投稿者 佐藤雅彦 日時 2000 年 8 月 23 日 13:02:53:
回答先: Re: 英国で「脳死患者は痛みを感じる可能性がある」という医学論争が勃発 投稿者 かねだ 日時 2000 年 8 月 22 日 13:23:30:
「脳死」という“虚偽”概念(イデオロギー)に
だまされないために
●先日(8月21日)、私が投稿した「空耳の丘・9SR316」(英国で「脳死患者は痛みを感じる可能性がある」という医学論争が勃発)に、ご意見をお寄せになった「かねだ」様、貴重なご指摘ありがとうございます。
●かねだ様のご指摘は、日本の「脳死」イデオロギー宣伝を真に受けたまま、ご自分で調査や熟考をせずに政策誘導にひっかかっていく“大衆のありふれた反応”の典型だと感じました。
お気を悪くなさらないでくださいね。 しかし、「脳死=個体死(人の死)」という虚偽概念を容認するかどうかは、本質的には「“合法的”殺人政策を容認するかどうか」にかかわる重要な問題だと思うので、まじめに考えてほしいのです。
●かねだ様は以下のようなご指摘をなさいました――
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>
> たとえ体の一部分が生きていても,それを統合すべき脳が機能しなければ,それは「死」と考えて何ら問題はないと思います。
> 「教育学的な死」や「道徳的な死」 って言っている時点ですでに論理が破綻していると思いますが・・・。
> だって,脳が無かったら,生きられないんですから。一応,医療技術の発達により心臓を動かし,人工呼吸器で呼吸させて,「生物学的」には生きていても,それはもはや単なる物体だと思います。そして,例外なく死んでいきます。
> 死に行く者のために莫大な時間と労力・コストをかけるよりも,その命を,「生きようとしている」者のためにcontributeするのに何の問題があるでしょうか。
> 「殺人」「殺人」って言いますけど,そのお陰でどれだけの人間が死を免れることになるのか,ご存じでしょうか。
>
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●これに対して反論させて下さい。
●@: まず「たとえ体の一部分が生きていても,それを統合すべき脳が機能しなければ,それは“死”と考えて何ら問題はない」というご意見についてですが、あなたは「体の一部分が生きていても」とここで「生きる」という表現を使っておきながら「それは“死”と考えて何ら問題はない」と言っている。 あなたは「生きる」と「死ぬ」をどう定義して――あるいはどのようにとらえて――こういう矛盾表現を行なっているのですか?
私の考えを言えば、そもそも「生きる」とか「死ぬ」というのは、動物の個体に認められる――我々が直覚的に見分けられる――“生き死にの状態”を指していう言葉だったのではないかと思います。 これは、端的に言えば「心臓が動いている」「呼吸をしている」という兆候(サイン)で見分けることができるものでした。
動物、とくに人が、出産で“この世”に出てきた直後に初めて息を吸ったときに“魂”が入り込んで胸に宿り、ここから生命が始まって、“息を引き取った”ときに“魂”が体外に出ていって、そこで生命が終わる、と考える素朴な生命観が洋の東西を問わず広く信じられてきたのは、「生き死に」の区別をそういった直覚的な現象によって行なってきたからだと思います。
(私はここで“魂”などというコトバを持ち出しましたが、私自身は無神論者ですし、宗教的な思惑で説教をするつもりではないので、その点は誤解しないでください。 「脳に人格が宿っている」と信じる、「脳死=個体死」イデオロギーの根底にある考え方こそ、ユダヤ・キリスト教的思考法に由来する「意識の脳局在説」ドグマを引きずった“迷信”なのですよ。
むしろ最近の認知科学では、“意識”という“個体統合的機能”は脳だけで作られるのではなく、まさに全身の運動状態の中でダイナミックに構成されている、と考えられるようになってきていますしね。さらにいえば『免疫の意味論』[多田富雄著、青土社]を読めばわかるように、個体性の生理学的根拠になっているのは脳よりもむしろ免疫系ですしね。
ついでに言えば脳内は免疫系の働きが甘いので、他者から持ってきた組織を移植しても拒絶反応が起きにくい。そういうわけで10年以上前からヒトを使った脳組織移植が実験的に行なわれています。 脳内の神経細胞を再生する実験はいまさかんに行なわれているし、組織移植も可能になっている。 現在、「脳死」と診断されている病態の多くは遠からず治療可能になるでしょうね。
すると現在「臓器移植法」で「脳死体」呼ばわりされ「死体」扱いになっている“生物学的に生きている患者”は、現今の“脳死判定”で「脳死」と診断されたあとの時点からでも、組織移植や中枢神経再生手術で脳機能の一定の回復が可能になり、現今判定基準で「脳死でない」段階にまで引き戻せることになる。
私はなにも空想科学的な戯言[ざれごと]を言っているわけじゃありませんよ。 現在の「脳死」概念の根拠になっているのは、「中枢神経はいちど損傷を追うと2度と再生できない」という時代遅れのドグマだったのですから。 私も大学のときには――20年ほど前ですが――その道の権威のエラい先生が黒板にでっかく「中枢神経絶対不再生の法則!!」と書き付けていたものです。 生理学で「法則」といったら数学の「公理」にも匹敵する、絶対的な“真理”というか“定説”を意味していたわけで、数年前までは誰もこれを疑わなかった。 神経成長因子[NGF]によって中枢神経のニューロンを人為的に成長させて軸索が修復できる展望が拓けたのは90年代なかばのことだし、最近では骨髄幹細胞からニューロンを分化させることで人工的に神経細胞の発生や神経組織の構築ができる展望も拓けてきた。
かつて結核は死病だったわけで、もっとも当時は――1950年代前半まで――「呼吸や心拍があれば生者」だったから結核患者を生きたまま殺処分するなんてことはなかったわけだけど、抗生物質による治療が普及した結果、今では「死病」だなんて認識はないわけでしょ。 まぁ……結核にかぎって言えば薬剤耐性結核菌がひそかに蔓延していて、本当は感染リスクや治療法の限界が新たに出てきて深刻な事態になっているという現実があるにせよ……。
現在「脳死」呼ばわりされている“脳機能不全症候群”だって、中枢神経の再生技術が一般的な治療テクニックとして技術的に確立し、地域拠点病院に普及していけば、完全に「過去の遺物」となる概念だ。 そういう患者を「死体」と決めつけて生体解剖を許している現今の“功利主義的な蛮行”は、遠からず医学史の“恥ずかしい過去”として嗤[わら]いものになるでしょうね。 いや、すでに米国やドイツでは、脳死概念の廃棄を求める議論も起こりだしている……。
