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『武道通信』掲示板(http://www.budotusin.com/wwwboard.cgi)より転載。
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桂 桂 2000/05/20(土) 18:44
『 戦争機械 』再掲載に当たって
≪序編≫
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1:ここだけの話だが、民族派の連中が之等の問題にいつ気がつくか、自分は待っている。
2:日本民族派の限界は、日本浪漫派を超えられぬところにあると思う。
3:ナチスと比べても、日本は霊的に駄目だった。何故なら霊的基盤が無い。
4:王仁三郎の『霊界物語』は、持っていきようによれば、20世紀の神話に成り得たのだ。
ここに、大本教弾圧の意味もある。
『とにかく、吉田松陰、三島由紀夫では駄目だ』
5:新右翼が自分の本を読み、霊的衝動に満たされ出口王仁三郎の未完の世界革命の継承
を呼び出したその時、いよいよバトルロイヤルが始まるだろう。
6:「10万人の社会民主主義者に読ませるよりも、300人のファシストに」これが『迷宮』
のキャッチフレーズだ。
7:ここで言う「ファシスト」とは、一般市民的には「ボルシェビキ」の概念に近い。或
いは「光の子(イリュミノイド)」
霊的能動性を持っている超人のことだ。
雑誌を作っているのは、その超人を育てるための布石である。
オカルト・パンカー「『迷宮』編集長・武田洋一インタビュー」
『ヘヴン』1981年3月号・群雄社出版
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かつての左翼主義者、思想犯、若しくは新時代の思想(ニューエイジ・ムーブメント)
に因って日本がどのような変質を来たしたのか、『敢えて』私の記した『戦争機械』を完
全再録し、インターネットに公布する。
『戦争機械』が書かれたのは、1995年10月から1996年1月までだが、それ以前に首都圏
ではオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生している。
更に、東北地方では古史古伝『東日流外三郡誌』の真贋論争が勃発している。
この『東日流外三郡誌』真贋論争は主に大学教授の安本美典氏が贋物であると言ってい
るが、この古文書の存在の真偽判定は、本当は肯定派の古田武彦氏が、文書伝承者の和田
喜八郎をカリスマ視してしまい「『東日流外三郡誌』を信じるか否かは、和田喜八郎を信
じるかどうかだ」と一刀両断にしてしまっている事に著しい混沌が見受けられるのである。
(註:和田喜八郎氏は既に故人であるが、陸軍中野学校出身者でも在る)
その際、八幡書店社主武田洋一(祟元)氏も、同様のミスをしているのだが、事件の傍
流として九州地方出身の市民歴史研究家野村某氏は「自分の撮影した熊野地方の石垣の写
真が、『東日流外三郡誌』を証明する為の古代遺跡の写真として使用されている」と民事
訴訟を起こし、NIFTY-Serve内で「シュメール」というハンドルを使う某県地方公務員が
一緒に行動している。
この真贋論争は「別冊歴史読本・古史古伝論争(1993)」においても取り上げられてい
るのだが、この本の中でライターとして名前の挙げられている北山耕平という人物は、
同じくNIFTY-Serve内で「FMISTY」というフォーラムで会議室議長をしているのだが、日
本国内に麻薬を持ち込もうとして3回書類送検されているとの事で在る。
1996年、ジャパン・ミックス株式会社から「歴史を変えた偽書」という一冊の書物が刊
行された。
この本が出版されるいきさつを作ったのが、元八幡書店社員原田実、デザイナー神埼夢
現、前出の野村某並びに、某県地方公務員である。更に神崎夢現の傍らに当時
NIFTY-Serve内にあった「世紀末フォーラム」の会議室議長を務める「TAO」なる人物がい
た。
(2000年現在、神崎夢現とTAOなる人物は共同でインターネット上で『どうする日本・
掲示板≪飛耳長目≫(ひじちょうもく)』というホームページを開いている。アドレ
スは、
http://hpmboard1.nifty.com/cgi-bin/bbs_by_date.cgi?user_id=GFB00026
である)
原田実氏は、1996年1月発行の右翼雑誌『ゼンボウ』に、自らを「史学博士」と名乗っ
て「麻原・オウム・オカルトを結ぶ偽史運動の正体」という一文を掲載している。
ジャパン・ミックス「歴史を変えた偽書」に掲載されている朝松健「オカルト業界の
駄々っ子達」は初出が『魔都物語・オカルト業界で何が起こっているのか』SFファンジン
「イスカーチェリ」28号・1987年3月、短縮版が「ホルスの槍」4号・1988年1月である。
内容は不正確極まりなく、朝松健氏の主張のする内容を補完するのならば「オウムの黙示
