【10】忘れられた民族大虐殺:第二のレイプ

 
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投稿者 全文 日時 2000 年 7 月 03 日 23:08:15:

回答先: 【9】生き残った人々の運命 投稿者 全文 日時 2000 年 7 月 03 日 23:01:54:

【10】忘れられた民族大虐殺:第二のレイプ


現今にアメリカ合衆国全土や世界の大部分の国々にアウシュビッツのガス室の恐ろしい写真を見たことがなかったり、アンネフランクの忘れられない話を少しも読んだことがない子供がいるでしょうか?少なくともアメリカ合衆国では、ほとんどの子供たちが、アメリカが日本の広島と長崎に投下した原爆の破壊効果について教えられています。しかし調べてみると、極めて教養のある大人を含めるアメリカ人の子供や大人たちの大半が、60年前に南京で起きた出来事について答えることが出来ないことがわかりました。著名な政治学者は、この主題が大学院の全課程を通じて現れたことがないことを認めていました。プリンストンで教育を受けた女性弁護士は、恥ずかしそうに中国と日本が戦争をしていたことすら知らなかったと言いました。第二次世界大戦の太平洋上での対立に関する彼女の知識は真珠湾と広島が限界でした。この無知はアメリカ合衆国にいるアジア系アメリカ人にまで広がっており、中には「南京?それは何だ?王朝か?」と答え、地理と歴史に関する嘆かわしい理解力を示してきた者もいました。
60年前にアメリカの新聞で一面記事に掲載されたこの出来事は、ほとんどトレースされないまま見えなくなっていっています。この話は「シンドラーのリスト」のような劇的な要素を持っているにもかかわらず、ハリウッドでこの虐殺についての主流映画が制作されたことはありません。そして最近に至るまで、大半のアメリカの小説家や歴史家たちも、この出来事について書こうとはしていません。
このような言葉を聞いた後、私はこのままだと30万人の中国人が殺害された歴史事実は、ちょうど犠牲者自身が日本占領下で消されていったように消えて無くなり、いつか世界が南京大虐殺は全く起きたことがない悪ふざけの作り話だという日本の政治家たちを信じてしまう日がくるのではと恐れました。そしてこの本を完成させるために、私は歴史と、歴史が作られていく過程をよく審査しようと歴史書だけではなく、歴史編集書も調べることを自分自身に課しました。一体、何が歴史の中で不可避な出来事になり続け、残りは忘却に割り当てられるのでしょうか?ちょうど、南京大虐殺のような出来事が一体、どうのようにして日本の(そして世界の)共同意識から消え失せていっているのでしょうか?
南京大虐殺についての情報が広まらなかった理由の一つに、ドイツと日本が戦後に戦犯をどう扱ったかという差違があります。おそらく歴史上のどの国民よりも、ドイツ人たちはナチス党だけでなく、戦時中のドイツ政府自体が戦争犯罪を犯していたと容認しながら戦後政治を運営する一体感を持ち続けています。しかし日本政府は政府自体や日本社会に対して、これと同じようにはしていません。結果的に、中には日本社会にこの悲惨な真実を直面させようと勇敢に戦う者もいますが、日本国内にいる多くの者たちは、虐殺を兵士たち個人が勝手に行なった活動としたり、単に南京大虐殺は全くなかったようにこの戦争犯罪を見なし続けています。
 日本では第二次世界大戦中に起きたことに関する新たな話が次々と現れて対抗し合っています。現今の一般修正論者を見る限り、この国が戦時中に犯したどの大量市民虐殺に対する責任も受け入れてないように見受けられます。日本は日本国自体の存続と西洋諸国の帝国主義支配からアジアを自由にするために戦争を戦いました。しかしこの高貴な努力の見返りは、日本国自体が広島と長崎で究極の犠牲者を出す結果になりました。
