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回答先: Re: 日本の宇宙開発は全部止めよ。 投稿者 オスカー 日時 2000 年 5 月 25 日 00:56:24:
あれ、マルコポーロの廃刊の前月のです。
在職中は言えなかたんでしょうねぇ。
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●糸川先生のこと
糸川英夫は日本の宇宙開発の創始者である。どこの国でも、草分けの頃には怪物的な、コンピューターつきブルドーザーのような人物が奔走する。そうでなければロケットの打ち上げなどという大事業は実現できないのだ。
糸川も奇人である。宇宙開発史に彗星のように現れ、大勢を巻き込んだすえ、わずか10年で身を引き、そのあとはバレエに挑戦した。著書に『逆転の発想』というベストセラーがある。
的川氏は糸川の最後の門下生だった。
野尻: 糸川先生の第一印象とか、この人はすごい、と思ったことはありますか?
的川: そうですねえ。糸川先生にはいろいろ思い出がありますけれど、あれくらい、マネジメントに徹することが
できる人が、いま欲しいですね。
これはいまの所長とか、そういった人たちに対する批判ではありませんけれども、どうしても日本の社会というのは
アメリカとちがって、学問的に優れた人たちがマネジメントをするようになっていくんですね。マネジメントの上手な
人としてではない。ただ、名声でみんなを従わせてゆくことができる人たちで。なかには両方持っている人もいますけ
れども。
アメリカでは35歳くらいで分岐があって、マネジメントに行く人と研究する人が同じ給与体系で伸びていけます。
そのほうが合理的だと思うんですよ。高エネ研はまさにそうやってて、前の西川所長は「俺はもう研究は一切やらな
い」と所長職に徹して非常に大きな組織を作り上げた。
宇宙という分野もほんとはそうなんだろうと思いますね。だからマネジメントに徹した糸川先生は大変すごかった。
勉強もしたかったでしょうけれども、マネジメントが好きだったんでしょうね。
それと、やっぱりその……、普通の人とちがう神経を持っていますね。あんなに歳をとってからバレエなんか始めら
れないですよ、恥ずかしくて。スタイルを見れば向いてないのは明らかなんで(笑)。
糸川研究室に入ってすぐの頃、「原子力ロケットの論文を書け」と言われたんです。その頃、原子力ロケットの文献
なんかなにもなくて、国会図書館に1週間ほどつめて、A4で5〜6枚のレポートを書いたんです。
それを研究所に持っていってたら、「書けましたか」って電話がかかってきて、「あれ、書いたのがどうしてわかっ
たんだろう? 入って2週間くらいのことだから、僕のことあんまりわからないはずだけど」と思って。
それで、先生のところへ論文を持っていくと封筒にしまう。そこへ秘書の人が「車がきました」というのでパッと出
て行っちゃったんです。
秘書の人に「どこへ行ったの」と聞いたら、「国会で今日、予算委員会の質問がある」というんです。それで「なん
の質問?」と聞いたら「原子力ロケット」だという(笑)。
それでもうびっくりしちゃって。どこから見ても僕の書いた論文しか持っていないわけですよ。議員から質問がきた
ら、僕が書いたものを読んで答えるわけです。論文はテーマがあって答えがあって、間はいろんな計算があるから、正
しいかどうかは糸川先生といえどもすぐにわかるわけがないんです。
で「あれだけが頼りかあ……」と思いながら研究室に帰って、青い顔で「大変なことになりました」というと、みん
なニヤニヤしてて、「みんな同じ目にあってるんだよ」と(笑)。
糸川先生というのは、非常に大胆にものを頼んで、何か起きると自分がぜんぶ責任を取る。そういうことがよくあっ
た。
国会議員も鋭い質問をすることがある。糸川先生が大学院生のやった計算を持っていったら、「それはちがう」と言
われたことがあるそうです。すると糸川先生は「よくはわからないんだけども、あなたはしっかり計算しましたか?」