録」日高恒太郎(新人物往来社・1995)を参考にするしかない。
また、久山信氏は「歴史を変えた偽書」の中で「クリエイティブ・ディレクター」を名
乗っているのだが、ここに掲載されている久山氏の文章は、青土社「クリティーク」15・
1989年発行の「特集・宗教・オカルティズム批判」に掲載された『霊的神国論とポップ・
オカルティズム』という事故の論文の焼き直し版でしかない。
デザイナー神埼夢現は渋谷に「ミレニアム」という個人事務所を構えている。
その昔は「武田洋一(祟元)の事務所に所属していた」というのを本人から聞いたこと
が在る。更に「5つくらいの個人事務所に名前を貸していた」とも。前出の北山耕平の書
類送検の事も神崎夢現からである。武田洋一氏はこの時「これから坂本龍一をオルグしに
行く」と話していたという(私の推測では細野晴臣の事ではないかと思っている)。この
武田洋一氏の部下の一人に某ヒッピーがいて、やはりデザイナーをしていたという。この
某ヒッピーの事は神埼夢現も知っていて、1980年代に『デケード』というミニコミ誌を発
行していた。奇し
くもベースボールマガジン社『週間プロレス』に連載されていた斎藤文
彦氏の連載コラムのタイトルも『デケード』である。
某ヒッピーは奈良県吉野村の天川弁才天社復興に関わり、後に山梨県に消えたという。
推論ではオウム事件への関与の接点を見出せそうである。
デザイナー神埼夢現は若かりし時にC+F(シーアンドエフ)の主催者・吉福伸逸氏に
傾倒し、多数のドラッグを服用。自動販売機本専門出版社「アリス出版」にいる時に竹熊
健太郎と知り合う。この頃のドラッグ遍歴とカリスマ志向に付いては「クイック・ジャパ
ン」太田出版においてカミング・アウト済みである。
吉福氏は後にハワイに居住したという。
ライター・稲葉耕太郎氏のミニコミ誌で、後にその名を知ることが出来たのだが(1996
年頃)、同ミニコミ誌では「グレイシー柔術はトランス・パーソナル」との謎の一文が掲
載されている。
1989年、ハワイに革マル派の創始者、黒田寛一がいる事が判明。日本へゴルバチョフ来
日の際、「何故、一本の火炎瓶も投げなかったのか」と檄を飛ばし、奇しくもパレスチナ
の足立正夫から若松孝二監督作品「我に撃つ用意あり(松竹)」公開を機に「90年代に優
しさは武器になるか」という論評が『映画批評』に掲載された。
1990年代末期に、ハワイから柔術を引っさげてシューティングに入ったエンセン井上は、
背中に『大和魂』の刺青をしている。之等のニューエイジ・左翼過激派・ハワイの繋がり
は果たして偶然だろうか?
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1983年、前出の武田洋一(祟元)の時代の要請を受け、1970年代には黒色戦線系のア
ナーキストだった常弘成(とわひろなり)は鈴木邦男率いる新右翼「一水会」に入会、
武田洋一と機関紙『レコンキスタ』1983年9月号にて「汎亜細亜秩序と霊的ボルシェビキ」
という標題にて対談を行う。
常は国家社会主義者同盟(ファシスト・ブント)の牛嶋大輝との交流を経て、1983年
「霊的ボルシェヴィズム」をキー・コンセプトに、武田洋一氏と共に「新秩序研究会
(日本新秩序運動)」を発足させている。
この辺りの事情に付いては、1984年、ブリュッセルのインディペンデント・レーベル
「クレプスキュール」所属アーティストの来日を記念して作られた大型パンフレット
『MUSIQUE EPAVE』での武田洋一氏へのインタビュー「エソテリック・
シティ東京」がよく伝えている。
1984年、常と武田の間に金銭面でのトラブルが生じ、「新秩序研究会」は解散してい
る。
関係あるかどうかは判らないのだが、『スター爆笑Q&A』の元構成作家、『週間プ
ロレス』で「デケード」を連載していた斎藤文彦の事務所の名前が『マーキー』なのだ
そうだが、其れがどうしてアメリカのミネアポリスのマーキー・インターナショナルと
名前が一緒なのか、理解に苦しむ。
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では、『戦争機械』(全9編:4分割)を全面再掲載する。
桂 桂 2000/05/20(土) 18:45
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≪ 戦争機械・1(95/10/25 23:38)≫
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*これから書きだされる話は、幾つかのの文献資料に基づくものである。
*特定個人の氏名を頻繁に書くが、それは誹謗中傷を意図する物でなく、
各個人の業績を明確に、そして客観的に評価する為である。
*時代を描く鏡となるため、大胆な推論も行う。
定義
「戦争機械は国家装置の外部に存在する」
(UPU発行・GS・第四号より)
まずは、以下の二人の名前を覚えておいて頂きたい。