この気持ちを落ちつかす歴史の認識は、南京の虐殺事件を全く省いていたり、明らかに軍事行動の事実を歪めて書かれている日本の歴史教科書の中に独自の解釈で挿入されています。この政治背景には、日本の超国家主義者たちが、この教科書は次の世代に真実を告げていないと訴える反対者たちを黙らせるために、暗殺のような死の脅迫で全訴訟を止めています。
しかしこの歴史事実を否定しているのは、狂信的な過激派集団に限られている訳でなく、ベストセラー本「The Japan That Can Say No」の作家であり、指導的立場の日本の自由民主党員イシハラシンタロウは、プレイボーイシの会見で、「皆、日本が南京で虐殺を犯したと言っているが、これは真実でない。これは中国に偽造された話であって、日本の印象を悪くするだけの嘘だ。」と言いました。
当然、この発言は世界中の学者やジャーナリストたちを怒らせ、中には「日本の南京大虐殺の否定は、ドイツが行なった虐殺否定と政略上、同じだ。」と言明した者もいました。しかしこのような公然の非難はイシハラを沈黙させるどころか、激怒の逆襲動向を示してきました。そして圧倒的な不利な状況に直面したイシハラは、極東国際軍事裁判の公判に人々が注意を向けるまで世界は南京大虐殺について知らず、日本の通信員も西洋諸国の記者たちも虐殺が起きていると書いたものはおらず、ニューヨークタイムズ誌の通信員フランクティルマンダーディンは虐殺を目撃したことがなく、監督教会委員長ジョンマギーは一人の人物が殺されたところしか見なかったと述べました。
ジョンマギーは1990年にはもちろんこの世にはいませんでしたが、彼の息子デビッドマギーがこのイシハラ発言の反証をあげるために取り組みました。彼はマスコミ会見をしたり、南京虐殺の会議に出席して、父親の残した書類を読み上げ、父親が日本人の虐殺行為の撮影に使用した実物カメラを表示しました。さらに、まだ生存しているフランクティルマンダーディンは率直に活動を行ないました。ダーディンはイシハラ発言の間違いを証明する報道会見を催すために、米国サンディエゴ市の隠とんの日々から抜け出して、上海から南京までの平和な地方について1937年の記事の中で確かに述べたことはあるが、この記事は日本軍が南京に進攻する2ヵ月前に書かれたものだと説明しました。
その他のイシハラ発言に関しては容易に論破が出来ます。虐殺と同時期に記録されていた文書が、数多くの西洋諸国の新聞や、さらに日本の新聞上に虐殺の話を詳しく述べて表されていました。ダーディンの記事は同時期に発行されていただけでなく、ニューヨークタイムズの一面記事として取り扱われていました。そしてジョンマギーの文書の中には、「女性強姦は説明や想像のおよぶところではなく、今のところ私が江口を含める広い範囲を回った限りで話せることは、街のあらゆる通り上や小道に死体が倒れているということです。」という記事が書かれていました。
しかしイシハラは止まらず、虐殺に対する中国の主張が、広島と長崎にアメリカが原爆を投下する影響を与えたと言いました。そして最初の発言に対する反論が、イシハラに同じことを繰り返して言わせなくなると、彼は僅かに態度を変えましたが、「ドイツ人がユダヤ人を殺害したことを謝罪したからと言って、日本人が同じことをしなければならないことはない。この状況で日本は、決して犯罪を犯したと認めるわけには行かない。」という点は曲げずに言い続けました。
プレイボーイ誌の会見発言にかかわらず、イシハラの経歴は無 傷のまま留まりましたが、他の者たちはそういう訳には行きませんでした。
---論争の渦の中に吸い込まれた男の中にナガノシゲト将官という人物がいます。彼は内閣の司法大臣に任命していた1994年の春にマイニチシンブン社の会見に応じて、政治生命を絶つ発言をしました。彼は新聞記者に言いました。「南京大虐殺や他の虐殺事件は偽造されたものだ。私は虐殺直後の南京にいた。」続けて彼は朝鮮慰安婦についてを、性的奴隷ではなく「認可された売春婦」だと言い、日本は「押しつぶされる危険性」があったのでやむを得なく戦争をしたと論じました。この発言に対するアジア全域の激しい反動は、結局ナガノを不名誉な辞任へと追い込みました。