私は、目下「脳死=個体死」説を唱えたり擁護している連中を、嗤[わら]いものにする側にまわりますよ。 無知のために科学史上、あとで見直せば馬鹿と しか言えないことを平気で行なっていた例は、20世紀に入っても、たくさんありましたよね。 優生学関係についていえば、ナチスのやったことはその典型でしょう。 現代の遺伝医学者の学問的ルーツにはこの時代の優生学のイデオロギーや学問的発想が拭[ぬぐ]い難[がた]く染みついていますが、たいていの遺伝学者は馬鹿なのか、勉強不足なのか、嘘つきで卑怯なのか、そうした自分の存立根拠を正直に見ようとしない。 そうして連中は、ナチスの民族衛生学的“優生学”を自分たちとは無縁の愚挙として、きっちり批判や調査もせずに、作り嗤[わら]いで斥[しりぞ]ける。 歴史から学べば、そうした現代の卑怯者たちを嗤[わら]うこともできるわけですしね。
今世紀の前半、まだ放射線障害についてほとんど一般には――一般の学者や医者もね――知られていなかった頃、欧米ではお洒落な腕時計の針にラジウムを塗って夜行性にするのが大流行して、そうした作業を行なう時計組立の工場で働く女性は、かっこいい職業婦人の代表格でした。 そうしたお嬢さんたちは、ラジウム染料を浸した筆先を舐めてとがらせ、時計針に色を塗るという精密作業を行なっていたわけですが、たいていあとで癌で死んだ。 米国が原爆を獲得した直後、1950年代にはアメリカ西部の砂漠のなかで、地上で原爆を爆発させたのち、何万人もの歩兵をキノコ雲のもとに突入させる訓練が繰り返された。 当時は放射線障害の恐ろしさなんか、兵士たちは知らなかったものだから、アトミック・ソルジャーたちは原爆の廃墟に突撃をする訓練が執拗に行なわれていたわけです。 で、その兵士たちに、あとで放射線障害が出て、多くの“ヴェテラン被爆者”が今米国で苦しんでいる。
こういう無知は、歴史の流れの中では、“嗤[わら]いもの”にされても仕方がない。 過去の愚かさを嘲笑し、軽蔑し、反省することによって、その愚かさから抜け出すことが初めて可能になる。)
さて、脱線しましたが、「死」という概念について議論を戻しますと、人類は直覚的・原初的に相手の動物や人間が生きているか死んでいるかを見分けてきたわけでしたが――そうした判別能力は捕食能力をそなえた大抵の生物に何らかの形で備わっています――こうした直覚的・原初的な「生死の区別」は、文明の発展とともにだんだんと抽象化され、別の無関係な現象にまで比喩的に使われていくようになりました。
たとえば現在で言えば、ラジカセがぶっこわれたら「このラジカセ、死んじまったよ」なんて言いますよね。 そうした比喩的用法のたぐいです。 ここで問題となるのは、顕微鏡生物学の発展にともない、最近のような“顕微鏡的”微生物や、さらには生物個体の構成要素である「細胞」が発見されたことです。
微生物は発見当初は一種の“動物”だと認識されていました。 ですからその「生き死に」は、大きな動物における「生き死に」と同様、認識しやすいものでした。 細胞(セル)――これは顕微鏡画像が「小部屋」(セル)そっくりだったから付いた名称(ワイン保管用の地下[ワインセラー]や――通信地区小区画分割式無線電話[セルラーテレフォン]なども語源は同じ)――は“部品”なんで、その「生き死に」を問題にするのは本来的に概念の混乱なのですが、単細胞生物である微生物個体では「生き死に」が論じられるわけだから、細胞にまで「生き死に」が語られることになったのは無理のないことでしたが……。
やがて、光学式顕微鏡では見えないほど微小な病原体――「濾過性病毒」として1898年に発見されたウイルスのことです――について、生化学的な分析が飛躍的に進み、タバコモザイクウイルスのように容易に“有機物質の結晶”として抽出できる物体が、細菌同様の“機能”を示すことが判った。 (“機能とは要するに感染能力のことで、突き詰めて言えば学者が勝手に“機能”だという意味づけをして解釈した現象に他ならないわけですが……。) その結果として、「ウイルスは生物か、無生物か」という禅問答のような議論がさかんに論じられるようになった。 この議論を簡潔に紹介した『生物と無生物の間に』(だったかな)という岩波新書の青表紙は、20年ほど前までは生物学を学ぼうとする学生の必読書だったんです。 もっとも、今では生理学者や分子生物学者にとって「生命」とは“分子生物学的な有機構成体に観察されるシステマティックな“機能”の集合態”みたいに認識されるようになったので、「生命とは何ぞ」とストレートに問いかけるのは“無意味”だという風潮が蔓延していて、ウイルスは「生物」でも「無生物」でもどっちでもいい、ということになってしまいましたけどね。 まして単純な蛋白質である「プリオン」が、細菌なみの感染“機能”を発揮することまで判明したわけで、感染微生物学において「生物」を定義することは――「微生物学」という看板と矛盾していますが――いっそう無意味になりつつある。
ようするに、「細胞」であれ、「細胞」が集合して一定の“機能”を発揮するようになった「組織」であれ、「組織」が集合して胃体の“機能”を発揮するようになった「器官」なり「臓器」であれ、生物個体の単なる“部品”に対して「生死」を問題にするのは、本来、ナンセンスなことなのですよ。 細胞や組織や器官について生理学的な議論をする場合には、必然的に“人体機械論”の発想に依拠することになりますから、“人体部品”については「構造的損傷」なり「機能的不全」を論じるべきであって、“部品”の「生死」を語るのは比喩的なレトリックにすぎない。 「この時計、ゼンマイが死んだ」と言っているのと同じわけですからね。
ひとことで「脳死」と言っても、現在、@「脳幹死」、A「全脳死」、B「大脳死」の、少なくとも3種類の「脳死」概念が、提唱または実施されています。
どうして「脳死」概念が出てきたかは明白です。 1960年代の半ばに大型動物での心臓全置換手術――いわゆる心臓移植――が技術的に可能になった。 ……が、心臓移植を成功させるには「拍動を続けている新鮮な心臓」(beating heart)をどこかから調達してこなければならない。 つまり、すでに心臓が止まった(伝統的な「死」の概念にもとづく)死体から心臓を切りだしていては、間に合わないし、使い物にならない。 でも欧米ではこの手術をヒトに実施するのには躊躇[ちゅうちょ]があった。 ところがアパルトヘイトを国策としてとり続け、功利主義的な政策を進めるためには「人種を差別して“劣等人種”を“優等人種”のために奉仕させる」ことを当然だと考えていた地の最果ての南アフリカで、世界的には無名の病院医師が、1967年にこれを易々[やすやす]と行なってしまった。 クリスチャン・バーナードという名のその医師は、米国に留学して心移植のノウハウを学んだわけですが、心臓外科の世界では全く“無名”の医者だった。 そういう奴に先を越されたってんで、米国の医学界は――その10年前のスプートニック・ショックの時のように――パニックになった。 なんとか「まだ生きている患者」を「死体」だと決めつけて、「拍動する心
臓」の摘出を正当化する必要がある。 かくしてハーヴァード大学医学部に「脳死についての“場当たり的[アド・ホック]な委員会」という便宜的“検討機関”が設置され、ここが翌1968年に『不可逆的昏睡の定義』という文書を全米医師会雑誌(JAMA)に発表した。 興味深いのは、このレポートには「脳死」の定義は一言も触れていないことです。 彼らが言うところの「不可逆的昏睡」を――人工呼吸器の普及で「不可逆的昏睡」はしばしば報告されるようになっていました――死体扱いにしてもいい、というのが、このレポートに語られていた全てだったのです。 このレポートこそが「脳死=個体死」説のそもそもの原典なのですが、日本の臓器移植推進論者たちは卑怯にもこの報告書を隠蔽してきたので、日本では脳死論争そのものがオカルティズムになってきました。 (オカルトという言葉の原意は「隠蔽する」という意味です。天文学では「天体の食」による「掩蔽[えんぺい]」をオカルトと言います。 ですからオカルティズムとは、正確には「秘教」を信奉する態度のことを言います。)