*武田崇元
1950年、京都生まれ(神戸という話も有る)。
東大法学部卒業後、東京海上火災に入社、しかしすぐ退社する。
その後京都にて「フーリエ伯爵」の名でタロット占師に。
70年代中期よりオカルト雑誌編集者にて、「エニグマ」「UFOと宇宙」
の編集に携わり、「地球ロマン」「迷宮」等の雑誌も作る。
また、「武内裕」というペンネームで大陸書房(既に倒産)より幾つかの
超古代史ものの著作も現す。
80年代には、「失われた日本のオカルトの復権を目指す」八幡書店を興
し、社主となって今日に至る。
*武邑光裕
1954年生まれ。
日大の美学科を出て大学院に進む傍ら、「地球ロマン」「迷宮」の編集に
携わる。「迷宮」第三号より編集長をつとめ、同誌休刊後は、ミニコミ誌
「デコード」を発刊。
ポップアート・ビデオメディアの評論家として「ユリイカ」「現代思想」
などに執筆。ウイリアム・バロウズの日本における代理人でもある。
現在は京都美術大学助教授。
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≪戦争機械・2(95/11/02 00:54)≫
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*時代は遡る(1968-71)
60年代末、日本に赤旗が翻っていた時代があった。
若者達が思想に燃え、時代を変える礎になろうとバリケードを築いて道路の
敷石を投げていた。
60年安保闘争。そして全学連。
しかし学生運動はその思想の軌跡を次第に過激な武闘闘争に姿を変え、それ
が共産同赤軍派によるリンチ事件、あさま山荘事件の引き金になっていった。
共産同赤軍派の榛名山リンチ事件が今をもってしても思想界において空白に
なっているのは、同派において梅内恒夫と森恒夫のニ氏がその戦略を巡って角
逐
し、結果森が思想的にもリーダーになった事に起因する。
梅内は「闘争は人民の海に溶けこみ無差別テロを持って人民の目を覚ますべ
き」と毛沢東の人民軍の思想を借りてピース缶爆弾によるテロを主張し、森は
「チェ・ゲバラにような山岳ベースからのテロを持って左派の肉体と精神を強
化しながら作戦を遂行しべし」とキューバ革命のゲバラの思想をモデルにしよ
うとした。この時の派閥闘争に破れた梅内は内ゲバの危険を感じ取り、地下に
潜伏する。そして赤軍派は森が仕切り、永田洋子のヒステリーがこの閉塞的な
「銃撃戦による人民への啓蒙思想」に拍車を掛け、無意味なリンチへと駆り立
てたのであった。
無頼のアナーキスト、竹中労は赤軍派が捕らえられた時、すかさず「週間小
説」誌(72年3月)に「連合赤軍リンチ事件」という「予見小説」を書き、
梅内恒夫の存在を暗に仄めかし、結果それが地下に潜伏していた彼の論文が
「映画批評(この雑誌は左翼文化人の思想雑誌)」に掲載される経過となった。
これが通称「梅内論文」と呼ばれるものである。
正式タイトルは、「共産主義同盟赤軍派より日帝打倒を志す全ての人々へ」
という。
マルクス主義革命論が階級闘争の主力とみなした<先進国のプロレタリアー
ト>ではなく、「第三世界の窮民」こそが世界革命戦争の道を切り開くとし、
そこから日本という先進国内部の窮民の始原を求めて歴史を遡り、八切止夫の
「サンカ説(日本原住民説)」に行き着く。
八切止夫とは被差別部落民の起源を大化の改新まで遡り、大陸からの漢人
「藤原氏」が先住日本人を追いやり部落が発生したとしています。そして大陸
から渡来した征服民族が現在の天皇家の起源とする異端の史学を興した人物で
ある。
この梅内論文も当初は八切止夫の元に一番最初に郵送されたらしい。
この梅内論文の影響は当時の学生に古代史ブームを引き起こし、本来「根無
し草」的な左翼思想、あるいは通俗的なアカデミックな史観や右翼思想に満足
しなかった大衆層に浸透し、天皇を外来的な者とし原日本的なるものの復権を
目指す古代史観が市民権を得るきっかけになった。
少なくとも彼の論文の影響により、「アイヌ」「琉球」などを軸とした第三
世界論への関心ととも当時の左翼学生の間に古代史熱が高まり、異色の古代史
観が形成された。五木寛之の「戒厳令の夜」なども、こうした流れの延長上に
同時代性を獲得、高い人気を博する事になった。
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桂 桂 2000/05/20(土) 18:46
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≪戦争機械・3(95/11/04 00:49)≫
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*時代のカブキ者・竹中労
竹中労(1930年生まれ)。
父は大正グロテスクの時代を彩った有名画家。生来の気性は無頼にして奔放。
若くしてコミュニストになり、ユートピアを夢見て中国に渡るがその現実に