---1986年9月、日本文部大臣フジオマサユキは、南京大虐殺を「ただの戦争の一部」だと言明し、自ら経歴を破壊しました。ブンゲイシュンジュウ誌の会見で、フジオは南京虐殺中の日本軍の行動を弁護して、死者数が誇張されていると主張しました。さらに彼は朝鮮が1910年、日本に併合されたのは、半ば朝鮮にも責任があり、朝鮮は快く植民地化を認め、東京戦犯裁判は「日本から力を奪う」民族の復讐だったと述べました。フジオは「由来する伝統的な日本の精神を回復する」ためだけにこのコメントを出したにもかかわらず、仕事を損失することになりました。その月中に総理大臣ナカソネヤスヒロは彼を地位から解雇しました。
---戦争中、悪名高い憲兵隊(日本軍事警察)の部長官だったオクノケイスケは、戦後から司法大臣や文部大臣に成り上がり、1988年には当時の内閣で三番目に年長者の国土庁長官になりました。しかしオクノの破滅は、東京の靖国神社(日本A級戦犯たちが宮に納められて、崇められている神社)を訪れた年の春に巡ってきました。彼は記者たちに言いました。「日本には侵略の意図はなかった。白人たちはアジアを植民地化したが、日本だけが非難されている。一体、誰が侵略者なんだ?白人たちだろう。私にはどうして日本だけが軍国主義だとか、侵略国と言われているのか理解できない。」彼のこの発言はアジア全域を激怒させ、オクノに言葉を改めさせました。「私は何も日本が侵略国でないと言ったわけではない。日本だけが侵略国ではないと言ったんだ。」5月にオクノは辞任しましたが、彼は最後まで遺憾の念は見せませんでした。オクノは退陣するのは政府からの圧力の問題だけであり、自分の言った発言を撤回するつもりはないと言いました。
---1994年8月、日本環境庁長官サクライシンは、日本が侵略を意図して戦争を起こしたのではないと述べました。中国からの怒りの抗議(中華人民共和国のスポークスマンが「中国政府は、またもや日本の内閣の大臣がずうずうしく歴史事実を曲解した意見を述べ、残念に思う。」と発表しました。)に応じて、ムラヤマトミイチがサクライの意見に対して謝罪しました。ムラヤマは「不適当」な意見を述べたサクライを叱責し、夜中に前言を撤回する報道会見を催して、長官の座にそのまま残しました。
---1995年、国際貿易と産業分野に携わっていた大臣ハシモトリュウタロウ(後の総理大臣)は、第二次世界大戦中にアメリカ合衆国やイギリスや「他の諸国」と戦ったのは日本の意志だったが、日本が中国に対して攻撃的だった頃、アジア侵略の意志はなかった。」と発言しました。
このような公式否定は、この本が出版されようとしている時でさえ続いています。日本の内閣長官カジヤマセイロクは第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍の性的奴隷や強姦犠牲者たちは奴隷なんかではなく、進んで売春をしていたと述べて、アジアの数カ国を憤慨させました。1997年1月、彼は日本陸軍の慰安婦たちは、金のために働いていた当時の日本国内で合法的に働いていた日本人売春婦と何らの違いもなかったと言いました。驚くことに、これらのコメントは日本の総理大臣ハシモトリュウタロウと韓国大統領キムヨンサンの週末首脳会談の前日に発言され、両首脳とも、このカジヤマの意見に対して深い激怒を表明しました。
その後、カジヤマは評論家たちに誠意が感じられないと言われて激怒しましたが、謝罪の意思表示を示しました。この内閣の長官は「日韓両首脳に不愉快な思いをさせて、韓国の人々に誤解を与えた。」というコメントを出して遺憾の気持ちを表しました。しかし最初のコメントを撤回することはしませんでした。このことは、カジヤマの初めての問題発言ではなく、1990年にも彼は、アメリカの黒人を周囲をダメにする売春婦と比較して、日本の司法大臣の席を辞任しています。


