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週刊新潮6月1日号
“17歳ハンマー少年の父親は「朝日」の名物記者だった”
(前略)
大物記者も今は……
で、バスジヤツク犯人にも劣らないこの異様な行動と面妖な精神構造は、17歳の犯
罪を追及するには恰好のテーマ。新聞各紙はこぞって詳細を報じたのだったが、なぜ
か朝日新聞だけは…。全国版にはベタ記事並の小記事を2回流しただけなのだ。
「いやあ、警察に直接取材をした横浜支局や本社社会部も、扱いに困ったのですよ」
と朝日記者の一人が打ち明ける。
「実は、事件を起こした少年の父親が、中村巌さん=仮名=だったのです。日銀クラ
ブのキャップもつとめた経済部の工−スですよ」
中村巌氏(45)は昭和56年に朝日新聞社に入社し、東京本社経済部、アエラ、大
阪本社経済部などを経てきた記者で、経済物、教育物からドストエフスキーに関する
著作まである才人記者でもある。
「経済部というのは、朝日じゃ政治部と並んでエリートコースなんですよ」
とすると、今回のハンマー少年事件は、この大物記者が抑えこんだとか、大物記者の
意を汲んで筆を抑えたとか、そういうことだったのか。
「いやあ、そこが込み入っていましてね、中村さんは実は、今じゃ大物記者ではな
く、ただの人なんです」
と別の朝日記者が教えてくれる。
「経済部の出世コースの大阪勤務から東京に戻ってきたら、アエラ編集部に回されて
しまった。彼はあっちこっちで〃おいこら話せ〃みたいな取材をするものだから取材
先から総スカンを食って、経済部から見放されたのです」
その取材態度について、ある銀行の広報担当者も、
「中村巌氏ねえ。まあ名物記者ですよ。天下の朝日新聞がやってきたから全部話せっ
て感じの取材態度で、嫌っている広報マンは少なくありません。しかも、かなり危な
いスジのネタ元の情報をそのまま検証もせずに書くんです」
と眉をひそめるのだ。
「それで噴き出たのが昨年の文春事件でした」
と先の朝日記者が続ける。
「月刊文藝春秋の昨年12月に載った『第一勧銀巨額不良債権を暴く』という記事が
問題になったのです。この記事を書くにあたって、中村さんは朝日新聞社の名刺で取
材しながら、文蟄春秋に記事を書いてしまった。しかも記事は六十数カ所の間違いが
あり、当然ですが第一勧銀は怒った」
当の第一勧銀幹部が、「私らとしては、中村巌という名前すら思い出したくない。そ
れほど内容のズサンな・また酷い取材の記事でした」といまだに吐き捨てるほどなの
だ。
「それで中村さんは、この4月からデータベースセクションに異動になりました。こ
こは資料室で、新聞の切り抜きや本の貸出をする部署です。明らかな懲罰人事です
ね」
なんたることか、17歳の息子が事件を起こす前に、父親が堕ちた偶像になっていた
のだ。それでも、この事件を扱う朝日の筆先が鈍ったのは、武士の情けということ
か。
(後略=この後,この記者は離婚しており事件を起こした長男は離婚後母方に育てら
れていることが記されている)