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″神道世界宗教化計画″裏の日本史 文=梁瀬 光世
神代から連綿と受け継がれてきた系譜を根本原理とする、「天皇中心の神国−神道」は、天皇家を除外しては語れない。ところが戦後、その皇室内で密かにキリスト教が広まり、しっかりと根を下ろしていっのである!
●キリスト教徒・マッカーサーの使命と思惑
濃い緑色の金縁サングラスと口にはコーンパイプ。この奇妙な出た立ちでダグラス・マッカーサーが愛機パターン号のタラップを降りたのは、昭和20年(1945年)8月30日のことであった。
連合軍最高司令官マッカーサー元帥はモダン・ショーグン≠ニして、敗戦後の日本を占領統治するためにやってきた。だが、それは披にとっては仮の姿でしかなかつたのである。
マッカーサーは、もはや軍人であることを忘れ、軍政を敷くこと以上に、ある熱い使命感に燃えていた。タラップの上で立ち止まった彼は、顔を右から左へと回し、羊毛のようなちぎれ雲の下のはるか彼方の地平線を見わたした。
そのとき、彼は何を思っていたのか?
1週間後、マッカーサーの信頼する秘書官ボナー・フェラーズは、「ミス・カワイとユリ」を捜しだし、米国大使館の最初の客としてリムジンで招待する。以来、毎週日曜日ごとに3人は会合を重ねた。
「カワイ」とは河井みち、恵泉女子学院の創立者。「ユリ」とは一色ゆり、フェラーズの大学時代の先輩だ。フェラーズとこのふたりの間には、あるつながりがあった。
それは、キリスト教プロテスタントの一派であるクエーカーだったということである。
カワイは日本のクエーカーの指導的立場にあった。日本でのクエーカーの人脈は、日本独自のキリスト教である「無教会派」と結びつき、幅広い影響力をもっていた。
フエラーズは小泉八雲を愛読する親日家であり、戦前には何度も来日していた。したがって、マッカーサーの直接の部下の中でただひとり、日本を知る者でもあった。
その1か月足らずの後、天皇は虎ノ門の米国大使館にマッカーサーを訪問した。玄関で緊張する天皇に、ひとりの将校がにこやかな顔で握手を求めてきた。あまりにも意外なことである。
「ようこそ、いらっしやいました、陛下」
それがフエラーズだった。
●水面下で押し進められた天皇無罪の立証工作。
そのころフェラーズは「天皇に関する覚え書き」をマッカーサーに提出している。内容はあまりにも天皇に好意的であった。しかも天皇が裁判を受ければ、国内に混乱と流血が起こるだろう、とまで断言していたのである。
またそのころ、カワイとユリが元宮内次官の関屋貞三郎を訪問している。彼しか頼れる人がいなかったからだ。関屋は無教会派クリスチャンでありながら、大正8年〜昭和8年まで皇室の慶弔を取り仕切っていた。いわば戦前の宮中での隠れキリシタン≠ナある。
関屋夫人の衣子も、やはりクリスチヤンである。昭和天皇の母・貞明皇太后とは女学校のころからの友だちで、宮中では聖書の詰もしていた。しかも衣子はマッカーサーと同じ聖公会に属していた。これは英国国教会と同じ宗派だ。
この関屋によって、「天皇無罪の立証工作」が進められることになる。
関屋はすでに、天皇のおじである終戦時臨時首相・東久邇宮に、これからの日本はキリスト教が指導すべきだと語っていた。
彼は四谷の上智大学内にある、鹿鳴館風の洋館「大島館」と連絡をとっている。ここは戦前から敗戦直後まで日米両国の神父たちが協力して、開戦を防ぎ、あるいは終戦を模索する裏工作をした秘密のアジトでもあった。
上智大学はカトリックのイエズス会系で、学長はドイツ人のブルノー・ビッテル。彼はまた、ローマ法王庁代表、バチカン公使人代理という地位にあった。
ビッテルは、関谷の工作に呼応し、東京裁判のため来日した関係者で、カトリック信者を次々と大島館に招待。まず、米国の判事ジョン・ヒギンズ、それから首席検事ジョセフ・キーナンが来た。
とくにキーナンは毎日のように通い、ビッテルから「日本学」を学んでいる。彼は無類の大酒飲みで、授業が終わるとふたりは酒を飲み、天皇制について激論を交わしたという。
キーナンは初め、アメリカ人として天皇の戦争犯罪を追求する急先鋒だった。しかし、天皇無罪を主張するビッテルと議論していくうちに、意見が180度転換してしまう。そしてついに、検事局としては天皇を訴追しないと宣言し、他国の検事たちを驚かす。
こうして彼の活躍により、ついには「天皇の戦争犯罪はなし」ということになるのである。
●皇室に派遣されたヴァイニングの目的とは?