『教科書論争』

おそらく日本の教育の中で最も苛立つ邪悪な局面は、教科書の検閲制度を通じて第二次世界大戦に関する重要な歴史情報を計画的に阻害していることです。
日本の子供たちはほとんど生まれた直後から、滑りやすいピラミッド教育の中で、しっかりした足場を掴むために戦い、トウキョウ大学のような頂上を目指して日々を取り組んでいます。適切な高等学校に入学するために夜9時から朝6時まで勉強するガリ勉小学校、中学校があり、適切な小学校への入学を保証するガリ勉付属幼稚園があり、適切な保育園に幼児を入学保証する専用の産科病棟もあります。
しかしこの有名な日本の「受験地獄」にもかかわらず、児童たちは第二次世界大戦について一体、何を学んでいるのでしょうか?
わかっているのは、少しだけだということです。日本の全教育課程は記憶喪失に苦しんでおり、1994年に至るまで日本の児童は、ヒロヒトの軍隊が最低2000万人の連合国兵士とアジアの民間人を第二次世界大戦で殺害したことを教えられていませんでした。1990年代初めに掲載されたある教師が供述したことに関する新聞記事には、生徒たちが日本とアメリカが戦争をしたことがあると知って驚いていたことが引用されていました。そして最初にそれについて知りたがったことが、どちらが勝ったということだったそうです。
どうしてこの様なことが起こるのでしょうか?日本の小学校から中学校までの全教科書は、まず初めに日本文部省の認可を受けなければなりません。日本の評論家は、社会で学ぶこの教科書が厳しく審査されて作成されていると記述しています。例えば、1977年に文部省は、何百ページにおよぶ標準歴史教科書の中で、第二次世界大戦の部門を、主にアメリカの東京空襲と広島荒廃の写真と日本の戦死者記録を含むたった6ページに限定しました。この教科書は、日本の外で起きた惨事や、日本人の戦争虐殺行為や、日本の労働キャンプへの中国人や朝鮮人捕虜の強制送還について述べることが無視されています。
この検閲制度に挑む一人の勇敢な運動家がいます。1965年に日本の歴史家イエナガサブロウは日本政府を訴訟しました。この民事訴訟が法律上の言い争いの発端になり、その後30年間をかけて何千人に上る共感的な日本人追従者の支援へと広がりました。
イエナガに会ったことのある者は、まず彼の貧弱さに心を打たれます。この禿げた80才代の歴史家は、震えながら歩き、声も囁くほど小さなものしか出せません。しかしその下にあ る力強い意志はまだ健在でした。
文部省は児童に南京虐殺を文書で表そうとしたイエナガの試みを阻害しました。例えば、イエナガの書いた教科書原稿の中には「南京の占領直後に日本陸軍は大量な数に上る中国兵と民間人を殺害しました。この事件は、南京大虐殺と言われています。」と書いてありましたが、これに対して審査官は「この記述は、読者が日本陸軍が占領直後、一方的に中国人を虐殺したと解釈する恐れがある。そう解釈されてはならないので、この論は改訂の必要がある。」とコメントしました。
最終的にイエナガの抗議を巡ってこの論は「中国武装軍の激しい抵抗と戦い、日本陸軍は南京を占領して大勢の中国兵と中国市民を殺害しました。この事件は南京大虐殺として知られています。」と変えられました。この陳述はイエナガの論と文部省の立場の間の妥協案として教科書の検閲官を満足させたかもしれません。しかし残念ながら、この陳述には誤りがあり、これでは虐殺がまるで戦闘激化中に起きたようにほのめかされています。
証人尋問官はイエナガに強姦事件の記述を削除するように問い、「女性に対する暴行は人類史の全てに渡る時代のどの戦場でも起きている。このことは日本陸軍に関して取り上げられる特に必要な問題ではない。」と主張しました。
