引いているのだ。I T、電子部品関連工場などの統合、撤退、リストラの直撃があり、なによりも地場産業、地域産業が危うい。
今、小泉内閣の構造改革なるものは新基幹産業のビジョン一つ示し得ず、ひたすら日本再生の牽引役を「すでに国際競争力ある企業」に求めるほかに政策がない。強い企業にさらにモノ、カネの資源を集中して強くする、と言うのだ。競争力のない企業には一日も早く市場から退出して貰う、と公言する。「強いものはより強く」である。(それが証拠に流通・ゼネコン大手が破産したとき、構造改革が進んでいるという証拠ですと小泉と福田はいったではないか)
だが、いったい強い企業、競争力のある企業とは誰を言うのか。いま日本の年間輸出総額は52兆円。うち17兆円、すなわち32%はトヨタ、ソニー、ホンダ、キャノンなど10社が稼ぐ。上位三十社なら50%に達する。それら国際競争力の強い世界企業をさらに強くすれば、日本経済は再び復活する、という幻想に小泉は酔いしれているのだ。
だが、そもそもなぜこれらの少数の企業が強くあり得るのか。言うまでもない、非効率、ワリに合わぬ部分は中小・零細な下請け協力工場群が引き受けているからである。ワリに合わない部分をやむなく引き受けている非効率な企業群をつぶしてしまえば、強い企業が強くあり続けることさえ出来ないだろう。未だ続く日本型二重構造のゆえである。
私が日本型自営業と呼んでいる地方と中小・零細企業をかくも疎んじて真の構造改革など成就するはずもない。進行しているのは新しい日本型貧窮社会の創出である。
以上に述べた「高度失業化社会」は単なる警鐘ではない。まぎれもない現実である。「働かせる自由」ではなく「働く自由」を求める人々はこのことを心に刻んでおく必要がある。
*週間現代および 内橋克人さんには無断転載申し訳なく。
阿修羅さんへ、削除依頼がありましたら遠慮なく削除してください。