と逆に国会議員に質問するわけです。議員が「間違いない」というと「そうですか。じゃあ私が計算を間違えました。
あなたすごいですね」とか言ってごまかすわけです。うちの大学院生がやったなんて恥はかかせない。でも帰ってきて
から、その大学院生には何も頼まない(笑)。
みんな冷や汗もので、だから先生から頼まれた仕事をおろそかにするような人は切り捨てられてゆく。大胆な子育て
っていう気がしますね。人を育てるのにああいうふうに、非常におおらかに、厳しく育てられる人というのは、それ以
後あまり会ったことがないです。
糸川先生は僕がマスター2年を終わった時に退官されたので、僕は糸川研究室でマスター論文を書いた最後の学生に
なったんです。
野尻: 糸川先生は「おおすみ」(国産初の人工衛星)を打ち上げる前の、ラムダ−4Sを二つ上げた(ともに失敗
した)ところで突然退官されたんですね。
的川: 当時、糸川先生は表向きには「後進に道をゆずる」という言い方で退官されたわけですけれども、事実上は
朝日新聞のキャンペーンですね。朝日新聞が「東大のロケットはやめろ」と猛烈なキャンペーンをしたわけです。
もう朝日とも仲よくなっていますので言ってもいいと思うんですが、朝日に木村繁さんという人がいて、この人が糸
川先生とどうも基本的に仲が悪かったんですね。とにかく朝日はそういうキャンペーンをした。読売や毎日はそっぽを
向いていた。NHKは我々を擁護してくれて。なんか非常に奇妙なキャンペーンでしたよ。
で、糸川先生は若い時から持論があって、「男が同じことをいつまでもやるもんじゃない」というわけです。10年
に1回くらいは別のことをやるのが男ってもんだ、と。確かにそれを地でいったわけですね。
野尻: マスコミ受けはよかったんですか?
的川: よかったですね。だから当時の朝日新聞のキャンペーンだけは非常に異様な感じでしたね。
それから、思い出したけれども、ペンシルロケットを水平に打ってフライトのテストをするという発想は、やっぱり
大変ユ
ニークなものです。当時の日本ではレーダーとかテレメーターのシステムが何もできていなかったので、水平に
打って高速度カメラとかオシログラフでテストをやるというのは、いま考えれば当然なんですがね。方程式でロケット
の挙動を解けば、どこを向いていても同じなんですよね。60度を向いていても0度を向いていても同じ。でもロケッ
トは上に上がるもんだとばかり思ってるから、ユニークな発想だなあ、と。
スミソニアン航空宇宙博物館にやっとペンシルが展示されるようになりましたけども、安上がりにやったということ
で、大変高く評価されています。だから今、開発途上国でロケットの開発をやろうとしているところはペンシルの資料
がほしいと言ってきます。
そうそう、ペンシルを最初に上に打ったのは秋田県の道川という海岸なんですが、当時は追尾するアンテナが手動で
した。人間がこう構えてロケットを追いかけるんですね。だから当時とったデータを見ると、グラフが上下にぶれてい
て大変です。
その追尾する人が「練習したいんだけれど、速く走るものがないから練習できない」と言ったんです。すると糸川先
生はみんなを集めて短距離走のタイムを取った。そしたら11秒台で走るのがいて、「あなた、じゃあ海岸走りなさ
い!」と言うんです(笑)。
トランスポンダを頭に氷嚢みたいにくくりつけて、だーっと全力疾走させて、それを追尾させた。走った人はいま日
大で教授やってますけれども、「実験が始まった時は私はもう何も力が残ってなかった」と言っていました(笑)。そ
ういう、なにかこう、いつも原点に帰ったアイデアが素晴らしいですね。
台湾でロケットの開発を始めるらしいですが、アメリカに行って非常に近代化したシステムで勉強してきて、帰って
きて責任者になっていざ始めようと思うと、ゼロから出発するのでどうしたらいいかわからない。5〜6年前に台湾に
行った時にその話が出て、「アメリカになんか行ったんじゃわかりませんよ。日本に来れば、もっと遅れてるから、初
期のことを覚えている人が一杯いるから、そういう人からまず知恵を得たほうがいいですよ」という話をして、最近は
宇宙研に留学する人が増えてきました。