さらに「侵略」という言葉がタブーにも考えられました。検閲官たちは「侵略」とは消極的な道徳の意味を含む用語だと書き留めました。また文部省は日本が戦時中にとった態度を責めるイエナガの取り組みに対しても怒りを表しました。そして「この戦争は「聖戦」として賞賛され、日本陸軍の敗北と、戦場で彼らが犯した残忍な行動は完全に隠ぺいされました。結果的に日本国民の大半が真実を学ぶことが出来ず、選択の余地なく立場を置き換えられて、この無謀な戦争を熱狂的に協力しました。」という論を攻撃しました。文部省は「日本陸軍の残忍な行動」と「この無謀な戦争」というのは、第二次世界大戦中の日本の立場や活動を一方的に非難する者だと見なして、その場でこの論を削除しました。
1970年代、彼が事実上、この裁判の勝訴(東京都区裁判所の裁判官スギモトリョウキチは、この教科書審査が事実に基づく訂正をされていない印刷上の誤解があってはならないと裁決しました。。)をおさめると、過激論者たちが弁護士や裁判官やイエナガ自身を殺害しようと銃撃したり、暴漢が家の外で鍋やヤカンを叩いたり、スローガンを叫んで学者たちを警戒させ続けました。警察官がイエナガや彼の相談役を護衛して、法廷の裏口から出入りしていました。
イエナガは1948年に賞(彼はこの時、自分は「政治音痴」だったと認識しています。)を授与して以来、国民史学賞を絶えず無視され続けています。この歴史家が勝訴したことも、それ自体が歴史になろうとしています。しかしイエナガの努力でなされたこの途方もなく大きな広告は、海外諸国からの抗議を駆り立てて極めて保守的な文部省を変えさせようとしています。1980年代までの何十年間に渡る民事訴訟や政治活動の清算はまだ始まったばかりです。1982年、日本の高等学校教科書に掲載されている南京大虐殺についての歴史曲解が、日本を国際外交危機に直面させるような深刻な問題になりました。代表的な日本の新聞4誌全てが、この件を一面記事に掲載しました。また中国と韓国の役人たちも、公式に抗議文を提出し、日本は侵略の歴史記憶を抹消して、若い世代の中に軍国主義を復活させる基盤を置こうとしていると非難しました。しかし日本の教科書試験評議会は「ソビエトやアメリカが日本に対して犯した虐殺が一行か二行で述べられているのに、南京の虐殺行為を三行から五行で記述するのは適切ではない。」と記者たちに告げ、自己弁護を謀りました。
最終的にこの教科書論争から出た広報は、二つの偉業を成し遂げました。一つは第二次世界大戦史をごまかした省の政策を厳密に弁護した日本文部大臣フジオマサユキが解雇されたこと。そして二つ目は南京大虐殺がもはや無視できないものだという省内の自覚が高められたことです。フジオの解雇前、日本の防衛国会は右翼教科書を準備して、次のような方法で南京虐殺を概説しました。「南京では激しい戦闘が行なわれました。中国は日本に一部の中国兵と中国市民に被害をおよぼしてほしいと頼みました。」しかしフジオの解雇後、文部省はこの論を「南京では激しい戦闘が行なわれました。南京陥落後、日本陸軍は大量な数に上る中国兵と中国市民を殺害したり、負傷させ、国際批判を引き起こしました。」と書き換えました。
もちろんこの教科書論争問題はまだ解決にはほど遠い状態です。日本の役人の中には、あからさまに虐殺を否定するよりも、被害規模を最小限におさえることに焦点を合わせている者もいます。1991年、文部省のスクリーナーたちは、教科書作家たちに南京大虐殺死者数を実証する証拠不十分のため南京大虐殺に殺害された中国人の数値を参照するものは全て省くように指示しました。さらにそれから3年後、文部省は教科書作家たちに対して南京大虐殺中、日本兵に一日で殺害された死者数を25,000から15,000人に減らすようにもさせました。この原型版は25,000の死体が一日に「片づけられた。」と報告してある日記から本来、引用されていましたが、文部省の圧力で教科書の出版者たちは「ササキ部隊は15,000人を処分した。」と読まれるように日記からの引用をあきらめて縮小させました。