「脳死=個体死」説というオカルティズムの歴史的原典であるハーヴァード委員会のレポートは、日本ではまともに紹介されたことがないので、ここで全文を翻訳し紹介しておきましょう。
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●● 不可逆的昏睡[イリヴァーシブル・コーマ]の定義 ●●
ハーヴァード大学・医学部
脳死の定義を検討するための場当たり的[アド・ホック]委員会からの報告
(全米医学界雑誌『JAMA』,1968年8月5日付,205巻6号85〜88頁)
[尚、この場当たり的[アド・ホック]委員会は、座長のヘンリー・K・ビーチャー医学博士に加え、次のようなメンバーで構成されていた――レイモンド・A・アダムズ医学博士、A・クリフォード・バージャー医学博士、ウィリアム・J・カラン法学および衛生学修士、デレク・デニーブラウン医学博士、ダナ・L・ファーンズワース医学博士、ジョーディ・フォルチパイ医学博士、エバレット・I・メンデルゾーン哲学博士、ジョン・P・メリル医学博士、ジョーゼフ・マーレイ医学博士、ラルフ・ポッター神学博士、ロバート・シュワッブ医学博士、およびウィリアム・スウィート医学博士]
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我々の主たる目的は、不可逆的昏睡[イリヴァーシブル・コーマ]を、新たな死の判定基準として定義することである。新たな死の定義が必要になった理由は、二つある。
@人工呼吸器などの蘇生・延命手段の改善により、絶望的損傷を負った患者を救おうとする試みがますます盛んになっているが、こうした努力の結果、心臓は動き続けているのに脳が不可逆的に傷ついたままの中途半端な成果しか上げ得ぬ場合も、時には見られるようになった。この負担は、知性を永久に失ってしまった患者自身にとっても、その家族にとっても、病院や、こうした昏睡患者が寝たきりになっている病院のベッドに収容すべき、別の患者にとっても、甚大なものとなっている(というのが第一の理由である)。
A時代遅れの旧来の死の判定基準に頼っていては、移植用の臓器を手に入れる際に強硬な反対意見に遭う恐れがある(というのが第二の理由である)。
不可逆的昏睡が生じる原因は数多あるが、ここで我々が扱うのは、中枢神経系の活動として識別できるような兆候が全く見受けられない昏睡状態の個体のみに、限定することにした。そうした個体の特徴を、充分に満足がいくような実践可能な表現によって定義することができれば――実際に我々はそうした定義をすることが可能であると信じているが――いくつかの問題はすっかり解消するか、解消できなくとも解決が一層楽になるはずだ。 この案件が抱えている難問は、医学の領域にとどまるものではない。道徳上、倫理上、宗教上、そして法律上の様々な問題を抱えているのである。しかし、ここでそうした問題に対応できる妥当な定義を策定しておけば、これらの諸問題のすべてに、より有効な解決策を与え、更に、現行の法律よりも有効な法制度を作り出していけるような、逃げ道が用意できることになる。
●不可逆的昏睡の特徴
脳であれ、それ以外のものであれ、もはや“与えられた職分を果たすこと[ファンクション]”(機能)が皆無であり、今後再び“与えられた職分を果たす”可能性が皆無であるような臓器がある場合、その臓器は、(理論上はともかく)実際には役に立っていないのだから「死んでしまった」ことになる。我々の最初の課題は、永続的に[パーマネントリイ]“所定の職分を全うに果たしていない[ノンファンクショニング]”脳がどんな特徴を示しているかをを、はっきりと掌握することである。
この状態の患者は、深い昏睡に陥っている。その状態は、次に上げる診断項目の@AおよびBによって、満足のいく形で診断を下すことができる。脳波(診断項目C)を用いれば確定的なデータを得ることができるから、利用可能であれば、使うべきである。しかし何らかの事情で脳波監視装置が使用できない場合は、大脳の機能喪失は、以下に挙げるような純粋に(解剖学的検査を除外した、患者の状態や疾患の経過を推定する手掛かりとなる)臨床場面で観察可能な、各種の徴候に頼るか、あるいは網膜の血管の血流が停止しているという観察所見からの推定に基づく「もはや血行がない」という判断に頼るか、あるいは心臓が停止しているという観察所見に頼って、判定を下さねばならないことになる。
@感受性[レセプティヴィティ]と応答性[レスポンシテヴィティ]の喪失
外から与えられた刺激や、内発的な要求に対して、まったく感じることができず、完全に応答性を失っている状態――これが我々の不可逆的昏睡の定義である。(この状態に置いては)最も強烈な痛みを及ぼす刺激を与えても、声を出すことも、それ以外の応答[レスポンス]を示すこともない。うめき声を出したり手足を引っ込めたり呼吸が早まることすら、起こらない。
A運動および呼吸の喪失
自発的な筋運動も、自発的な呼吸も、痛みや軽く叩いたり触れたりする刺激や音や光に対する応答も、全く喪失してしまっている、という(不可逆的昏睡の)判定基準を見たすには、複数の医師が少なくとも1時間にわたって観察を行なえば充分である。患者に自動呼吸装置が装着されてしまった後は、その人工呼吸器を3分間停止させてみて、自分から呼吸しようとする何らかの努力が認められるかどうかを観察すれば、自発呼吸を完全に喪失してしまったかどうかは確認できると考えてよい。(この呼吸テストを行なう際には、次のような準備と条件が必要である。まずテストに先立って、患者に少なくとも10分間、病室の[空気と同じ正常の酸素
分圧の]空気を呼吸させ、テスト開始の際に、この患者の[血液中の]二酸化炭素の分圧が、正常範囲内にあることが確認できれば、人工呼吸器を外すことは許されよう。)
B反射の喪失
不可逆的昏睡が、中枢神経系の活動の廃絶によって起きている場合には、誘導可能なさまざまな反射が失われてしまったことを確認できれば、部分的証拠とはいえ、それを立証したことになる。例えば(中枢神経系の活動の廃絶によって起きた不可逆的昏睡の場合は)瞳孔が開きっ放しのままになってしまい、目に直接強い光を当てても瞳孔は何の反応も示さなくなる。この瞳孔散大を確認することは、臨床検査としては簡単で明快な作業なので、判定に迷うような不確実性が入り込む余地は全くない。また(頭を急に左右に回すと“人形の目”のように眼球が頭の回転方向とは逆の方向に片寄るという「眼球頭反射」や、耳の孔から冷水を注入すると眼球が動くという「眼球前庭反射」などの、中枢神経系が機能していれば誘導可能な、反射的な)眼球運動や、まばたきも、(こうした不可逆的昏睡の場合には)失われている。(大脳を除去した場合などに大脳以外の中枢神経系の働きによって起こる、「除脳硬直」のような)姿勢固縮の運動も、(こうした不可逆的昏睡に至ってしまうと)もはや全く見られなくなる。呑み込み(嚥下)動作や、あくびや発声も、起こらなくなる。角膜反射や咽頭反射も失われてしまう。