クリスチャンの関屋はまた、天皇側に働きかけることも怠らなかつた。いくら無罪の立証が有利になつても、天皇自身が変わらなくてはどうにもならない。
そこで、元海軍大将で学習院長の山梨勝之進に協力を仰いだ。戦前の学習院は現在と違い、皇族や華族の子弟教育の学校だった。したがって、山梨の宮中への発言力は大きかったのだ。しかも都合のいいことに学習院に、マッカーサーが指揮するGHQ(連合軍総司令部)にも顔の効く外国人教師が潜り込んできた。
旧金沢四校の英語教師、レジナルド・プライスである。彼もクエーカーで、しかも、故国イギリスで信仰を理由に徴兵を拒否したため、2年間も監獄入りした筋金入りの信者だったのである。山梨自身も、中学はミッション系で、天皇家もきちんとキリスト教を知るべきだという持論をもっていた。
そして昭和21年に入り、関屋が枢密顧問官になると同時に、
山梨はその持論を実行に移した。
天皇にキリスト教の講義を受けることを勧めたのである。
そこで山梨の選んだ講師は、カトリック信者で、のちの最高裁長官・田中耕太郎。そしてプロテスタント信者で、シェイクスピア研究で有名な斉藤勇だった。
斉藤の選んだテーマは、「罪、苦しみ、赦し、十字架、そして祈りと希望」という、実にキリスト教の核心を伝える内容だった。天皇はとくに「祈り」について質問したという。
だが、山梨と関谷は考えた。もっとも重要なのは次代の天皇が、単なる知識でなく肌≠ナキリスト教と、さらには民主主義とを知ることだ、と。
そこでふたりは、12歳の皇太子(今上天皇)のために、アメリカ人の家庭教師をつけたいと提案した。
こうして天皇は、教育制度を改革するために来日した教育使節団団長に、家庭教師の候補を依頼したのである。その条件はこうだった。狂信的ではない婦人のキリスト教徒=B
このような宮中の目論見のもとに、ひとりの婦人が来日する。エリザベス・ヴァイニングである。
披女もまたクエーカーで、その福祉組織ともいうべき「フレンド奉仕団」で仕事をしていた。
フレンド奉仕団では「日本救済計画」が進められており、その立案者サムエル・マーブルが彼女に白羽の矢を立てたのである。
ヴァイニングはトリビユーン賞を受賞した作家でもある。おそらく、帰国後に日本での特異な経験を活かし、その文才を発揮してもらおうという魂胆もあっただろう。
事実、綾女
の著『皇太子の窓』は、世界の58か国で読まれるベストセラーになった。この書は、世界における皇室のイメージ・チェンジに大いに貢献した。
教育使節団団長は、彼女のほか数人の候補者を日本に知らせてきた。山梨はその中からヴァイニングに決定。彼女の秘書として、やはりクエーカーの高橋たねを任命したのである。
ヴァイニングは、皇太子に英語を個人教授するとともに、学習院で皇太子の教室の授業を受けもった。しかし彼女の仕事は、その後ますます増えていくのである。
●キリスト教と神道の提携論を語った高松宮
ヴァイニングは、すぐに皇室にとけ込むことができた。秩父宮妃・勢津子と親しくなつたのが大きな要因だった。
秩父宮は天皇のすぐ下の弟にあたる。その秩父宮妃がなんと、アメリカでクエーカー系の有名校で学んだことがあったのだ。しかも宮妃は貞明皇太后の覚えがいい。
そんな事情で、ヴァイニングはどんどん皇族に入り込んでいく。まず、天皇の2番目の弟・高松宮が、ヴアイニングに英会話の家庭教師を申し込んできた。それだけではない。良子皇后(現皇太后)にまで、英語を教えることになったのである。
しかし、英語を教えるというのはあくまで建前だった。これは、ヴアイニングも皇族も納得ずくのことである。彼女は英語を通して生きた民主主義や、さらにキリスト教をも教えたのだ。それは4年もの間続いたのである。
天皇の無罪立証工作から始まった、キリスト教の皇族への浸透。それはヴアイニングにいたり、ついに皇族の″深奥部″に達したのである!