『学術研究の覆い隠し』

ほぼ例外なく、日本の学術研究社会は南京大虐殺の研究から尻込みしています。中には、歴史教育の価値があるこの主題を提出したり、歴史家たちに日本の悪事を批評する時間がないと論じたり、日本が戦争中に犯した悪行の批評に憤慨して反応してくる者もいます。(「どれだけ長く我々は昔の失敗に対して謝罪しなければならないんだ?」と激して言う者もいます。)
さらに日本のための謝罪者として活動している者や、虐殺行為や死者に対する責任を最小限に抑えようと保守的な日本超国家主義者たちで同盟を結成している者たちもいます。第二次世界大戦の南京大虐殺や他の局面の歴史事実をゆがませる運動に着手する修正主義者の中に、トウキョウ大学教授フジオカノブカツという人物がいます。火を点ける彼の陳述の中には、南京大虐殺で殺害された人々の数値は中国が言っているものよりもずっと少なく、南京の大半の犠牲者は市民ではなくゲリラ兵であり、日本軍のアジア人性的奴隷や「慰安婦」と呼ばれる女性たちは普通の売春婦だと主張しているものがあります。さらにフジオカは、女性たちが受け取った財政報酬は「宝くじに当たる。」ほど多額だと言い、日本政府に対して、この女性へ申し出た謝罪を撤回し、日本の歴史教科書からこれらの情報を抹消するように求めました。
 日本国内での南京大虐殺についての学術本位の調査は、フリー作家やジャーナリストたちのような伝統学術研究社会外の者たちに取り組まれるまで大きく残っています。工場労働者のオノケンジが最良の例と言えるでしょう。1988年に彼は南京大虐殺時に同郷の会津若松大隊に属していた農民 たちとの会見を始めました。独身のオノは家族に対する責任もなく36時間の工場交代シフトに暇を持て余していたので、この件に専念する十分な時間がありました。6年をかけてオノケンジは約600件の家を訪れ、200人の人々と会見し、約30冊あった日記の内20冊をフォトコピーして、7人の人々との会見ビデオを撮影しました。彼の発見物の中には週間キンヨウビ誌に掲載され、もっぱら南京虐殺に関して日本人が初めて働きかけたと賞賛されているものもありました。おそらく彼はいつか南京虐殺に関する重要な本を出版するでしょうが、その間、絶え間なく報復を心配する陰の下で暮らし、右翼の狂信者の餌食に陥れられる恐怖のために写真を撮られることすら拒んでいます。


『独自の検閲』

日本では教科書を書き換えるときの検閲制度が、政府だけでなく、それを取り締まるメディアによっても行なわれています。民間部門による独自の検閲は、さらに精妙に激しく指摘するので政府機関の検閲よりも陰険なのは言うまでもありません。
映画「ラストエンペラー」の南京大虐殺の映像シーンに対して日本の配給会社がしたことは、日本の民間検閲の具体例を示しています。1988年、ショウチクフジ配給会社はベルナルドベルトルッチーの作成した溥儀の伝記映画から南京大虐殺が描写されている30秒間の場面を削除しました。ベルトルッチーはこれを知るともちろん激怒し、「日本の配給会社がしたことは、私の許可を無視して、通知なく「南京大虐殺」の全映像シーンをカットしただけでなく、彼らは私自身とジェリミイトーマスプロデューサーが最初に映画を変える提案をしたとマスコミに公言した。これは全くの虚偽であり、不愉快だ。」と公表しました。
 ベルトルッチーの抗議は直ちに配給会社に削除された映像シーンを回復させるようにしました。彼らは様々な態度で謝罪を表明しました。ショウチクフジの重役クボタモトユキは「混乱と誤解」を与えたことに謝罪し、「映像シーンのカットは我々の自発的な決定で行ないました。まさかこんなに大きな問題になるとは考えてもいませんでした。」と言明しました。別のショウチクフジのスポークスマン、サトウミツヒロは記者に対して、この映像シーンは「日本の視聴者に対する配慮がなされていない。」ので削除したと告げました。日本の映画評論家タケヒコナカネは、映像シーンのカットの決定が配給会社の優柔不断と、超国家主義者からの暴力を恐れたことが原因だと推測しました。この評論家は記者に告げています。「配給会社や多くの劇場オーナーたちは右翼集団が問題を起こすことを心配していたと私は考えています。この人々の中には、まだ中国での日本の活動や戦時中のことは神聖な聖戦の一部だったと考えている者たちがいます。」