(こうした不可逆的昏睡の場合は)通常は各種の腱反射による四肢の伸展を、誘導することはできない。つまり、大腿の二頭筋や四頭筋、下腿の腓腹筋、上腕の三頭筋、前腕の回内筋などの腱をハンマーで叩いてみても、各筋肉の(期待されるような反射的)収縮を引き起こすことはできない。あるいは足底を刺激したり、有害な刺激を与えても、(こうした不可逆的昏睡の場合は)全く反応はない。
C平坦脳波
確証的な価値が非常に高いのが「平坦脳波[フラットEEG]」、すなわち脳の電気的無活動のため脳波記録が等電位を指したままの「等電位的脳波[イソエレクトリックEEG]」である。脳波測定のためには当然、次のような大前提が整っていなければならない。まず、測定用の電極が、被験者に適切に装着されていなければならない。そして、測定器材一式が正常に作動するものでなければならない。更に、測定に携わるものには然るべき技能が備わっている必要がある。しかし更に、慎重を期するために、脳波計の測定・記録チャンネルの一つを、心電図測定用に割り当てておくべきだろう。脳波を測定する一方で、このチャンネルで心電図の監視を行なっておけば、例えば電極の接着が不十分で装着部位の電気抵抗が大きくなり、その結果、脳の電気活動に比べれば遥かに電位が高い心筋の電気活動を、脳波測定用の電極で拾ってしまったとしても、心電図と見比べることで容易にこの雑音を識別できるからである。おまけに、すでに脳波が消失してしまった場合には、このチャンネルでもっぱら心臓の活動を監視することもできる。だが更に我々は、もう一つの別のチャンネルを、脳と無関係の部位からの導出電極に割り当てることを、推薦しておく。このチャンネルの開設は、検査室やその周辺の電気的条件によって生じる“実験設定上の攪乱的電位変化[アーティファクト]”を検出・識別するのが目的である。こうした“雑音”識別用の、脳波とは無関係の部位の電極配置として、最も単純なものは、心電図の混入を最大限または完全に排除できるよう、なるべくなら右手の、手の甲に電極を二本とも接続することである。この(不可逆的昏睡という)状態を判定するための必要条件の中には、筋肉の活動が皆無であることも含まれていた。だから(不可逆的昏睡の場合には)筋活動電位による“雑音”の妨害を蒙ることはあるまい。脳波計の増幅器の感度は、10マイクロボルトの入力に対して、記録機のペンの触れが1ミリメートルになるよう(つまり10μV/mm、または50μV/5mm)設定する。しかし更に感度を2倍にして、5マイクロボルトの入力でペンが1ミリメートル触れる設定(5μV/mm、または25μV/5mm)でも、脳波が等電位状態(すなわち電気的無活動状態)を示していることを、確認すべきである。脳波の記録・観察は、少なくとも10分間は続けて行なうのが望ましい。二度行なえば、なおさら良い。
更に、短時間(5〜100秒間)でよいから脳波計の感度を最大限にまで上げて、脳波の様子を観察すべきである、との提案も出ている。集中治療室でこれを行なえば、たいていは諸々の“雑音”が観察される結果となるだろうが、こうした“雑音”は容易に見分けがつく。音の刺激や、つねって痛みの刺激を与えても、その反応が脳波には全く現れていないことを、確認せねばならない。
以上の検査手続きを、少なくとも24時間の間隔をおいて、全く同じやり方で繰り返さねばならない。
こうしたデータが、不可逆的な大脳の損傷をほのめかす状況証拠として有効であるかどうかは、次の二つの条件を除外できているかどうかで決まる――(華氏九〇度以下、すなわち摂氏三二・二度以下の)低体温、またはバルビツール剤のような中枢神経系抑制薬物。
その他の判定手続き
患者の(不可逆的昏睡に陥ったという)状態を判定することができるのは、医師一人に限られている。すでに定義してきたような絶望的な損傷を、患者が蒙っている場合には、その患者にかかわる重大な決断を行なう立場にある患者の家族やすべての同僚と、その患者の看護に携わる看護婦全員に、その旨を告げるべきである。死の宣告がなされねばならず、更にその後に人工呼吸器のスイッチを切らねばならない。この行為の決定と、その責任は、この患者への医療に直接携わった経験を持つ一人ないし複数の医師と協議した上で、患者の主治医が負うこととする。この決定を、患者の家族に強制するのは、不健全だし望ましくない。
●法学的側面からの注釈
アメリカ合衆国の法律体系には、本稿で論じているような不可逆的な脳損傷に対する医学的処置の在り方について、ある程度の考察と勧告を盛り込む必要が大いにある。目下のところ、アメリカ合衆国の法律は、50州すべてにおいても連邦裁判所においても、人間の死という問題を、どのような事件の場合でも(裁判所が決定すべき法律問題としてではなく)陪審が決定すべき事実問題として取り扱っている。その死に関して何らかの疑惑が存在している時には、法廷が医学専門家を召喚して、問題となっている特定個人の死亡時期について、意見を求めるというのが通例である。ところが現行法では、死の医学的判定基準はもはや完全に確立しており医学界では疑う余地など全くない、という暗黙の前提を置いている。しかも現行法は、医学界のおける正統的な死の判定法は「すべての生命徴候が消失したことを確認する」作業であるとの暗黙の前提を置いている。こうした事情から、『ブラックの法律辞典』(Black's Law Dictionary、第四版、一九五一年)は、「死」を次のように定義している――
「生命の停止。存在をやめること。医師による定 義では、血液循環の完全なる停止と、その結果生ずる呼吸や脈拍など各種の動物的な生命維持の働き[アニマル・アンド・ヴァイタル・ファンクションズ]の一切の停止」(ただし傍点は引用者による)
最近、死の定義にかかわる判決がいくつかの裁判所で出ているが、そのいずれもが(死の定義として)「すべての生命徴候の完全なる停止」という考え方を採用していた。ここでは二つの判例が検討に値しよう。いずれも、二人の死亡者のうちのどちらが先に死んだ可が、問題になった事件である。
第一の例は「トーマス対アンダーソン」事件である(96 Cal App 2d 371,211 P2d 478)。同事件の判決で、カリフォルニア州上訴裁判所は一九五〇年に、次のような判断を下した――「今回の事件においては、二人の男性のうちのいずれが最初に死亡したか、という問題は、(事実上の争点についての審理のみを担当する)公判の決定に委ねるべき事実上の問題に他ならない……」。
この上訴裁判所は『ブラックの法律辞典』に載っていた「死」の定義を全文引用し、そのうえで次のように結論付けていた――「……死とは、まさに生命が停止した瞬間に生起するものであり、心臓が拍動を停止し呼吸が終焉を迎えた時点で始めて生起するものである。死は、連続的に進行していく出来事なのではなく、ある時点で突如として出現する出来事なのである」。
