投稿者 全文 日時 2000 年 7 月 06 日 10:23:54:
http://s-a-t.org/sat/column/column_1.html#19990328
1999年3月28日
少年A取り調べの警察官・検察官に対し、弁護士11人が自白強要の告発
まず、事情をよく知らない人のために神戸事件の冤罪説について触れておきたい。神戸事件は少年Aが犯行を行ったとして一般的には認知されている。しかし、あれは冤罪ではないか、当時の様々な状況からも少年Aが犯行を行ったとはとても思えない、との声が意外に強いのである。その視点から今回の話を読んでいただくとわかりやすい。
神戸事件に関連して、警察・検察の不正の告発を支援する会の「講演の集い」が3月22日に開かれた。
昨年10月9日、後藤昌次郎弁護士ら11人は、A少年に偽計を用いて「自白」を強要した兵庫県警警察官と共犯の検察官を「特別公務員職権濫用罪」で大阪高等検察庁に告発した。このことを受けての集会である。
折しも、発売されたばかりの週刊文春1999年3月25日号に、少年Aの母親の手記が掲載されており、問題提起を行った後藤昌次郎弁護士は、主に母親の手記を題材に喋ってくれた。
週刊文春に従って、少年Aと両親の面会の経過を見てみる。
週刊文春1999年3月25日号による、少年Aと両親の面会の経緯
少年Aは1997年6月28日の逮捕以降、両親と会うことを一貫して拒否してきた。3ヶ月たった9月末に、両親は連絡なしに息子が送致されている神戸少年鑑別所を訪れた。ところが、少年Aが両親に浴びせたことばは、
「帰れ、ブタ野郎」だった。
2日後、鑑別所の管理官から電話があり、少年Aが母親に会ってもいいというので、母親は今度は一人で、神戸少年鑑別所に行った。
次に両親が少年Aと顔を合わせたのが、1997年10月9日第3回審判、17日の第5回審判の時だった。少年Aは、第5回審判の3日後に東京府中の関東医療少年院に移送された。年末、両親は府中の面会室で少年Aに面会した。
両親は、面会に何度も訪れたが、府中では2回しか会えていないという。
少年Aの両親は現在どこに住んでいるのか不明だが、文芸春秋社はなぜか行方を知っていて、両親に接触し、手記を書かせることになる。
両親の判断材料は、少年Aとの面会、弁護士の接見メモ、精神鑑定書だけだった。
こうして、そもそものこの手記の眼目である、
週刊文春1999年3月25日号32頁の3段目
その時、フッと直感めいた考えが頭をよぎりました。 <ああ、やはりウチの息子があの事件の犯人やったんや。Aがやってしまったんだな> 私はようやく実感として、辛い現実を受け入れられるようになりました。
が書かれることになったのである。つまり、親ですら自らの息子である「少年Aの犯行である」と、肯定している状態なのだ。
集会を主催する冤罪説の人々が、「少年Aの親ですら息子の犯行であると肯定する状態」をどういう理屈で乗り越えるのかな、と私個人としては楽しみにしていた。その期待通り、後藤昌次郎弁護士はすごかった。見事に解説してくれた。聞いたことはすぐ忘れるたちなので心許無いが、とりあえず思い出した部分だけ紹介することにしたい。
後藤昌次郎弁護士の説明要約
両親が少年Aを犯人だと思ったのは、あくまでも直感であり、これこれの証拠がありますからと見せられて判断したわけではない。
判断材料となった精神鑑定書は、有罪を前提としてまとめられたものなので、これを事実であると評価するのは間違っている。
審判のとき、家族についてどう思いますか、との質問に少年Aは、「自分を守る石垣のような存在です」とだけ淡々と語った。両親も「そう、私たちがこれからも石垣になって守ってやらないと」と考えている。でも守ってやることはできなかった。
守れなかったのは、一番両親の助けが必要だった6月28日から9月末までの間、警察が両親と少年を会わせなかった、からである。
このへんのいきさつは、28頁5段目に触れられている。
週刊文春1999年3月25日号28頁5段目
「会いたい」と警察に何度かお願いしていたのですが、最初の頃は、留置されている須磨署が報道陣だらけでとても無理だ、と断られました。その後も弁護士さんを通して面会をお願いしたのですが、Aから拒否されていました。
9月末の最初の面会のときのやりとりが、27頁一番下の段から28頁3段目にかけて記載されている。
週刊文春1999年3月25日号28頁3段目
両親が言葉をかけた途端、
「帰れ、ブタ野郎」
「帰れ−」「会わない、と言ったのに何で来やがったんや」と怒鳴り出し、これまで一度も見せたことのない、すごい形相で両親を睨みつけた。
涙を一杯に溜め、グ−ッと上目使いで本当に心底から私たちを憎んでいるという目。少年は睨みつけながらも涙をボロボロこぼして泣いていた。
後藤弁護士は、この涙に注目して、
「この涙は、少年の無念の涙」
と解説してみせてくれた。
一番助けてほしい時に面会に来てくれなかった両親に対して、今になってという気持ちは強かっただろう。少年はまさか警察が妨害していたとは露とも思わなかったに違いない。
集会からの帰り道、一緒に行った友人の88才になる上野さん(三鷹事件で獄中死した竹内さんを支援したことがある)は、
「面会に来ないのは、両親がお前を見捨てたからだ、と警察は言った(可能性が高い)、というのを後藤弁護士は忘れている」
と評した。
「警察は言った」
というのは、過去の冤罪事件を支援した上野さんの、経験からくる推論である。
私は、
「警察がそういう発言をした可能性はある」
と答えただけだったが、確かに、少年と両親を離反させるために、何らかの言葉を警察が弄したのは間違いないところだろう。