『南京虐殺の論争』

南京大虐殺についての本を書く勇気を示した日本人はよく容赦ない暴行に面します。ホラトミオとホンダカツイチを例に取り上げてみます。ワセダ大学の日本史学教授ホラは中国での日本人の虐殺行為の調査を行なうために1966年に中国を訪れ、その後、南京虐殺調査に関する本を出版しました。アサヒシンブンの受賞ジャーナリスト、ホンダカツイチは1970年代から1980年代にかけて生存者と会見するために中国本土へ行き、日本の印刷物で南京虐殺を詳細するタブーを壊しました。アサヒシンブンや他の雑誌に連載された彼の発見物は、後に完全な本になりました。そしてホラとホンダの両名とも日本兵が1937年から1938年にかけて南京で約30万人の人々を殺害したという結論に達しました。
この両名もまた日本国内で意地の悪い反動を受けました。ホラとホンダを批評した騒がしい評論家の中に、「南京虐殺の錯覚」と題した記事で彼らの発見に対して挑戦した超国家主義作家スズキアキラという人物がいます。スズキは、ホンダやホラの話の中には本来の出所から怪しいと不適当な資料が虐殺を実証するように存在して偽造されているものがあり、南京大虐殺はただあの錯覚だと非難しました。彼の記事から生み出された本は、ノンフィクション部門のブンゲイシュンジュウ賞を受賞し、「賞賛すべき人物」や「勇敢な人物」として文学評論家たちから賛辞を受けました。ホラがスズキへの反論シリーズを出版すると、何人かの有名な日本人作家がすぐにスズキの弁護に現れました。
 別の評論家にマツイイワネの弟子だと主張するタナカマサアキという人物がいます。1984年、彼はマツイの戦時日記の文献を活用して、「南京虐殺の偽造」と題された反ホンダの本を出版しました。「敵のプロパガンダ」を広げるホンダを非難して、タナカは「日本の全歴史上にはヨーロッパやアメリカと違い、計画された組織的な虐殺事例はない。」と論じました。これはすなわち日本人は西洋人や中国人とは違う価値観を持っているからだと彼は記述しました。そして修正論者たちが、タナカの援助に集まり、ホンダとホラを叩きました。また右翼作家ワタナベショウイチもタナカの本に続き、「当時の日本人士官や兵士たちだけでなく、まだ産まれていない子供たちを含む全日本国民」に大きな罪悪感を与えるものだとホンダを強く非難しました。
論争は二つの日本人組織同士の間で激化しました。ホラとホンダや彼らの支持者たちを含む自由主義の「虐殺派」と、スズキやタナカに導かれる保守的な「錯覚派」に分かれました。自由主義徒党がアサヒシンブンや他の雑誌にこの発見物を掲載するのに対し、保守党はブンゲイシュンジュウやショクン!やセイロンのような右翼の出版物に寄稿しました。また自由主義者たちが日本政府に中国で犯した犯罪に対して謝罪を要求するのに対し、保守党はその様な謝罪を退役軍人に対する侮辱と日本国内業務の外国干渉と見なしました。
そして皮肉にも修正主義者自身が「虐殺派」への攻撃手段になる問題を精密に調べて向かい火を放ち南京虐殺を立証することになりました。1980年代に陸軍士官学校卒業生の共同団体カイコウシャが18,000人の会員に南京大虐殺を疑わしいとする目撃者の供述を持ってくるように依頼しました。しかし多くの会員が南京大虐殺の詳細事項を確認し、強烈な保守主義者さえも恐れさした虐殺行為を述べたことは「錯覚派」を大きく狼狽させました。マツイの配下だった元士官は、約12万人の捕虜が参謀長の指令で殺害されたと推定しましたが、後に間違いなく圧力を与えられて、「1万人ぐらい」と数値を変えました。しかし彼の証言はこの調査の全目的に穴を空けて、カイコウシャ誌の編集者さえも動かし、「この非合法な大量虐殺は弁明の余地なく実施されました。誰もが過去の日本陸軍と関係しているように、私は中国の人々に深く謝らなければなりません。」と一連の結末を書きました。
しかし最も厄介な出来事がまだありました。1985年、有名な歴史雑誌「レキシとジンブツ」がマツイの戦時日記の中から900におよぶ間違いを発見しました。しかしその大部分が本来の書類を偽造しようとする意図的な企てだったので、この暴露は日本中の歴史家を憤慨させました。さらにこの修正した作家は、歴史曲解を忠実に遂行する評論家タナカマサ アキ本人に他ありませんでした。