強く落胆した事によってアナーキストになる。戦後日本のルポライターの草分
け的存在になり「ザ・ビートルズレポート」や美空ひばりの芸能本など、半ば
伝説化している著作も多数ある。
1991年死去。最後の仕事はマイナーフォークから飛び出した異色バンド
「たま」と組んだレポートだった(「たまの本」ソニーミュージック)。
竹中はアナーキストとして様々な政治活動にも取り組んでいた。
元はコミュニストであっただけにその人脈を生かして幾つかのコミューンを
創出し、自らの理想を体現しようとした。しかし、5.60年代の時代の波は
余りにも荒々しく、そしてそれは個人の理想をなどものともしない怒濤を連ね
て時代を翻弄した。
まだ時代はミー(個人)の内面まで立ち入る事を許さず、イデオロギーに埋
没する事を要請した。
彼の行動は多くの摩擦をもたらし、理想に実現する事が無かったゆえ多くの
敵を造り時には逃亡生活を余儀なくされた。
竹中労が「夢野京太郎」というペンネームで書いた小説集が一冊だけ有る。
「世界赤軍」というのがそれで、潮出版社から1972年に刊行されている。
その中に収められている一編が、「連合赤軍リンチ事件」。
共産同赤軍派の真のリーダーは山岳ベースを指揮した森恒夫ではなく、闇に
潜んだ梅内恒夫であり、そして赤軍派の壊滅理由はイデオロギーにより硬直し
た破壊思想であり、そして真の革命は人血の海から次の時代を見出す「人を殺
す人の真心」であるとした怪奇な内容である。
しかしそれは、当時の時代からするとかなりの無意識に働き掛ける影響力が
あったのではないのかと推察される。
少なくとも竹中が、赤軍派の中でも爆弾造りに習熟した梅内を真の思想的中
枢と喝破した事によって、梅内は「闇からのプロパガンダ」ともいうべき思想
論文をまるで恐怖新聞のように送って来た。
この事に思想的連携性を見出す事は難しいが、少なくともアナーキズム的結
晶<それは共産・社会主義といったイデオロギーではなく、セクトを越えたナ
ショナリズム>ともいうべきものを見出す事は可能ではないのか、と思えるの
である。
非常に興味深いと思われる一編が同時にこの書物に収められている。
「世界赤軍への道」というのがそれで、この物語は竹中の思想的ユートピア
小説ともいうべき掌編になっている。
この物語には竹中労、ジャズ評論家にして「山口百恵は菩薩である」である
で一躍有名になった平岡正明、そしてコミュニスト太田竜の3人が登場する。
現実世界ではこの3人は「世界革命浪人・ゲバリスタ」を標榜、<第三世界の
窮民><世界革命闘争の支持><国境を越えた人民共和国の建設>等をスロー
ガンにノンセクトラディカル的な活動を展開していた。
小説の内容では沖縄奪還闘争について書かれている。
同時多発的なゲリラ闘争を興し、無法地帯になった沖縄をアナーキスト達が
占領、これをも
って世界革命闘争の礎とするものであった。
1.個別革命者、グループは闇の回路をたどって、汎アジアに飛散する。
2.左翼の最も戦闘的な部分は、右翼を包摂する(あるいはその逆も有り得
ると留保しておく)右翼と世界赤軍の主要な一致点は反中華社会帝国主
義であり、アジア窮民の解放であり、武装闘争=暴力革命である。
(小説・「世界赤軍の道」より)
現実には沖縄が米国領土から日本に返還されたのは1972年。
尚、太田竜は、この竹中の小説をもって「彼は右派に転向した」として袂を
分かっている。
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≪戦争機械・4(95/11/04 02:23)≫
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*ドラゴン将軍・太田竜
太田竜、本名を栗原登一。
1930年、樺太豊原市生まれ。
1945年から共産主義運動に身を投じ、日本トロッキスト連盟、国際主
義共産党、日本革命的共産主義同盟(第4インターナショナル)を組織、
1967年には本名の方で「世界革命(三一書房)」を発表。マルクス・レー
ニン主義を批判する一方でプロレタリア世界革命の設立を宣言する。1970
年代にはアイヌ革命を奉じ、その著作を通じて日本赤軍や東アジア反日武装
戦線などの左翼イデオロギー団体に無差別テロ(爆弾闘争等)を教唆。公安
警察の監視下に置かれていた事も有る。
太田竜はコミュニストというよりは新左翼として大いにその過激路線を公
示して来た。
だが途中よりその路線を変更した。1970年代当初においては暴力革命、
無差別テロを公然と口にしていた彼は、79年頃では自然食やエコロジー、
平和運動にまで手を出す事になる。それは太田が、独自にオカルティズムと
抵触した事による有る種の結果のようなものであるらしい。
70年代半ば、アイヌ革命を支持し、アイヌ・日本原住民という文脈から
日本民族内部の問題に転化させるのがその目的であったのか、81年、「日
本原住民史序説(新泉社)」において太古日本の超科学文明を伝えるという
奇書<カタカムナ文献>を称えている。
*カタカムナと新左翼?