そして昭和22年、高松宮が「神社新報」のインタビュー記事で、こんな驚くべきことを語ったのだ。
「神道は教理や教学的な面が空虚だ。明治維新に廃仏毀釈で仏教と離れてしまったので、いよいよそういう骨になるものがなくなってしまった。神道に欠けているものをキリスト教とタイアップすることで学ぶべきではなかろうか」
この新聞は、いわば神社神道界の公式機関紙である。だから編集部内でも大きな問題となった。けれども、ボツにするわけにはいかなかったという。
なぜなら当時、高松宮は天皇に次いでナンバー2の位置にいたからだ。というのは、すでに戦争中、天皇はもし自分に万一のことがあった場合、幼い皇太子に代わつて高松宮が摂政に就くよう公言していたのである。
秩父宮は天皇とソリが合わないうえに、肺を病んでいた。一方、皇族の中で「高松宮はよろしい」と天皇の覚えがよかっ
たという。
昭和22年当時、天皇が戦争に対する道義的責任をとって退位することは、天皇も皇族も当然と考えていた。ということは、皇太子が成人するまで高松宮が摂政に就くことになる。
そんな、皇族の中でも重要な位置にある宮様が、神道とキリスト提携論をぶちあげたのだ。
●皇室内で徐々に広まるキリスト教への興味
ちょうどこのころ、天皇自身もマッカーサーとの秘密会談で、宗教について論じ合っていた。占領期の宗教史研究家、ウッダードは当時のことをこう語っている。
「天皇がキリスト教を国家宗教にする意志のあることを、内密に表明した」
昭和23年になると、いよいよ宮中でバイブル・クラスが開かれるようになつた。講師は当時の″トップ・レディ″植村環である。
植村は明治の有名なプロテスタント信者、植村正久の娘で、昭和14年に日本YWCA会長と世界YWCA副会長に就任。いわば、世界的なプロテスタントの女性指導者で、アメリカにも知人が多い。
最初は天皇の3人の皇女、3女孝宮・4女順宮・5女清宮に「聖
書のお話」を毎週することから始まった。
きっかけは、3人の皇女たちが軽井沢の別荘で、ヴァイニングたちクエーカーの「朝の礼拝」に参加したことだった。彼女たちは、若いお手伝いの女性まで差別なく参加したということから、聖書に興味をもったという。
そこで宮内庁は植村に聖書講義を頼むことにしたのである。それがやがて、良子皇后にもぜひ、ということになり、ついに天皇もときどき参加するようになった。
植村は、皇后にはとくに、愛をテーマに話をした。そしてともに賛美歌を歌い、祈りを捧げた。皇后は音楽が得意で賛美歌を好み、「たえなる道しるべの光を」や「疲れし心を慰める愛を」のソプラノがよく宮中を流れたという。
この年、日本で初めてのクリスチヤン首相が誕生した。社会党委貝長の片山哲である。さらに翌年には宮内庁の長官も侍従長もキリスト教徒が任命された。とくに長官の田島道治はクエーカーである。
さらに、三鷹に国際基督教大学を設立することも決まった。
※ICUには「ロックフェラー財閥」も資金を提供した^-^;
キリスト教精神に基づいて将来の日本を背負う人間を育成する、日本で最高の教育機関としてである。高松宮も設立準備委員会の会合でこう講演している。
「キリスト教徒がわが国の光となることを、切に願うものであります」
マッカーサーはその募金財団の名誉議長となり、日本では日銀総裁が資金を集めた。この時期、彼は幸福の絶頂にあつた。
もともとマッカーサーの信心の探さは有名で、聖公会の信徒として、毎晩寝る前には必ず愛用の聖書の一章を読んでいたほどである。