第二の例は、一九五八年にアーカンソー州最高裁判所が判決を出した「スミス対スミス」事件である(229 Ark,579,317 SW 2d 275)。この事件で問題となったのは、自動車事故で死亡した夫と妻だった。夫は、事故現場で発見された時にはすでに死亡していた。妻は、意識不明のまま病院に運ばれた。訴えによれば、妻は「脳の損傷による昏睡状態が続き」、17日後に病院で死亡した、というものである。原告の主張は、この夫婦は同時に死亡した、というものであった。判決の中で、裁判官は、この原告が「極めて以上でしかも珍奇な申し立て」を行なっている、との意見を記していた。その一部を引用すれば、次のとおりである――
「(原告の訴えによれば)前述のヒュー・スミスとその妻のルーシー・コールマン・スミスは、一九五七年の四月十九日に自動車事故に遭遇したが、前記の事故は両者のいずれをも即死に至らしめるものであった、という。ところが医師たちは生存へのわずかな希望を捨てずに前述のルーシー・コールマン・スミスの蘇生と生命維持に向けたあらゆる努力を一九五七年五月六日まで続け、結局この日に担当医たちが、前述のルーシー・コールマン・スミスの生命維持と回復に向けての希望が完全に消え去ってしまったという判定を、ようやく下したのであった。
原告は、前述の故人ヒュースミスと前述の故人ルーシー・コールマン・スミスが同じ瞬間に意思能力を失い、しかも両者のこの世での人間としての死亡が前述の自動車事故の際に同時に起こり、両者ともそれ以後は意識の回復が一切起こらなかった、という内容の申し立てを、現代医学が決めるべき事項と見なして主張・陳述し、更に自ら進んで証拠能力を持つ証明を本法廷に提出してもいる」
だが裁判所は、これを「法律が決めるべき事項」と見なして、原告の訴えを却下した。判決文は『ブラックの法律辞典』から「死」の定義を引用し、その上で次の結論を下している――
「しかし我々の認識では、そうした状況は存在していなかったことになる。もっとはっきり言えば、そうした状況がこの死の定義の中に明確に述べられていない以上、科学的であるかどうかにかかわらず、スミス夫人を事故の時点ですでに死んでしまっていたと見なす趣意で提示されたものは、それがどのような証拠であれ、信じてしまうのはあまりにも軽率だということになる」
この件りの後に、裁判官の次のような意見が述べられている――「同様の理由で、我々は、たとえ意識を消失していても呼吸を続けているものは未だ死んでいないのである、ということを、裁判所にとって明白な事実についての“当然の確知”と見なす」。
この判決は、『ブラックの法律辞典』第四版に載っていた「死」の定義を、裁判所にとっては立証不要の事実を意味する「裁判所の当然の確知」(judicial notice)という表現で擁護した。これは即ち、この「死」の定義には重大な論争の余地があることを、裁判所が考慮しなかったことを意味する。そしてまた、責任を負うべき医学者なり科学者の業界[サークル]でこの問題にすでに決着が付いている、と裁判所が信じていることも意味している。かくして判事は、従来の死の定義を、立証不要の“議論の余地のない事実”と見なした。立証不要ということになれば、不必要な立証に時間を割いて公判を長引かせる必要もなくなるし、(従来の死の定義という)すでに決着済みの学問的原理に反駁を加えるためにわざわざ怪しげな「科学者」を法廷に呼び寄せ、その批判的言説に説得されてみすみす“ペテン”にかかるという危険を、避けることもできるという思惑である。こうして、アーカンソー州最高裁判所は、従来の死の定義を、すでに決着済みの科学的・生物学的事実だということにしてしまった。そして、「現代医学」の知見をもってすれば異議が出ても不思議ではないという証拠を、原告が提示したにもかかわらず、その検討を拒絶した。要するに、これが死の定義をめぐっての、アメリカ合衆国の法の現状なのだ。
けれどもこの報告書で我々が示しているように、責任ある医学者ならば、永続的[パーマネント]な脳損傷の結果として不可逆的昏睡に陥ったままの個体に対して「すでに死んでしまっている」と宣告を下しうる新たな判定を、喜んで採用するだけの分別があるのだ。医学界全体がこの立場を採用すれば、死に対する現行の法律上の考え方に、転換をもたらす根拠地を築くことができる。法律がこの問題を扱う場合は手続き上の必然として、事実問題にかかわる案件として医師に判断を委ねることになるから、法改正は必ずしも必要ではない。州ごとの法律事情の違いを乗り越えて、「死」というものを法律によって規定するために立法活動を企てねばならない状況があるとすれば、それは唯一、この問題をめぐって一大論争が生じ、この新たな医学的判定基準に関して医師たちを合意に至らしめることが不可能になった場合に限られるであろう。
但し、(新たな死の医学的判定基準が採用された場合には、判定のための)諸手続きの一部として、判定基準に掲げた条件がすべて揃っているかどうかの判断は、医者の先決事項にしておくべきである。したがって、この新たな死の判定基準に則って患者の死を宣告する場合は、その宣告に先立って、主治医がこの患者の医療に直接携わった一人ないし複数の医師に相談しておくべきであろう。この手続きを踏むことで、複数の医師が連帯責任で判断を下すことになり、その結果、もしも後にこれが問題化しても、(死亡宣告を行なった主治医を守る)重要な防衛線を張っておくことができる。更に言えば、(延命装置によって「生きている」ように見える患者が、「人格を持った人間[パ
ーソン]」としては)「既に死んでしまっている[デッド]」と宣告を下すとともに人工呼吸器を停止する、という作業は、死亡した当該個体から取り出した臓器や人体組織を使っての移植手術には、全く関与していない医師が行なうのが、望ましい。これは、医師が自分たちの利益のために(不可逆的昏睡の患者の「死亡宣告」から臓器摘出に至る一連の)作業を行なっている、という印象を与えないようにするためなので、ここに忠告しておく価値がある。
それから、(不可逆的昏睡が続き、仮に患者が人工呼吸器につながれたままになっていたとしても)人工呼吸器の取り外しにかかる前に、とにかく患者の「死」の宣告を行なっておくことを、我々は強く忠告しておく。人工呼吸器を取り外してしまったり、人為的刺激を与えた上で患者の徴候を調べる(中枢神経系の反射などの)検査をすべて放棄してしまった後で、ようやく「死」の宣告を行なうようなまねは、すべきではない。こう忠告したのは、これを守っておけば、作業にかかわった医師たちを強力な法的防衛線で保護できると、我々が判断したからである。「死」の宣告を怠れば、法を現行の方式で厳格に文言どおり適用する限り、人工呼吸器を取り外した医師は、「まだ生きている」人物[スティル・アライヴ・パーソン]を相手に、それを行なってしまったことになるからだ。
●我々の意見
不可逆的昏睡は、心臓停止・呼吸停止に伴う無酸素症・脳組織の広範囲に及ぶ損傷・頭蓋内の腫瘍や血管の損傷など、さまざまな原因で起こりうる。これ以外にも、例えば尿毒症などに伴って生じる代謝異常のような、脳に障害を及ぼすさまざまな状況が、不可逆的昏睡を引き起こすことがある。いずれにしても、呼吸不全や血流の停止が、不可逆的昏睡湖をもたらす。つまりそうした原因で脳に低酸素症や虚血がもたらされ、これが不可逆的昏睡を招くのである。