「カタカムナ」なるものについて補足説明をしておく。
これは昭和25年、楢崎皐月という人物が神戸六甲山中において平十字な
る人物から筆写を許されたものだという。平十字とは自らをカタカムナ神社
の宮司となり、後にも先にも行方が解らない人物である。そしてこのカタカ
ムナ文献というのもまるで科学記号の羅列のような文献とも記号群ともつか
ないものである。しかし乍らこれを解読した楢崎はそこに多くの秘教科学が
結晶されているのを発見する。それは独自の体系を持ち、まるで魔法と科学
と哲学の融合体のようなものであるという。それは魔法の概念で常温核融合
を説明出来てしまうようなものである。微弱な電流を地面に流す事によって
行う農業(静電波農法)、石や木、山の配置によってその土地の吉兆さえ変
化させてしまう(イヤシロチ、ケガレチ)など、想像のつかない世界を秘め
た物である。
少し前にこのカタカムナに興味を寄せていたのは一部の熱狂的な神代文字
論者、あるいは「竹内文献」の信奉者、UFOや超古代文明の熱狂的なシン
パなどであった。80年代の初頭には北海道にカタカムナにUFOと超能力
とヨーガをミックスさせた道場が出来て結構採算が取れているという話があっ
たと言う。一部のヒッピー的なグループではカタカムナの宗教的なカルト
(結社)を作ろうという動きもあったようだ。
そしてここに太田竜の名前も上がって来る。
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≪戦争機械・5(95/11/04 22:29)≫
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*カタカムナと新左翼?(承前)
1980年2月24日、太田竜は「自然職生活共同組合」という団体を設
立した。太田著「宗教と革命」の前書きに転載された設立趣意書によると、
日本原住民及び世界の全ての原住民の生活と文化に学び、自然食・自然農法・
自然医学の実践を通じて、天然自然の生活の蘇りと創造に努めるという。こ
の自然食天然生活共同組合の別称を「イサキ会」という。
「イサキ」とはカタカムナからとられた言葉で、「元気」を意味する。
左翼エコロジスト、あるいは過激な世界革命論者であった太田がどんな紆
余曲折を経てオカルト・サイエンスの世界に足を踏みいれたのか。その理論
的な裏付けは太田の「原住民革命論」というそれなりの経緯があるといわれ
ているが、90年代も半ばに入った今日に於いてそれを考察する事は取り敢
えず後回しにしておこう。
1977年には現代革命理論研究会を組織し、79年にはカタカムナ研究
団体と接触、同時に桜沢如一の日本CI協会とも接触している。桜沢如一は
玄米食を大いに推奨し、80年代の末期のエコロジーブームの下地にもなっ
た人物である。
現代の太田竜は「日本みどりの党」を組織して都議会選落選記録更新中、
更にユダヤ・エスタブッシュメントら世界政府の地球支配の陰謀と闘う為に
「地球維新連盟」を設立、多くの著書を世に問うている。これくらい一貫し
て色々と手を変え品を変え警世をつづける人も珍しい。
更にカタカムナを巡る奇妙な動きも触れておく。
意外な事に感じられる事かもしれないが、統一協会ですら、このカタカム
ナ思想(ともいうべき物)を教義に取り入れていた時期が有ったと言うのだ。
統一協会の内部組織、全国連合大学原理研究会の初代会長にして初期の理
論的指導者であった小宮山嘉一という人物がいる。この人物は1967年7
月刊行の「原理運動」誌第二号において次のような発言をしている。
「この統一球原理の統一象により、人間の生命の原子構
造を相似象的
に把握し、人間革命の方程式を知り(後略)」  ̄ ̄ ̄ ̄
現在では撤回されているが、かつて原理研ではしきりに「統一球原理」と
いう教義を街頭宣伝していた時代があったという。
日本における原理運動の隆盛は立正佼正会からの大量の転向者を獲得した
ことがその人的基盤になっている。そしてそのきっかけを作ったのが、当時
はその佼正会の一青年であった小宮山嘉一であるという。そして彼がやがて
学生運動としての原理運動の基盤を作っていった。これはおよそ1959年
から60年頃の話であるという。
小宮山は単に直輸入された韓国制の教義では満足しなかったのだろうか。
このカタカムナ思想を受け入れた統一球原理ではメシアたる文鮮明の霊的な
位置付けが不充分な側面があったようで、後に小宮山は文鮮明に気違い扱い
されて放逐されたという。とまれ、小宮山は1967.8年頃には原理運動
から身を引き、統一球原理もなくなる。
しかし、1974年に小宮山は「天然文明の黎明に向けて」という著書を
発刊し、そこで彼の理論的総決算とも言うべき「統一球原理の統一象」の概
念をそのまま引き継がせている。
そこにある小宮山自身の言によれば、東節男という「(カタカムナ研究の)
楢崎に匹敵するような類希な研究者」がいて自分は1964年頃から教えを
請う関係にあったという。この東とは日本大学精神文化研究所所長を勤めた
人物で、そして小宮山嘉一はオカルト・エコロジストとして再浮上するまで
の間、日大において日大闘争の裏面で活躍していたのであったという。
「日大闘争の背後には児玉誉士夫が控え、教職員組合も反古田だったの
だが、この反古田派が学生の闘争に火をつけたのである。私は古田の
悪行の数々に関する証拠書類を日大全共闘だった秋田明大に手渡して
やった。古田サイドから入ってきた機動隊が包囲するという情報を提
供したこともある。私は古田、反古田をひっくるめて腐り切った大学
管理者達に引導を渡さねばと思ってやったまでで、秋田君と一緒に
『スパルタカスの反乱』という映画を見に行って、中途半端じゃダメ
だ。やるならスパルタカスのように最後まで闘えといった記憶がある。
そして秋田君の最後のアジ演説の原稿まで書いた。ただ私はセクトが
共闘会議を牛耳るのを阻止したくて、要するにノンセクト・ラディカ
ルといわれる部分を応援したんだ」
そればかりではない。
小宮山は更に、このスチューデント・パワーの星に、カタカムナの話も聞
かせてやったというのである。
一体、あの左翼闘争、学生闘争とは根底に何を意味する物が流れていたの
であろうか?
