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皇太后のご逝去に際して思ったこと
皇太后のご逝去は、御天寿を全うされたというべきものでしたから、暗殺の可能性を云々するつもりはありません。しかし、過去の歴史をみれば、王族の言動や生死までもが、下々の者たちによって政治利用され続けてきたことは厳然たる事実です。 (英国の王室においては、今世紀になってからも一種の暗殺で国王が死んでいるのです。そのエピソードを参考までに拙著から引用しておきました。)
不幸にも皇太后さまは、選挙運動の真っ最中にご逝去されました。 これによって少なくとも森首相の不適切発言――天皇制を持ち出して行なった所謂「神の国」発言――の是非を選挙戦の争点にすることは事実上不可能になったわけですから、不穏当発言を行なった政党やそれを擁護して政権掌握や“おこぼれ”を狙っている二次的・三次的与党は、「神風が吹いた」とほくそ笑んでいるかも知れません。 まったく皮肉なことですが、皇族のご逝去が、選挙戦という最も下衆な“政治紛争”に、結果的に利用されるという情勢になりそうです。
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【参考】
●英国をジョージ5世は医者の政治的暗殺で死んだ
1936年1月20日にイギリス国王ジョージ5世(1865−1936年、在位1910−36年)が死去したが、侍医を務めていたのは安楽死論者のドーソン卿だった。
国王はすでに危険な状態が続いていた。だからマスコミも国民も王様の容体の推移を、息をのんで見守っていた。
この日の晩、ドーソンの下には皇太子、カンタベリー大僧正のコスモ・ラング、それに首相のラムゼイ・マクドナルドが駆けつけた。国王抜きの晩餐が開かれ、その席で配られた2人には、ドーソンがこう“死亡予告”を書き記していた──「国王陛下はご臨終に向かって穏やかに歩んでおられます」。だがこの時点では、国王はまだ別室で飲んだり食べたりしていたらしい。つまり、ジョージ5世にとっては間違いなく“最後の晩餐”になったわけだ。
国政のトップたちが国王の安否を気遣いながら共に晩餐をとった様子はBBCラジオでイギリス全土に伝えられていたのだが、その間、皇太子とヨーク公とケント公並びに国王秘書は、すでに葬儀の準備に着手していた。
就寝の時間がきた。国王の寝室からカンタベリー大僧正を追い出したが、メアリー女王と皇太子はなぜか居残っていた。表向きは最も身近な親族が、国王の最後を見届けるためそこに居たというわけ。
午後11時。ドーソンは大量のモルヒネとコカインを国王の頸静脈に“穏やかに”注入した。そして11時55分。「崩御」が訪れた。
女王と皇太子が“いたずらに延命させる必要はない”と非公式ながらドーソンに命じていたことが暴露されたのは、それから半世紀も後のこと。ドーソン自身はすでに1945年に死去してこの世にはいなかった。
ジョージ5世が息絶えたのは、ちょうど『タイムズ』紙の締め切り時刻だったのである。なんといっても高級紙といえば『タイムズ』だ。下々[しもじも]のマスコミはすでに“崩御近し”と天気予報内容に軽々しくかき立てていた。もう下衆[げす]のメディアはいいだろう。『タイムズ』に特ダネを提供してやれば、明朝は格調高き「崩御」報道がマスコミをリードしてくれるはずだ。ドーソンの側にはこうした思惑があった。
実際、彼は妻を通じて『タイムズ』の編集長に「明朝の第1面の真ん中を開けておくように」と連絡していたのである。果たして同年暮れには、ドーソンは晴れて子爵に昇進した。
この一件は、今日風に言えば「積極的安楽死」としなどと呼ばれるだろう。が、内実は“慈悲に基づく暗殺”だった。女王と皇太子の支持で夫侍医が手を下しのだから、文字通りの“密室殺人”であり“尊属殺人”である。新聞の締め切り時刻に合わせて毒を盛ったのだから、あまりにもセコい暗殺といえよう。
もっとも、20世紀においては、政治的民主主義と経済的自由主義を選択した国家に王族が君臨する必然性はすでにない。そうなってくるとマスコミを通じた大衆的マインド・コントロールで“国民統合の象徴”──すなわち威厳と親愛に満ちた王室──としての希少価値を印象づけて生存していくしか、なくなるであろう。つまり、ジョージ5世の“安楽死暗殺”は、大衆メディア時代ならではの“侍医の最後のお勤め”の成果だったといえる。
(『現代医学の大逆説』p.150-152,工学社,2000年1月)