いにしえの昔から、つい最近に至るまで、呼吸や心臓が止まれば間もなく脳も死ぬことは“自明の理”であった。心拍の消失という明々白々たる現象を以て「死」を判定する、という旧来の判定基準は、だから“死の判定基準”としては充分に正確だったわけである。昔は心臓が“人体で最も大事な臓器”であると考えられていたから、それが止まった時点から「死」が始まる、という考え方がまかり通っていたのは当然のことだった。しかし人工呼吸器のような蘇生・延命手段が使われるようになった現代においては、もはやこの考え方は妥当ではない。今では「生命」を維持保存することが可能になっている。但し、ここに謂[い]う「生命」とは、呼吸や心拍の継続を「生きている」ことの条件と見なす時代遅れの基準によって判断した場合の“生命”にすぎない。確かに、広範囲に及ぶ脳の損傷で意識を失ってしまった個体が、たとえその意識を回復させる可能性を全く有していない場合でも、その「生命」を長らえさせることは可能になっている。また、これ以外の場合でも人工呼吸器の装着や電気刺激による心拍の維持や、一時的に心臓バイパスで血流を維持したり、こうした処置を行ないつつ体温を下げて身体の酸素必要量を低下させてやるなどの操作を行ないさえすれば、「生命」を維持することは可能である。
ローマ教皇ピウス十二世は、『命を長らえさせること』と題する説教(一九五七年)の中で、多くの問題提議を行なったが、そこで提示された結論の中には次のような注目すべきものが含まれていた――
(1)深刻な意識消失状態をきたした個体に延命処置を施した場合、その延命期間を通して認められる“生命維持のための体内諸器官の所定の働き[ヴァイタル・ファンクションズ]”は、単に非凡な手段を用いて人為的に維持できているにすぎないこともあろう。そうした個体が「死」に至った時点を検査で確認することは可能であるけれども、それはあくまでも医師の専決事項だ。そして、この場合の「死」の時点とは脳に回復不可能な癒しがたい損傷が生起した時点に他ならない、とする学説もこれまでに提案されてきている。
このように、とにかくピウス十二世は、この「死」をめぐる決定は「教会の権能の及ぶところ」ではないと白状したわけである。
(2)無理のない平凡な手段をすべて動員して(患者の)自発的な生活機能[ヴァイタル・ファンクションズ]や意識を維持保存することは、医師に課せられた義務である。更に、もしも利用可能であれば、この目的のために非凡な手段を使うことも、医師の務めではあろう。しかしながら、望みなき患者に対して非凡な手段をダラダラといつまでも使い続ける義務はない。ピウス十二世もこう仰有[おっしゃ]っている――けれども平凡な方法を用いるのが普通なのであります。いつ、どこで、誰が、どういう文化の元で行なうかによって、さまざまではありましょうが、とにかく、本人にとっても他人にとっても何ら大きな負担にはならない“方法”であります」。もはや蘇生延命のための努力をやめるべきだし(新たな基準による)「死」に対して異議を唱えるべきではない、と教会自体が見解を出しているわけだ。
●まとめ
「脳死症候群[ブレイン・デス・シンドローム]」とか「不可逆的昏睡[イリヴァーシブル・コーマ]」と謂う専門用語で呼ばれてきた神経学的障害は、広範性の疾患の存在を表わすものである。この状態においては、大脳の段階でも脳幹の段階でも、そして多くの場合は脊髄の段階でも、これらの器官が果たすべき“所定の働き[ファンクション]”は完全に破壊されてしまっている。このことは多分、すべての症例に臨床検査を行なえばはっきりと判るはずだ。大脳にも皮質にも視床にも障害が広がっていることは、感覚器にあらゆる形態の刺激を与えてもそれらに対する感受性が完全に消失してしまっていることや外から与えた刺激に対しても内発的な要求に対しても応答的反応が充分に現れてこないことから、窺い知ることができる。そもそも「昏睡」という専門用語そのものが、この感受性喪失と応答性喪失の状態を明示するために使われているのだ。しかしこれに加えて(不可逆的昏睡の場合は)大脳除去で生じる除脳姿勢などのあらゆる姿勢反射が全く消え失せてしまうとか、呼吸が完全に麻痺しているとか、瞳孔が開きっ放しになってしまっているとか、眼球運動や嚥下や発声や顔面とか舌の筋運動が麻痺してしまった、といった徴候となって現れる脳幹および脳幹神経節(基底核)の麻痺も、常に伴なっている。更に、これは常にとは限らないが、(不可逆的昏睡は)脊髄の損傷をも伴うことがあり、そうした場合には通常、腱反射や、足に強い痛み刺激を与えることで膝や腰や踝[くるぶし]に起こる障害防衛的な屈曲反射のすべてが、失われてしまう。時には脳幹と脊髄がしばらくの間、機能をとどめていることがあり、その場合には血管の拡張や収縮といった血管運動反射が維持されるほか、心臓と血管の働きが維持されるという(不可逆的昏睡の定義とは、一見)矛盾するような事態が起こることもある。しかし、こうした事態は神経の支配とはある程度独立しているのであって、脳と脳幹と脊髄に広範に障害が及んでいても生じうる現象である。
先に述べた
(不可逆的昏睡を示唆する)神経学的な徴候が、一定時間を経た後も一貫して持続しており、しかも「薬物中毒の形跡が見られず、低体温状態にも陥っていないこと」という誤診回避の条件も満たされている場合は、(「死」の判定のための)神経学的な査定は信頼性が増す。この誤診回避の二つの条件のうち、仮にいずれか一方が満たされていない時には、体温が正常範囲に戻り中毒薬物が解毒されるのを待って、神経学的な解釈を行なうべきである。しかしこうした留保が不要な場合にも、“状態”が“不可逆であること”の証拠を入手するためには、とにかく24時間以上の期間をおいて、繰り返し検査を行なうことが必要であろう。
・引用文献:ピウス十二世、「命を長らえさせること」(The Prolongationof Life)、『教皇のお言葉』(Pope Speaks)誌・第四号、三九三〜三九八頁、一九五八年
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このレポートの冒頭の@とAを読めば、「脳死=個体死」イデオロギーがなぜデッチ挙げられたのか、明々白々としています。
こうして「脳死=個体死」という虚偽概念が宣伝されたわけですが、すでに述べたように、「脳死」の定義には現在3つの“変種”が存在しています。