(文中、カタカムナに関する箇所は「謎のカタカムナ文明」阿基米得著:
徳間書店より。小宮山嘉一のインタビューは同書掲載より。原文は雑誌
「迷宮」武田洋一編集長のインタビューからである。
尚、武田洋一は現在崇元と改名している)
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桂 桂 2000/05/20(土) 18:47
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≪戦争機械・6(95/11/28 00:18)≫
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☆戦後思想としての「左翼」
「選択は限られている。時代に裏切られるか、時代を裏切るか、そのど
ちらかだ・・・・・・それは後退の期に私達が己を立て直す為にかろうじて
持ち得た一つの決意の在り方であった・・・・・・時代に裏切られることな
く、よく時代を裏切りえるならば、その時、敗北は必ずしも敗北では
ないだろう・・・・・・」
(「全共闘グラフティ」高沢浩司より)
1945年以降、日本に誕生した「左翼思想」と呼ばれるものについて詳述
出来るほど、この思想に精通している訳ではない。
只言える事は、「全共闘」運動が日本の左翼運動の前面に出て行った時、少
なくともこのような形で左翼運動が展開されるのは日本左翼運動が限界に到っ
たという意味であると、このように言う識者の声も有る。
それは政治運動が学生によって担われた事、現実の政党政治の範疇を逃れ、
青臭い学生の理想像を追い求めてしまったことを指して言っているのかもしれ
ない。
戦後学生運動の歴史は1948年9月、全日本学生自治総連合(全学連)の
結成に端を発する。この初期の運動の指導的理論になったのが、武井昭夫によ
る「層としての学生運動論」であった。運動は武装闘争、血のメーデー、山村
工作隊、歌声運動、帰郷運動と様々な展開が試みられたが、1955年7月に
行われた日本共産党第六回全国協議会(いわゆる六全協)において、極左冒険
主義を排除、党は主流派(徳田球一ら)と国際派(宮本顕治ら)に分裂した。
全学連は六全協との確執の中で運動の方向を模索したが、その中で組織だけに
は留まろうとしない新たなセクトも創出されてくる。1957年には西京司・
黒田寛一らによって日本トロツキスト連盟−革共同が結成され、また1958
年には共産党からの大量の除名者、離脱者を中心に共産主義者同盟(ブント)
も結成された。初代ブント全学連委員長は唐牛健太郎である。
全学連は運動体としては1958年以降様々なセクトに分裂し、新左翼運動
として代々木にある日本共産党と悉く対立もした。それはコミンフォルムの決
定とは相容れあうことのない政治運動のベクトルから生じたものであり、別の
言い方をすれば何時までたっても起こらない「共産主義革命」というものに対
する有る種の訣別感を伴うものも感じさせる。それはどちらかといえば、政治
革命を国家レベルで裁断させるものではなしに、自らの手によって如何なる事
があっても断行すべきという、半ばカミカゼ特攻にも似た日本的な玉砕精神を
持つと運動体を創出せしめたのではなかろうか。
それは後の<ノン・セクト・ラディカル>全国全共闘に繋がるものではなかっ
たのだろうか。
50年安保で特筆しなければならないのは国会議事堂前ジグザグデモの最中
に死んだ樺美智子の死である。この時大薮晴彦は、<どうしてデモ隊の一人で
も警察官の銃を握らなかっただろうか>と書いている。
60年安保では東大落城である。
「我々の戦いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の
戦いは決して終わったのではなく、我々にかわって戦う同士の諸君が再
び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します」
(1969・1・19PM5:50)
全共闘の組織形態とは、言わば一種の代行主義的な多数決原理に基づく間接
民主主義のポツダム自治会に対して、直接民主主義を対置するとともに行動体
的な要素を持った組織として形成され、「反大学」「自主講座」を通して学問・
思想の再構築を目指しつつコミューン的胚芽を獲得していった
当時全国で最も学生運動が盛んに行われたのは東大と日大、あとは京大など
だったと言われている。
東大全共闘の議長は山本義隆。
日大全共闘は秋田明大。秋田は時の演説で「明大でなく、日大の秋田明大で
す」という気の利いた台詞を残している。
バリケード、ゲバ棒などを用いてピケを張り、学会の不正とその権威主義的
退行的風潮を厳しく批判する、それは新しい学問と市民の自由を獲得してゆく
べきものの筈であった。いやそうあるべきものだった、と過去形を用いなけれ
ばならないのかもしれない。
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≪戦争機械・7(95/11/30 01:22)≫
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学生を含めた左翼の闘志達は、71年における浅間山荘事件「共産同赤軍
派による連続リンチ事件」により今までの運動というものが奇矯に変質し、
そして空疎に瓦解して行くものを感じたのかもしれない。この時のTV中継
は戦後最大の視聴率をマークした。そして全国全共闘は自らのイデオローグ
の限界とその方向性に行き場を無くし、徐々に沈滞を始める。それは日本に
それまであった「政治の空気」が消滅する、空虚な時代の始まりであったか