『脅迫』

公然と南京での犯罪を認めた第一人者アズマシローの身に起きたことは、どんなに悪くても日本の脅迫システムの典型的な例と言えるでしょう。1987年、彼は南京大虐殺での自分の任務を公共で謝罪した初めての元日本兵になり、一大センセーションを引き起こしました。大量虐殺後、55年目に当たる追悼式典に参加するために南京へ旅立つ前日に彼は京都で新聞やテレビの記者会見に応じました。そしてその結果、激しい批評や死の脅迫の殺到を浴びました。自己保護のためにアズマは会社を辞職し、妻と共に京都の外の小さな村にある家に引っ越して、警棒、棍棒、コショウスプレー、鎖、ナックルダスターなどの武器庫を備えました。
長崎市長モトシマヒトシの苦難は、街の共産党集会で、天皇の戦時中における犯罪についてどう考えているかを問われたときから始まりました。それは真珠湾攻撃47回目の記念日に当たる1988年12月7日でした。ヒロヒト天皇はゆっくりと癌で崩御しつつあり、国民は祝日行事を慎み、昭和時代の終結を嘆き悲しんでいました。戦時中、自分自身も兵士に任命されて海外から戦争の報告書を読んでいたモトシマは、この質問に対して天皇は戦争責任を負う必要があると応えました。彼のこの発言に対する応答はすぐにやってきました。翌日、怒った市会議員と自由民主党の地方勢力が市長に前言撤回を求めました。しかしモトシマは「自分自身の心をだます」ことは出来ないと公言して、これを拒否しました。
すると彼の反対勢力は市長をひざまづかせようと嫌がらせの暴力活動や脅迫に乗り出しました。自由民主党員たちは、自分たちの相談役としての地位からモトシマを解雇しただけでなく、この市長と政治的な協力を拒絶するように県知事と組むことにも成功しました。さらに右翼集団がモトシマの死を求めました。1988年12月19日、24に上る超国家主義者の集団が30機の拡声器装備トラックで長崎にやってきて、「神聖な報復」のためにモトシマの死の要求を鳴り響かせました。それから二日後になると長崎でデモ活動する集団は62に達し、拡声器トラックの数は82台になりました。神道神社の事務所を含む数多くの保守組織の代表者が彼の非難を叫びました。ヒロヒトが崩御した二週間以内に、右翼の狂信者がモトシマを背中から射撃しました。銃弾は肺に穴を空けましたが、奇跡的にこの市長は命拾いしました。この暗殺未遂は国民中の過激論者たちを感激させ、その多くが「天罰」以外の何事でもない行為だと公言しました。




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