伝統的な個体死の判定基準は、「呼吸停止」「心拍停止」それに「瞳孔散大」という3つの“死の兆候”が揃って確認されることでした。 すくなくとも「呼吸」運動と「瞳孔反射」運動の中枢神経レベルでの“発生源”は脳幹なので、脳幹が完全かつ不可逆的に「機能不全」に陥れば、呼吸は永久に止まる。 呼吸が止まれば、最終的には個体死に至る。 そういうわけで、「脳幹機能の不可逆的停止」を強引に「個体死」と等価なものだと決めつけたのが「脳幹死=個体死」ドグマでした。 英国では、この定義に基づいて、「脳幹機能の不可逆的機能不全」と推定される患者から“生モツ”が取り出されています。 しかしこの定義は、実は原理的に破綻しています。 なぜなら人工心肺や各種の薬剤投与によって“生命維持”が行なわれている最中の「脳幹死」患者は、まさにそうした医療手段が「代理脳幹」(surrogate brain stem)の“機能”を立派に果たしているからです。 心臓が人体から切り取っても拍動を続けているのは、心臓自体にペースメイカーが備わっているからでして、基本的には脳幹から独立しています。 脳幹には心拍を調整する中枢がありますが、それは人工心肺で機械的に代替しているわけです。 ただし、脳幹には、全身の臓器や組織に効率的に血液を配分する“機能”があって、こうした微妙な調整作業は機械では代替できません。 集中治療室で生命維持されている「脳死」患者は何ヶ月か後には多臓器不全に至って(伝統的「死」の定義でいうところの)個体死に至りますが、その理由の一端はこうしたところにあると推測されています。
米国では80年代の初めに先端医療や生体実験についての倫理を検討する大統領委員会が、「全脳死」を以[もっ]て「脳死」と見なす、という勧告を出しました。 日本も猿真似して、この定義を採用しました。 しかし、「脳全体の全機能の不可逆的停止」という表現は、詩人のコトバ遊びとしてならスッキリしていてわかりやすいでしょうが、現実には「全機能の機能不全」を確認する方法なんかありませんし、まして「機能不全が不可逆的」であることを、患者を病理解剖もせずに臨床的(ベッドサイドでの外見的観察を頼り)に診断するなんて不可能なんです。 実際に、「脳死」患者にも脳ホルモンの分泌や「嗅脳」の電気的活動が少なからず観察されてきました。 しかし「死んだも同然の患者だから“死亡”と認定しても問題はない」という論理で、こうした矛盾を棚上げしてきたのが現実なのです。
「脳死=個体死」説の現時点における急先鋒は、「人格の座は“高次脳”すなわち大脳にあるのだから、大脳機能の不可逆的停止を以て“個体死”とみなすべきだ」と主張する生命倫理学者などの勢力です。 いわゆる「植物状態」――専門用語では「persistent vegitable state」(永続的植物状態、ただし日本では「遷延性植物状態」という誤訳がまかり通っている)――は、まさにこの「大脳の“死”」に該当するので、「大脳死=個体死」説では抹殺の対象になります。 90年代に、米国で、ナンシー・クルーザンという少女が事故で「植物状態」となり、両親が「チアリーダーで活躍していたあの子はもう死んでしまったから、慈悲殺を認めてくれ」と裁判を起こしたことがありました。 病院側は親の求めを拒否したのですが、裁判では親の主張を認める判決が出て、ナンシーは栄養チューブを外されて食糧や水分の補給を絶たれ、公然かつ“合法的”に殺されました。 日本では「植物状態」でも積極的な脳機能回復訓練を続ければ「植物状態」から脱出できることが医療現場の努力によって実証され、そうした医療が広がりつつあるのですが、「昔のチアリーダー時代のあの子とは違うから」という理由で、米国では「植物状態」患者も合法的に殺されているのです。 (たしかに若い頃の美しい姿を絶対視すれば、「植物状態」は“死体”も同然でしょうよ。 でもそんなことを言い出したら、年寄りなんか、みんな“死体同然”だということになってしまう。 そして若い頃に華々しい活躍をした人ほど、落ちぶれた姿を「死体同然」と見なされてしまう。)
どうして脳の機能停止が「個体死」扱いされるのか、その最もわかりやすい例が、「大脳死=個体死」説だと言えるでしょう。 つまり「人間らしい」ふるまいの“中枢”こそが脳である、という「脳への人格局在説」がこの考え方の大前提になっているのです。 じゃあ、「人格」って何か? それが文化的偏見によってくるくると定義の変わるイデオロギーであることは、歴史的に実証ずみです。 白人社会では有色人種を「劣等人種(ウンターメンシュ)」扱いにして、まともな教育も与えなかった。 女性を「劣等人種」と考えてきたことも忘れてはならないでしょう。 こうした差別思想を支えてきたのは、旧約聖書的世界観だったのかも知れませんが、その点についてはここで論じるには大きすぎるテーマなので、これ以上突っ込まないでおきましょう。 (ついでに言えば、近代西洋社会では「法人」[corporation]という擬制的“人格”までデッチ上げていますしね。 英米法辞典による「法人」の定義は、「目に見えない、手で触れられない、法の思惟[しい]の中にのみ存する擬制的存在」、つまり株式会社などの“権利”を正当化するためのフィクションなのですが……。)
結局、「脳死」というコトバなり概念をでっちあげて、個体死の認定範囲を広げるという企ては、本質的に政治的なことであって、医学的議論はその“お飾り”にすぎません。 これは知識社会学的に考えれば
、国境確定の議論と同じ構造だと言うことができるでしょう。
国境確定の議論にだって、地理学者が活躍する余地は用意されています。 しかし、最終的に国境を確定するのは、政治的な行為なのです。 人の「死」の境界を画定するのも、本質的に政治的な行為です。 まして日本の医師集団は、職能集団としての独自裁量権を放棄して――なぜなら殺人罪で告発されるのが怖かったから――オカミである政府にすがって法制化を求めました。 ここに至って、日本における「ヒトの死」の定義は、疑いの余地なく政治的行為へと純化されたわけです。
しかしそもそも、「脳の不可逆委的機能不全」を「脳死」などというのは、「死」というコトバが抱えている“諦[あきら]め的ムード”を利用した、悪質なプロパガンダ戦略にすぎません。 我々は「腎臓の不可逆的機能喪失」を「腎不全」といい、「心臓の不可逆的機能喪失」を「心不全」と呼んでいます。 さまざまな原因による免疫機能のは不可逆的喪失は「免疫不全」と呼ばれているわけで、AIDS(後天性免疫不全症候群)もそうした病気の一種です。 最近では「ヴァイアグラ」の市場化にともない、「勃起不全」(ED)というコトバがさかんに宣伝されるようにもなっています。 (もっとも、神経損傷などの器質的原因による不可逆的な「勃起不全」は、ヴァイアグラでは絶対に治せませんが……。) 我々は「腎不全」を「腎死」とは言わないし、「心不全」を「心死」ともいわない。 ましてエイズ患者を「免疫死者」とは言わないし、事故や大病でチンボが二度と立たなくなった人にむかって「チンボ死体」だなんて言いませんよね。【笑】 ……当然ですよね。 だって個体としては生きているんだもん。 「脳死」患者はたしかに「不可逆的昏睡」に陥っており、我々が観察できるような意識活動はありません。 しかし、それでも免疫システムその他の全身の機能は、かなりまともに維持されている。 すくなくとも場合によっては、妊娠の継続や出産ができるほど、まともである。 そうした(頭から下が)“健康な状態”を「死体」呼ばわりするのは無理がある。 つまり、「脳死」というのは欺瞞的な――無知なる大衆をミスリードする目的と効果を持った――表現であって、正確には「脳不全」とでも言うべき病態である。 「脳不全」患者と呼べばいいものを、「脳死」なんてコトバを持ち出してくるから「脳死体」などという欺瞞的表現がばらまかれることになる。