もしれない。
だが時代を越えても一度革命の荒波を夢見た闘志達の夢想は断ち切られる
事はない。尚却って新たなる革命の手段を見出すべく新たなる活動を開始し
たという言い方も出来るかも知れない。
71年以後、左翼セクトは其々内ゲバに熱意を燃やし別けても中核派と革
マル派の内ゲバはし烈なものになった。
75年には「東アジア反日武装戦線・狼」が無差別企業爆破事件を起こし、
世間の注目を浴びる。右翼である鈴木邦男はその著書「狼と腹腹時計(後に
改題・現タイトルは<テロ>)」において、「三島由紀夫の割腹は、右翼よ
りも左翼において強い影響をもたらした」と書いている。
現在活躍中の文化人、著述業、出版業における内外の人物にその昔活動家
であった人物というのは数えてみると以外と多い。現在のオカルトブーム
(ブームと言うよりはむしろ一つのジャンル<精神世界>として確立してし
まったものだが)の基礎が作られたのも正確にはこの70年代の中盤から後
半にかけて、自らのブランキズムのやり場を失ったかつての活動家、あるい
はパルチザンを夢見るヒッピーなどが自らをグルを称し、この世に有るかな
しかのユートピアを目指してコミューンを創設しだしたのが次第にメディア
の俎上に上がって巷間に流布しだしたのがそのきっかけである事も否めない。
有る意味でそれは<ポップ>なものである。
本来は外来的な思想である魔術・カバラ・ユダヤ・宇宙人・秘密結社など
というロジックをあたかも時代を先取りするようなタームで紹介する。メディ
アがこぞって紹介すれば、それはすでにそこにあたかも<そのような世界が>
既に有るかのような幻想を抱かせるのには十分な材料になる。雑誌「ムー」
などの大幅な流行(一時はオカルト雑誌は数えて5.6冊刊行されていた時
期もあった)は、そうした一見有るように見えて実は使い古された世界観を
切り取りも新たにまるで手品のタネを手変え品変え見せ付けていることでし
かなかった。
だがそれにしたところで一朝一夕にそれが成し遂げたられた訳ではない。
中長期的に何らかの形でイニシアティブを取り続けた人物がいた訳で、そ
して一つの立場からささやかなキックを与える事によって細波を立てるかの
ように時代の間隙に「オカルト」という世界観の確立(それもファナティッ
クで、まるで明日にでも革命が起こって世界史が塗り返るような)を試み続
けたからこそ、今日の精神世界というジャンルがしっかり根を生やしている
のである。
その一つの立場に、「八幡書店」というのがある。
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桂 桂 2000/05/20(土) 18:48
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≪戦争機械・8(96/01/04 06:22)≫
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☆我々の内なるオウム・左翼・ハルマゲドン
「八幡書店について」話を始める前に一言断りを入れておきたい。
それは、一つの事象について特に断定的に書く事によって引き起こされるだ
ろう、特定の事柄についてだ。それは個人攻撃ともいうべきものである。
「宝島30」一月号には「武田崇元オカルト一代記」なるインタビュー記事
が載った。
太田出版からはオウム事件についてのインタビューを纏めた「ジ・オウム」
が、草思社からは小浜
逸郎「オウムと全共闘」、その他吉本隆明、山崎哲、中
沢新一らが、頻りと声を上げて「オウム事件とは何か」について話をしだして
いる。彼らは一様に、元左翼思想体験者である。有る者は全共闘、有る者はセ
クトに属し、有る者は日本のマルクスと呼ばれた。何故か一般的なジャーナリ
ストより、そうした思想経験者の方が声高に「一つの事象」についてさも百家
争鳴している。
これは何故なのか?
左翼人はよく言う。
「この一つを持って××は日本帝国主義者に寝返った!!」あるいは「思想的
転向を計った!」と。
一つの事柄がさも鬼の首を取ったように語られてしまうのは何故なのか?
その一時を持って全てに置き換えられてしまうのは何故なのか?
物事の他面性に着目せず、どうしてその一面を語れることが出来るだろう?
ニューエイジ思想の二面性とは何なのか?
宗教の両議的な意味は何なのか、その問いかけをせずに、どうしてその危険性だ
けで割り切る事が出来るのだろうか?
須らくその問いかけが抜けている。
その抜けた穴の中に、日常の罠が見え隠れする。
そうした一面性を以って断罪しようとする影に、怪しげな影をみる。
「宗教は危険だ」と言い切る言動に、邪な影をみる。
その影とは何か?
一つの事柄について集中砲打を浴びせようとする心理の裏には、個人の欲が渦巻
き、そしてそれによって自らに「一矢報い」ようとさせる心根が潜んでいるのでは
ないだろうか。
それはまるで偶像崇拝者が、自ら崇めていたものが本物の神ではなく只の機会仕
掛けの神(デウス・エキス・マナ)であることを知った時のように・・・・かの者は自
らを崇拝者を置く事に相対化し、対象物を絶対化する。
それは天皇である。
それは神である。
それは麻原である。
それは思想である。
それは自らである。
偶像に縋る事によってでしか自らの存在価値を見出せない者、それは自らを自ら
の力で救い出す事の出来無い「弱者」そのものである。カリスマが地に引きずり降
ろされた時彼らには一様に言わなければならない言葉がある。「騙された!!」と。
何故かくも脆く信じ、そして脆く倒れなくてはならなぬほど、個人の精神性が脆
弱にされたのか?