※ちなみにマッカーサーは石屋の親方でもあった^-^;
彼にとって、日本との戦争は十字軍遠征だったのだ。
●今も皇室に生きつづけるキリスト教の息吹
マッカーサーは自分を、軍服を着た宣教師ととらえ、日本を民主化するだけではたりないと考えでいた。なぜなら日本人は、形だけ民主主義で、内実は付和雷同の全体主義に陥りやすいからだ。
マッカーサーが抱いていた熱い使命感−−それは敗戦で精神の虚脱した日本人の「魂の救済」だった。民主主義を支えるためにも、どうしても日本をキリスト教国にする必要があったのである。それを彼は「精神革命」と呼んだ。
マッカーサーは、総計2500人の宣教師を軍用機で来日させ、
あらゆる便宜を図つた。また1000万部のポケット版聖書を軍の輸送船で日本に運び込み、宣教師たちはそれをリュックに詰め込んで、日本中に配布して回つた。
それがようやく実りつつある。
日本は東洋のスイスとして、平和な道義国家となる−−こうしてマッカーサーは自分を、世界を代表するキリスト教の二大指導者のひとりとまでみなすようになつた。
ひとりはローマ法王、そうしてもうひとりが、マッカーサーなのだ。
しかし、彼の絶頂の幸福とは裏腹に、先には急転落が待ち受けていた。最高司令官を突然解任され、失意のうちに日本を去ることを余儀なくされたのだ。
結局、日本はマッカーサーが夢想していたような、キリスト教国にも道義国家にもならなかった。そして、皇族に広まったキリスト教熟も急速に冷めていったのである。
マッカーサーが去ると、5年間続いた植村の聖書講義も廃止された。
しかし、「入信はしなくてもキリスト教を理解し、できれば信じてほしい」という植村の願いは届き、キリスト教は皇室の中に着実に根を下ろしたよ
うである。
天皇のおじにあたる朝香宮は、カトリックの「裸足のカルメル会」という戒律の厳しい宗派で洗礼を受けた。豊島が岡皇族墓地にある朝香宮家の墓には十字架も立っている。天皇のいちばん下の弟の「ヒゲ宮様」三笠宮は、カトリックの信者である信子妃と結婚した。
昭和34年、国内は「ミッチー・ブーム」に沸く。皇太子のロマンスと婚約である。そのミッチーこと現在の美智重后は、カトリックの家庭で育ち、カトリック系の聖心女子大学を卒業している。
※でも確か皇后陛下の父上の葬式は「神道」だったような気がするが。皇后の父という立場上、改宗したということか?
※もし正田家がカトリック信者なら皇后陛下は、誕生直後、当然『幼児洗礼』を受けておられる筈だから、カトリック信者ということになる。
さらに昭和37年、皇太子の弟である義宮(常陸宮)が、毎日の就寝前に「父と子と聖霊よ〜」と祈り、問題になった。まさに入信一歩手前といったところ。しかし入信することはなく、皇室の神事にも熱心であった。
義宮付きの村井教育侍従は無教会派だつた。そして神道には、キリスト教の−愛と寛容」が必要という持論を述べている。これはまさに、天皇一族の暗黙の気持ちを代弁しているともいえるだろう。
これまで見てきたように、皇族は、キリスト教に急接近した。それは皇族が「天皇中心の神国」という神道から脱皮しようとしたからではないか。それは「超容神道」とでも名づけられよう。つまり、世界に開かれた神道を目指したということだろう。
この世界宗教化を志向した新しい神道は、今の皇室にも、目に見えない形で受け継がれている。そして、キリスト教の息吹は、今も皇室に山脈々と生きつづけているのである。