●A: 「“教育学的な死”や“道徳的な死” って言っている時点ですでに論理が破綻していると思いますが」・・・というご指摘についてですが、かつて、第一次大戦直後のドイツで、当世一流のアカデミッシャンが、『価値のない生命の抹消の解禁について』という“慈悲殺の勧め”を著わして、効率主義にかぶれた保健官僚や政治家や優生学者(ドイツですから「民族衛生学者」ですが)を喜ばせたことがありました。 執筆したのは精神医学と法学の大学教授コンビですが、現代で言えばさしずめ「生命倫理学」者に相当するでしょう。 この著者コンビは、精神薄弱児やボケ老人を「精神的な死体」と呼び、そうした人々は「社会の足を引っ張る存在」だから慈悲殺にすべきだと説いた。 それから十年ちょっと経ってナチスが(民主的選挙で圧倒的な支持を得て)政権を獲り、先天的障害児の慈悲殺をヒットラー総統に直接嘆願してきた一人の父親の望みをかなえる形で障害児の抹殺事業が国家規模で開始され、それが成人の精神病者や障害者にも拡張され、やがて東方のスラヴ人捕虜やユダヤ人やジプシーにまで拡張された。 (詳しくは『比較「優生学」史』[マーク・アダムズ編,佐藤訳,現代書館]を参照。)
もちろん、ヒットラーは戦時体制における経済動員の効率化を果たすために、「精神的な死者」という概念を利用したわけですが、いわゆるホロコーストの発端には、「精神的な死者」すなわち「無価値の生命」を「抹消」してもかまわない、というイデオロギー的な前提がすでに用意されていたわけです。
つまり「教育学的な死」とか「道徳的な死」という物言いは、今でこそ荒唐無稽に聞こえるが、こうしたイデオロギーが台頭してくる可能性がないとはいえない。 問題は、効率主義なり実用主義なりの観点から「死生観」を操作改造した例は過去にあったし、現代の「脳死=個体死」説もそうした策動の典型である、ということなのです。 「脳不全」の患者は――ハーヴァード大学報告書が宣言しているように――「集中治療室のベッドを無益に占拠している邪魔者」であり、それゆえ「死体」と見なしてさっさと処分すべきだ、という論理は、こうした実用主義の典型なのです。
日本において「脳死=個体死」説を正当化するために医師会の連中がさんざん使った論理は「脳死は医学的な死である」という物言いだったんですよ。 そして「医学的な死」という物言いの内実が、治療を職業とする医者連中にとって、「もはや(現時点では)手に負えない、とおからず確実に個体死に至る状態」だから「個体死」と等価にしてもいい、という暴力的論法だったことは明らかなのです。 だって「医学的な死」と呼ばれる状態が「生物学的には生きている」ことは明々白々としているのですから。 「教育学的な死」とか「道徳的な死」と同質なナンセンスな決めつけによって、殺人を合法化してしまったのは、日本医師会と、その利益代表である国会議員の連中だったのですよ。
●B:「 だって,脳が無かったら,生きられないんですから。一応,医療技術の発達により心臓を動かし,人工呼吸器で呼吸させて,“生物学的”には生きていても,それはもはや単なる物体だと思います。そして,例外なく死んでいきます。」――このご意見についてですが、あなたの「生死」の概念が混乱していることは、すでに歴然としています。 「全脳死」の定義においてさえ、本当に「全部の脳」が不可逆的機能停止に至っているかどうか、臨床的には確実に確認するすべがないことも、すでに述べました。 (脳を病理解剖で摘出して、全部の細胞の構造が破壊され、機能の発現が不可能であることを確認できれば「全脳死」……もとい「全脳不全」と診断することが許されるでしょうが、そうやって脳を摘出した時点で、殺人罪が成立するでしょうね。 つまり「全脳死」の定義は、現実には確認不可能なパラドックスにすぎないのです。) 現在の「脳死」患者は、脳幹機能を代理している生命維持装置によって「生かされている」という事実を、お忘れなく……。
ところで、こういう言い分だって、世が世であれば成り立つかも知れませんよね――「 だって,カネが無かったら,生きられないんですから。一応,信用手段の発達により金融機関を動かし,クレジットカードで決済させて,“名目取引的”には生きていても,それはもはや単なる物体だと思います。そして,例外なく死んでいきます」。【笑】 「例外なく死んでいく」ことが問題なのであれば、人間、オギャーと生まれた瞬間から、「例外なく死んでいく」ことが宿命づけられているわけだし……。
「 だって,脳が無かったら,
生きられないんですから。一応,医療技術の発達により心臓を動かし,人工呼吸器で呼吸させて,“生物学的”には生きていても,それはもはや単なる物体だと思います。そして,例外なく死んでいきます」――こうした物言いは、「脳死=個体死」虚偽概念で無知なる大衆を騙そうとしたデマゴギーたちがばらまいている常套句なのですよ。 自分で意識的に考える習慣を身につけて、デマを見破る目を養ってほしいと思います。
●C:「 死に行く者のために莫大な時間と労力・コストをかけるよりも,その命を,“生きようとしている”者のためにcontributeするのに何の問題があるでしょうか。“殺人”“殺人”って言いますけど,そのお陰でどれだけの人間が死を免れることになるのか,ご存じでしょうか」――なるほど、これも一つの“見識”かも知れませんね。【笑】
だったら、真っ先に、年寄りの“抹消処分”を主張すべきなんじゃないですか? 「価値なき生命の抹消を解禁すべきである」とか言ってね。【笑】
ハーヴァード大学報告書が冒頭で宣言していたような“功利主義による重病患者抹殺の解禁”こそ、私は「脳死」問題の最大の論点だと考えてきました。 日本のバカ政府とバカ国民は、お涙ちょうだい的な扇動宣伝によって、この功利主義的“抹殺解禁”政策を認めてしまいましたから、坂道を転げ落ちるように、当初想像してもいなかった人命軽視の風景を見ることになるでしょうが、私はそれを自業自得だと考えています。
それから「contribute」というコトバを白痴状態のまま――このコトバを利用したプロパガンダをな〜んも考えずに受け売りして――お使いになっているようなので、翻訳者として一言ご注意しておきますが、これは語源的に「ぶんどった獲物を、部族間(tribe)で、ともに(con-)謀[はか]って配分する」という含意があります。 つまり、寄贈物に配分するだけの余裕があり、その配分作業が合議(共同謀議)によって配分される、という意味合いを必然的に含むコトバなのです。 ペルシャ湾岸戦争のときに“分担金”の「contribution」が、このコトバを使って議論になったのは、まさにそうした含意があったからです。 「contributte」の「con-」が、「conspire」(陰謀を企てる)の「con-」になる場合もあることを、頭の片隅に入れておいて損はしないと思いますよ。
「“殺人”“殺人”って言いますけど,そのお陰でどれだけの人間が死を免れることになるのか,ご存じでしょうか」――米国大統領だったトルーマンは、まさにこの論理で日本への原爆投下を正当化しました。 だって、日本が無条件降伏しなければ、55年前の秋に米軍は「オリンピック作戦」を開始して、ニッポン本土で大殺戮[さつりく]戦を遂行せねばならなかったのですからね……。 あなたの短絡的なご指摘を見て、おそらく一番喜んでいるのは、墓場の下のトルーマンじゃないでしょうか。