それは歴史を克明に辿らなくてはならない。
我々の歴史を。
我々の土壌として有る精神性を。
この半世紀、如何なる思想が去来し、そして徘徊していったのか。
その中には「戦争機械」と呼ばれているものも含まれている。
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≪戦争機械・9(96/01/07 02:00)≫
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戦争機械・第二部
☆1975年以降
中核派と革マル派の内ゲバは75年頃がピークであったらしい。
以後の日本の左翼思想は徐々に後退を示し、そして70年代の後半は緩やかに
白け始めて行ったかのようにみえた。
映画も文学も第一線より後方戦線への撤退を余儀なくされようとしたかに見え
る。
がくしゃらだった革命への燃えたぎるエネルギーは時代の徒花のように空ろぎ
始めていた。
この頃より世間では横溝正史や夢野久作の再評価の気運が高まり、一種のリバ
イバルブームが起きていたらしい。また自然食運動やエコロジー運動が静かに一
つのコミューンと成り始めたのも、動きの一つであった。
1976年4月、「日本的狂気の源泉を探る」という言葉を引っ提げた雑誌が
絃映社から創刊された。「地球ロマン」がそうである。編集長は武田洋一(後に
改名、崇元)氏である。オカルト雑誌としてはカルト的な内容を売りにしており、
言わば現在の秘教的なオカルト・精神世界の魁になった雑誌である。かなり伝説
的な雑誌で、今では古書店街でも見つけるのは容易ではないだろう。
同誌はその先駆的な内容により6号にて廃刊となる。
武田氏は「地球ロマン」休刊後、武田益尚のペンネームにて「UFOと宇宙」
誌の編集長に就任するなどしていたが、1979年に「地球ロマンの霊統と遺産
を発展的に継承する」として白馬書房より「迷宮」誌を創刊するが、これは3号
にて休刊した。
また学研のオカルト雑誌「ムー」にも79年の創刊当初より顧問として参加、
様々な企画に携わっていたという事だそうである(現在はどうなっているかは知
らない)。
「迷宮」という雑誌はオカルト情報を単なる好事家のネタとしてだけではなく、
文化史上の資料として対象化するというマニアックな雑誌であったという。
その復刊第一号は「偽史倭人伝」と銘打たれ、「武内文献」「上記」などのいわ
ゆる超古代史と日本=ユダヤ同祖論、シュメール起源説などの日本民族起源論異論
を扱う内容だったという。
「偽史」とはもう一つの影の日本史の事である。
従来語られて来た天皇万世一系説を更にエキセントリックにし、超古代文明にお
いては天皇は超科学を駆使して世界を神聖統治しており、そして日本人はもっとも
優れた民族として君臨していたという異端の史説である。
この偽史は例として上げた「武内文献」のみに関らず、歴史においても「もう一
人の天皇」熊沢天皇や、あるいは60年代後半から突如として「この国にはもう一
つの民族がいる」と声を挙げた八切止夫(サンカ説)なども、同じ様に「我こそは
正統なり」と声を上げた人達がいる。偽史運動というのは総じてものを一からげに
した言い方だが、これらは纏まった運動体というよりは、正に「日本的狂気」とし
て個々の事象を事実経緯と時代背景に基づき厳密に検証されなければならないだろ
う。
後退して行く左翼イデオロギー運動と偽史は静かに交錯したのか。
「地球ロマン」誌復刊一号の編集後記から武田氏の文章を抜粋して見る。
「偽史にまつわるエピソードを二つ。一つは、数年前、赤軍派の梅内恒夫が地下
からのアピールで<天皇アラブ渡来説>の八切止夫を日本始まって以来の人民
歴史家と賞賛。マルクス主義を放棄し、ゲバリスタに志願した事。一
つは、秦
史ユダヤ人説を信奉する手島郁郎が、岡本公三を転向させた事、最も急進主義
的な党派に属する二人の人間の思想的転宗に、何らかの形で偽史が介在した事
は果して偶然でしょうか?」
これは当時(75年頃)流れた噂であるらしい。
岡本公三氏は日本赤軍派。テルアビブ空港乱射事件(註:事件の真相は無差別乱
射事件ではないらしい)の一人。手島郁郎氏は牧師で、岡本氏とは接見した事は有
るそうだが教化までには到らなかったらしい。ただそれにしてもこのような形で噂
が流れるというのは確かに興味深いものが有る。
八切止夫(故人)氏の「もう一つの民族」サンカ説は赤軍派の梅内恒夫に多大な
影響を及ぼし、「第三世界の窮民」「虐げられたる民族」という新たなる概念を産
み出す事になった。そして多くの左翼学生の間に異端歴史学への傾斜をもたらすと
いう副産物をも産む事になった。
武田崇元氏は東大出身である。
学生時代にはブント(通称・共産主義者同盟、略称共産同)に属していたという。
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